第13話『風邪』

 けほっ。

 そんな声が聞こえたのは、休日が待ち遠しくなる水曜日の朝だった。

 いつものように瑛人が仕事に行く準備をしていると、リビングの方から小さな咳き込みがあった。

 ネクタイを結ばず肩にかけて瑛人が顔を出すと、オサキはぼうっとした様子でまな板をじぃっと見ていた。

「おはよう」

 瑛人の声にもオサキは無言。

 何かあったのか、と眉をひそめた瑛人は、オサキの後ろに近付くと、持っていた包丁をそっと取った。

「おはよう」

 そしてもう一度。

 オサキも今度はわかったようで、

「ほにゃ!? う、うむ、おはよう瑛人! 良い朝じゃの!」

 オサキは慌てて返してきた。

 が、すぐに「あ、あれっ? 包丁が消えたのじゃ!?」などと言っているあたり、相当呆けているらしい。

 放っておけばどこまでも探しに行きそうなオサキに、瑛人は半眼で告げる。「ここだ、ここ。俺が持ってる」

「なんと!? 何故、お主が持っておるのじゃ。わしがさっきまで使っておったというのに」

 何を言っているんだこの狐は。

 包丁を手にぼうっとしていた獣が言う台詞じゃない。

 瑛人は嘆息ひとつ。

「ちょっとじっとしてろ」

 包丁をまな板の上に置き、

「にゃ、にゃにを……!?」

 オサキの前髪をかきあげ、自分のおでこをくっつけた。

「な、なななななななな!?」

 口をぱくぱくとさせているオサキをよそに、瑛人は「ふぅむ」と神妙に呻き、

「わからん。アニメとかでやってるが、これで良く体温がわかるもんだ」

 と、おでこをあっさり放した。

「お、おおおおおお主はいったい何を!?」

 ビシィっと指をさしてくるオサキに、瑛人は当然と答えた。「熱を測っていただけだ」

「ほえ、熱?」

「ああ。自覚ないのか……まぁ、いい。ほれ、体温計」

 瑛人はオサキに近くの水屋箪笥から取り出した体温計を渡す。

「風邪じゃないのか? とりあえず熱計れ。で、高かったら寝てること」

「じゃ、じゃが!」

「いいから。さっさと計れ」

 抗議を上げるオサキの脇に無理矢理体温計を突っ込み、瑛人は一息つく。

 ぶすっとした様子で、しかし体温計を挟むオサキをしばらく見ていたが、ふと思い立ったことがあり、瑛人は言った。

「狐の平均体温って、何度だ?」

「わしが知るか!」

 オサキが叫ぶと同時、体温計が音を鳴らした。

 出してみた温度は、四十度だった。

 とりあえず、

「寝ていなさい」

 今日は有給を使う日になりそうだった。


 これはただの平凡な物語。

 妖怪と添い遂げた男の、何でも無い日常の一幕である。


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