第3話 お風呂

 それは、とある日の夜のこと。

「瑛人♪ 瑛人♪」

「……妙にご機嫌だな」

 ぴょこぴょことご機嫌な様子で、オサキは目を輝かせている。

 若干の嫌な予感を抱きつつ、瑛人は口をつけていた食後のコーヒーをソーサーの上に置いた。

「お風呂埋めていいかえ?」

「えっ、それだけ?」

 そんなのボタンひとつでいつもでできるだろ。

 瑛人が浮かべた心の声は、オサキに読まれたらしい。彼女は不服だと言わんばかりに頬を大きく膨らませ、

「お主は風呂を埋める楽しさを知らんから、そんなことが言えるんじゃ!」

 いーっと舌を出す。

「いや、ってもなぁ。ボタン押すだけじゃないか」

 瑛火とオサキが住まうこの家も、多数ある家々と同じく給湯器を利用している。湯を張れば自動で保温してくれるし、お湯だってすぐに出る。別段楽しいことなんて何もないはずだが……。

「たわけ! そのボタンを押したいのじゃ」

「子供か」

 半眼で告げると、オサキはぷいとそっぽを向いた。

(あー、やっちゃったかこれ)

 ヘソを曲げられると、後が面倒だ。

 瑛人はゆっくりと揺れる尻尾に向かって、

「あー、俺はもう押しまくって飽きてるからなぁ。だれか楽しさを教えてくれないかなー」

 ぴく、とオサキの尻尾が反応する。

 わかりやすいな。

 瑛人は苦笑を浮かべる。

「し、仕方ないのぉ。そんな瑛人に、わしが楽しさを思い出させてやろうではないか」

 むふふん、と顔を赤くしながら得意げな様子のオサキは、

「近う寄れ。一緒に押せぬではないか」

 と子供のようなあどけない笑みを浮かべている。

「はいはい」

 嘆息ひとつ。

 たまにはいいか。

 そんなことを思いつつ、瑛人はオサキと一緒に、〝湯張り〟と書かれたボタンを押した。


 これはただの平凡な物語。

 妖怪と添い遂げた男の、何でも無い日常の一幕である。

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