シエルがソフィアを育てていた……その理由は、コウガでも容易に想像できる。

 ソフィアは父親……バーンに疎まれていた。バーンに裏切られて殺されたシエルにしてみれば、憎い仇の娘と言うよりは、自分に近しい存在に思えたのかもしれない。

 月読の森は、死の森と化していた。集落の人間はもちろん、大型の動物や小動物にいたるまで、すべて、干からびたミイラとなって、地面に転がっている。

 妖魔の仕業であることは、間違いがない。

 そして、話に聞く限り、十中八九……。

「シエル……」

 かつて、ソフィアが暮らしていた簡素な小屋に入ると、男が一人、寝台の上に、気だるそうに横になっていた。

 近づいたコウガの気配を察してか、シエルはうっすらと銀の目を開け、そして、その手をコウガにゆっくりと伸ばし、首に手を回す。

 妖魔の王の冷たい指先が、首筋に触れた。

「そなた、何故、生気が抜けぬ?」

 コウガの背筋に、電気が走ったような気がした。

「シエル……オレが、わからないのか?」

 コウガの言葉に、シエルはいぶかしげにコウガを見上げた。そして、やっと彼が誰であるのか気がついたのか、クスクスと笑い出した。

「これはこれは、聖闘士殿。あいすまぬ。……捕食対象の人間の顔など、いちいち記憶しておらぬからな」

 相変わらず、言葉と表情と内包する感情がちぐはぐなシエルに、コウガの良心がずきりと痛む。

 彼の目尻には、涙のあとがしっかりと残っていた。が、彼は泣いているのではない。怒っている……そう、コウガの直感が告げる。

「これは、復讐か?」

 コウガの問いに、シエルは否、と、即答した。

「これは、盟約だ」

 盟約……。シエルの言葉に、コウガの言葉が詰まる。真っ先に脳裏をよぎるのは、ミレイとの、「約束」。

 自分が妖魔の王に嫁ぐかわり、「息子」には幸せを……ヒトとしての天寿を全うさせること。もし、夫のように途中で命が奪われるようなことあれば、自分自身が破壊の手となり、ヒトを滅ぼしてやる……。彼女はそう言って、嫁いでいった。

 まさか……。

「ワタルは……」

「ワタル? あぁ、ワタル=セレニタスなら、我が愛しの妻が、保護をしているよ」

 シエルの言葉に、コウガはほっと一安心したように息を吐いた。が、そんな彼に、シエルは淡々と、他人事のように事実を告げる。

「もっとも、心身ともに、五体満足な状況ではないけれど」

「何?」

「「生きてはいる」。が、それだけだ。手足を切断され、心を壊され……我が妻の怒りがどれほどのものか、アリストリアルの惨状をみれば、よくわかるであろう?」

 コウガは唇を噛んだ。生死不明の養い子が生きているということが解ったことはは喜ばしいことだが、彼が酷い状態であること、さらにアリストリアル方面の妖魔の指揮官が予想通りミレイであることと、不穏な事実が盛りだくさんだ。

 加えて、あくまでも無表情で、淡々と語ってはいるものの、シエルの心情が穏やかであるはずもない。

 頭が痛くなってきた……ため息を吐きながら、腹をくくり、コウガはシエルにきりだした。

「さっきの話でお前がここにいるってことは、ソフィアとも何か「約束」、してたのか?」

 ざわり……コウガの言葉に反応するように、暗闇からなにかがうごめく気配がする。闇の精霊……あの時の記憶が、コウガの脳裏をよぎった。

「幸せ……に……」

 ぽつり……と、シエルがつぶやく。それは、実にか細く、今にも途切れそうな声だった。

「「必ず、幸せになる」と、あやつは言った。だから、我はあやつを手放し、人の元へ返した……だが……それは、大きな間違いだったようだ……」

 バキッ……と、床が音を立てて割れた。うぞうぞと不気味に室内に闇が満ちて、質量を増している。

 シエルの両目からは涙があふれ、はらはらと闇に溶ける。だが、その表情は実に清々しく、なにか吹っ切れたような顔をしていた。

「だから、あやつが死んだ今、我はあやつとの盟約を果たす。あやつが愛し、そのあやつを裏切った民など、我らが喰らいつくしてくれるわ!」

「……個人的には賛成なんだけど、でも、今はダメだ。シエル……」

 コウガの言葉に、シエルは訝しげに眉をひそめた。

「シエル。よくきいて。……ソフィアは、確かに助けられなかった。そこは、オレの力不足だ。オレ個人なら、どんなに恨んでも構わない。でも、ソフィアの「息子」なら、無事だ。生きてる。……怪我はしてるけど持ち直した。命に別状はないって」

 数日前、コウガが命からがら抱えて逃げ、助けた、男女の子ども。

 あの右腕を失った男児は、ベイタロト=ルドルディ……ソフィアの四人の子どものうちの、二番目の息子である。

「シエル……君は、そんな彼女の息子も、食べるつもりなの?」

「……」

 初めて、シエルの感情と表情が一致したような気がした。ギリッと奥歯を噛み、恨みのこもった視線でコウガを睨んだ。

「……できない、よね? どんなになっても君は本当に、優しいから」

 バンッ……コウガの耳に近いところで破裂音が響く。ふと視線を音のしたほうに向けると、自分の右腕が、ちぎれてぶらりと垂れ下がっていた。

「それ以上、喋るな!」

 床に広がる闇が、コウガの足にまとわりつく。

「何度もいうが、シエル=セレニタスは貴様らが殺した。……我が優しい、だと? 自分が壊されても、なお、そう言えるのか?」

 ギリギリと闇が、コウガの身体を締め上げた。鋼の骨格が軋み、断線したケーブルから火花が弾ける。

 しかし、コウガの顔には笑みが浮かんでいた。彼の意図はわからないが、その笑みは間違いなく、シエルの怒りの火に油を注ぐ。

「……」

 シエルは無言でコウガの頭をつかみ、そして、その首を捻じ切った。

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