猛獣を囲う檻
僕は家の前でウロウロしていた、行き来の時間を含めて1時間と少し。6時を回ってまだ早い。直ぐに入って準備をすれば学校にも余裕を持って間に合うだろう。
そんな足を、一歩を鈍らせるのは後悔と緊張。親に今さっき起きた出来事を説明できる自信がなかった。先ず間違いなく戦ったことは言えない、言いたくない。ではなんと言えばいいのか。昔小学校で悪戯をして教師に怒られ、それを帰って親に報告しなければいけなかった時。今と同じようにこうして家の前を行ったり来たりしていた。
家出などしたことも、する勇気もない。そもそも行く宛もない、家に泊めてくれそうな友人は真司ぐらいか。けどその真司の家にも一度しか行ったことがない。現実逃避は止めて家に入る決心をしなければ。
そう思っている間に家のドアが開いた、父が姿を見せた。スーツを着ているので出かける、そんな時間だ。隠れるか迷って、中途半端に体を塀に閉まったが目があった。慌てて振り返り母を呼んだ、そして駆け足で近づいてきた。
「どこに行っていたんだ!」
怒られることを覚悟したが、父の顔は想像していたものと大きく違った。垂れ下がった眉と悲しそうな目。そして安堵の息。自分が思うよりも余程心配を掛けていたのだと理解した。直ぐに母も出て来て首根っこを掴まれた。
「こんな時になんで飛び出したのさ!死にたいのかい!」
「まあまあ、母さん」
父の精一杯の援護も虚しく、引きずられ家に入る。食卓に座り説明を求められた。
必死に絞り出した言い訳は、鷹科に襲われた時に大事なものを落としたという事にした。大事なものが何かということもそうだが、話全体が出ていった時の様子を納得させるには不十分なものだろう。
けれども母も父もそれ以上問わなかった、それは言葉の表面よりも僕が内心に隠した気持ちを思ってのことだろう。今以上に心配を掛けることの罪悪感はあるが、一先ずこの場が修まったことに安堵した。
早起きの甲斐もあり、その後つつがなく支度を終え、家を出る時間はいつもと同じ程度になった。テレビでは引き続き事件の模様を伝えていたが、以後変化はなかった。あの負傷では少なくとも近日中は大人しいだろう。
しかしその後、あいつが再び動き出した時僕はどうなる、『俺』はどうする。
終ぞ自覚せざるを得ないと判断した心の中、『本能』とも言える感情。普段は理性が優先されるが、危機、特に生命が脅かされると顕著になる。熱情が湧き上がり俺は現れる。いずれそれに支配されるのでは、本性が剥き出しになるのが怖い。けど否定できはしない、あれは間違いなく自分。それもなにかこの力の発露とは関係ない。恐らく生まれた時からあった自分。
それは親から授かったのか、それとも僕だけが異常なのか。わからないがこれは今の、平和を望む僕には不要な部分。そうこんな心は必要……。
無いと言いきれない、捨てることが出来ないことが尚の事恐ろしい。そう鬱屈した気持ちを引きずり学校へと歩く。
「おい!なに下見て歩いてるんだ!」
「おげっ」
尻に痛み、蹴られた感触。振り向かないでも分かる、こんなことをするのは一人。
「痛いよ」
「寧ろ感謝してほしいね、私じゃなかったら即死だったよ」
「花楓とは生きている世界が違うみたいだ」
「いやいや、それは猛の警戒が足りないよ」
「「……」」
笑い合う所なのだが、タイミングが悪い。今は冗談にならない。お互いにいつものノリで言ったのだが、それぞれが後悔する。
「テレビ、見た?見たよね、あれってさ」
「……鷹科、だろうね。間違いなく」
彼女に本音を言おうか悩んだが、言えなかった。戦ったまではまだいい、その後のことは絶対に言えない。それはきっと彼女との今を壊すには十分なこと。
「でも今はどこかにいったってさ」
「大丈夫、あいつは来ない」
つい言ってしまった、彼女の不安を消すにはそれだけは伝えなくては、でもそれはつまり。
「なにか知っているの」
「会った、だからもう大丈夫」
これが限界、後のことは聞かれても答えるつもりはない。彼女もそれを感じてか「ならよかった」の一言でこの話は終わった。
それからは別の、いつもの他愛ないことを話して歩いた。今日は真司にも会って久しぶりに三人での登校。以前はそれ程珍しくもなかったが、最近、主に僕の入院があって揃い踏みはなかった。
「おい聞いたか、今度は少し離れたところで出たんだってな通り魔。もう通り魔どころじゃないらしいけど、テロかなぁ。嫌だね」
「……」
「そんな話いいから、今日の小テストの心配でもしてなよ。前、赤点ギリギリだったじゃん」
「お、おう。思い出させるなよ。今回は大丈夫だ、前のところは苦手な所だったからな、大丈夫だ赤点は……、きっとない。多分」
「本当?まあ大して興味もないけどさ」
「酷い!じゃなんで聞いたの!?」
つい黙ってしまったのを花楓がフォローしてくれた。後でお礼言わないと。
教室に着いたら入り口で冴島と会った。すれ違ったのだが肩がぶつかってしまった。
「痛てっ!」
僅かに掠った程度だったのだが、冴島は大きく弾かれ廊下を転がった。唖然としていた僕と冴島だが他の生徒が見ている中なのもあるが、冴島は顔を朱に染め立ち上がって近づいてくる。
胸ぐらを掴んで怒鳴りつける。
「おい!なにしてくれてんだ」
最近はすっかり関わらなくなっていたが、恥をかかされたとあっては黙ってはいられなかったようだ。
僕も今のは予期できなかったこととはいえ、多分こちらが悪いのだろう。ここまで力加減が必要だとは思いもよらなかった。
先ずは一言謝ろうとしたが襟を掴んでいた冴島の手が離れ、その手が握られた。そして構えた所で急に意識が変わる。
「やってみろよ」
「へぁ……?」
尻込みする冴島、彼は困惑していた。今目の前にいるのは本当に道影猛か?まるで怪物にでも睨まれたかのように足が震え肌は粟立つ。後ずさるが足がもつれ尻餅をついてしまう。
恥ずかしむ余裕など無い、最後の意地で立ち上がり踵を返して立ち去る。そして見えなくなるとどよめきが起きた、男子生徒の中には好奇の目を向けているが多くは動揺。
冴島は悪目立ちするため、その悪行を知るものは多かった。それがああも狼狽えたのだ、騒ぐのも無理はない。
僕はその目に耐えきれずにその場を離れる、廊下の前の広い場所まで逃げてきて頭を抱えたくなる。こうも変わるものか、朝の一件で心が均整を失うとは。このままでは本当に一般社会で生きられなくなりそうだ。
思い悩んでいると花楓が追ってきた。
「大丈夫?」
「……ごめん。昨日約束したばかりなのに」
「そうだね、驚いたよ。でも今はいつもの様子に見える、あれは猛の意志ではないんだよね」
「それは」
違うと言えない、確かにイラッとしたのは事実。あそこまで驚かすつもりはなかったのも事実。
けれども今の僕は少しも後悔していなかった。それは自身の心が如実に示している。それを理性が苛んでいるのが現状。つまり『俺』はこれでいいと思っている。それは本音と言えよう。
答えられずにいる僕を見てどう思ったのか、花楓はじっと見ているだけだった。
居た堪れなくなり、黙ったままその場を去り僕は学校を出た。自分がわからなくなってきた。
帰るのも憚れたので校舎の周りを彷徨いていたら、今は使われていない武道場があった。
なにも考えずに入った、使われなくなったのは最近。武術を教えられる教員がいなくなったので閉じただけなので特に汚くはなかった。
そして何の気なしに道場に入ると先客がいた。
「あ?誰だ」
わかりやすい不良、七人もいる殆どが下は制服だが上は適当なTシャツ。髪は染め手にはタバコ。床には酒と不良が備えるべきものを全て持ったかのような人間達。
「邪魔だ、出て行けや」
「チクるんじゃねえぞ、そしたら殺すからな」
稚拙な脅し。本当にステレオタイプの不良、だからこそ普通の生徒には恐ろしく映るのだ。けれども今の僕にとっては痛痒に値しなかった、これとは比較にならないほど凶悪な存在と今朝会ったばかりなのだから。
それが顔に出ていたのか、ムッとした一人。黒いハネた髪の前一部が赤く染められている。
「ムカつく目してやがる、気が変わった。あるだけ置いてけや」
「なにをですか」
一切怖がっていないのが癇に障ったのか顔を殴られた。
「立場ってものを理解しろよ、お前見てえなカスがイキるとどうなるかわからせてやろうか?」
「いぎぁあ!」
「は?――」
僕が呻き声を上げた直後に目の前の不良が吹き飛んだ、後ろにいる不良らの真ん中に落ちて動かない。面白げに眺めていた者、興味なく酒を飲み転がっていた者参加しようか迷っていた者。全てが唖然とした。
「ふぅ、ふぅ……。はぁ、駄目だ、これは」
「おい……、おい!なにしやがっ――」
「黙れ」
雰囲気が変わる。先程の冴島と同様、蛇に睨まれたかのように動けなくなる彼ら。冷や汗が吹き出る。
これはもう駄目だ。今の僕は俺を抑えられない。この衝動を、だからすまない。知らない人達。
「すぐに終わらせるから、許してくれ……」
「なんだこいつ!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
道を塀伝いに歩く、吐きそうだ。既に少し戻した後だが。
僕も、俺もそうだ。あんなのは望んでいない、僕が悪いのだ。無理に押さえつけようとした、そして簡単に捌け口を求めた。だから彼らを犠牲にした、死んだ者は流石にいない。だがそれ以外は保証できない、自分との戦いに気を取られてこそいたが加減はした筈だ。
自分を責めているのはどちらかと言えば俺だ。あんなのは俺の求めるものには程遠い、明らかな格下。必要のない暴虐はしたくない。それは自分の力を汚す行いだから、自分の目指す所に塵程も必要ないから。
侮りも侮蔑も要らない、そんなものは頂点に至るにはなんの足しにもならない。目指す場所は一つでそれには曇りない進歩、向上あるのみ。
僕は俺を尊敬する、けれどもそれは僕が求めるものからはかけ離れる行動でしかない。
しかし今、目指す場所。今この状態の自分は何処に行けばいいのだろう。ここはどこだろう、無意識に人を避けていたから判然としない。道路標識等で確認した所、中心街からは遠く離れた地域まで来ていた。この体はまるで疲労しないから想像以上に歩いていたこと気が付かなかった。
建物の感覚が広くなってきた、この先は山道に繋がっている。他の街に行くには通らない為車通りも少ない。通行人も少ないので人の多い街に慣れた身としては淋しげだが、引っ越して来る前の地を思い出すような静かな所だ。
だが徐々に違和感が強まる、あまりにも人が見当たらなさ過ぎる。生活音のようなものも聞こえてこない、ただ風の音しか無い。漸く異常だと思い出して感覚を研ぎ澄ます、今の僕なら十数メートル範囲の気配に鋭敏になれる。
そして近くの空いているテナント、2階建てのペンキの剥がれが目立つ、ピンク色の平たい建物。恐らくその中に何かいる。慎重に近寄ると逆に中から人が出てきた。
それは、一目見て警戒に値する集団だった。まるで化学薬品を扱うような全身を包む黒い作業着、顔にはガスマスクに酷似している黒い面。違うのは上下に横に伸びている四本のケーブル。目の所の透明のゴーグルが明滅している。
「誰?」
コー、というくぐもった呼吸音のみが聞える。目の前には四人、だがそれ以上の気配。
「うがっ」
首の裏に熱い衝撃、脳に響く振動。手足が一瞬痙攣した。屈み込んで後ろを見ると白人の女と目があった。その女は僕が今までに見たことのない瞳をしていた。ブロンドの髪を靡かせライダースーツを着込んだ女の目は僕を見下すでもない、嘲るでもない。ただ興味なさげに見下ろすだけ。特に選びようの無い商品を手に取る様な顔。
目の前がチカチカするが握りこぶしを作り、歯を食いしばり立ち上がる。しかし左右、別の建物の影からワイヤーが飛んできて体に巻き付いた。見ると同じような作業着の者がそれぞれ二人ずついる。随分な手の込みようだ、あまりにも準備が良すぎやしないか。
腕に力を入れて逃れようとするがびくともしない。すると前の一人が初めて口を開いた。
「アー、無駄デス。ソレ強化繊維ノワイヤーデス。象デモ千切レナイ」
片言で話す、声からすると男。こいつも外人だろうか、ここで一体何を。
「お前たち、なんの用だ」
「チョト、ツイテキテ貰イマス」
「嫌なんだけど?」
「駄目デス、ソシタラ殺シマス」
「僕を?」
「全員、デス。アナタニ繋ガル人全部」
巫山戯るなと叫ぼうとした所に二度目の、恐らく電撃が体を襲った。うつ伏せに倒れると手早く目張りされたワゴン車に乗せられた。中には夥しい計器やモニターが設置されており画面にはここら一体、中心街から住宅地まで次々に映し出されている。
なんどか藻掻いたがその度に電撃を喰らうのでやがて諦め、成り行きに任せることにした。『俺』は暴れ出さない、僕も力を振るうことを恐れているので取り敢えずはされるがままだ。
何処に行くのか、乗っているだけではわからない。映画にあるような曲がった感覚だけでわかるような特殊能力は有していない。ただ何度か、立て続けに下るような感覚。登った回数より多いので多分地下。
顔に袋を被せられ通されたのはガラス張りの四角い広間、教室ほどの広さの白い床。腕と足には念入りに枷が嵌められている。
訳も分からず立ち尽くしていると正面のガラス越しに先程の男たちとマスクをしていない幾人かが寄ってきた。
「こんにちは」
「……」
「申し訳ないね、こんな招待の仕方をして」
スーツ姿のアジア人の男、黒髪を綺麗に後ろにセットしたそれは三十代程に見えるが、周りの反応を見るにこの中だと最も立場が上のようだ。そいつは開口一番に謝罪の言葉を述べたが、そこに心は一つも篭っていない。
「何のつもりでこんなことをしたんですか」
「理由は一つしか無いと思わないかい、君はもう気づいている筈だが」
「さっきの女の人も僕と同じ?」
「そのことの説明はやや難しいのだがね、まあ大きな括りではそうなる」
「これからどうするつもりですか」
「君次第だよ」
男の表情は一切動かない、内心はわからないがこいつは僕のことを見下している。まるで実験動物のような扱いにむかっ腹が立つ。
「近年、具体的に言うと26年前から人類の一部に傑出した者が現れ始めた。それらは個々に特別な力を持った者たちだった。我々はそういった者が世に悪影響を与えないために結成された組織だ」
「僕もその一員になれと」
「だから君次第だ、よく勘違いする者がいるが君たちは自分が思うほど絶対的な存在じゃないんだ。最近君が戦った彼、今頃我々のエージェントに捕まっているだろう。それらは特別な力を持たない只の人間だ。準備さえあれば殺すことは容易なのだよ」
脅しですらない、淡々と事実を述べているだけ。業務連絡のような口調だ。そして鷹科が捕まる、あれほどの力を持っても一人の人間。出来ることは多くはないということか。
「なのでこちらが提案するのは、恭順するか否か。断ればその部屋に強力なガスが流れ込むようになっている、君は異常な生命力を持っているが、数秒と保たないだろう」
「恭順したらどうなるの?」
「我々の管理下に置かれる、その力を有益なものへと昇華することを約束しよう」
「家族は、父さんと母さんは」
「断れば消す、首を立てに振ればこちらの保護化に置き安全を約束しよう。我々に敵対する者達からも守ると誓おう」
最早語るに値しない、答えは一つしか無いようだ。
笑えてくる、なんと呆気ない平穏だったのだろうか。こんな少しの時間で何もかもがぶち壊しだ。この先の未来も、今の学校生活も絶たれたに等しい。このままこいつらの道具として扱われるのか、それがどんなものかはわからない。けれども奴の横に立っている、先程の電撃女の顔を見れば一目瞭然。碌な事ではなさそうだ。
両親の命を秤にかけられて、断れる訳もない。膝をつき頭を垂れた。そして一言、恭順を示す言葉を発すればそれで終わりだ。
「……」
「どうした?決めたのではないのかね、こちらとしては拒否されても構わないのだが」
顔を上げた僕は諦めた顔をしていた、諦めたのは今ではなくもっと先の話。
これから僕はどうしようもない屑になる、親の命を投げ捨てそして同時に自分の命をも投げ出す愚か者になる。ちっぽけなプライド、僕の根幹をなす部分がこの状況においての最悪手を選ばせた。
ごめんなさい父さん母さん、本当のことを言えなくて。ごめん花楓、約束を守れなくて。
「嫌だ、俺はそんなくだらないことに興味はない」
「そうか」
端にある排気口から空気が出る音がする、その毒ガスとやらだろう。無駄だと分かりつつも息を止めてみるが、目が痛み、耳鳴りがする。あっという間に全身に痺れが起きる。口の端から泡を吹き悶絶する。手足が縛られているので芋虫のように藻掻くだけ。奴らはただその様子を眺めているだけ。
地獄の時間は短く、それでいてその一瞬が俺の全神経を苛む。四肢に力を込めるが金属の枷は壊れそうにもない。
最後の抵抗とばかりに睨みつけるが意に介していない奴ら、そして言われた通り十秒も持たずに意識が切れていく。
櫛貞(くしさだ)、はこの組織の責任者。32歳と若くしてその地位まで着いたのは只管に彼の努力によるものだ。
組織は数も名も多く、どれが本当でもなく全て本物である。ここは商業ビルの地下であり、そこから横に伸びて別の建物と繋がっている。行政は知らないが一部の権力者が可能にしている。それらはスポンサーでもある。
現在彼らは似た組織との勢力争いにおいて後塵を拝している。それは彼らが質を重視しているためだ。コントロールの出来ない兵器は要らない。なので従わない者は他の組織に渡らぬように処分する。
櫛貞はその判断が出来る、猛のような存在を人と思わず殺す決断が出来る。
最近はこちらに従わぬ者が多い、この街にも与する者は居なかった。特にあの鷹科とかいうのは最悪だ、あれ程目立っては隠匿に苦労する。
この少年、道影猛という名の者も外れだった。何を思ったのか、断るなどと。力に溺れていたようには見えなかった、寧ろ珍しいほどに大人しい者だと聞いていた。この位の少年は得てして損得勘定が出来ない、一時の感情に身を任せる愚かな者が一定数いる。それなのだろう。
ガスが引くにはまだ時間が掛かる。この街での仕事は終わった、痕跡を残さぬようにしてこの施設を放棄しなくては。その指示をしようと横の者を見ると、まだ中を見ていた。最早見るべきものなど無いだろうに、声をかけ直ぐに行動するよう言い渡さねば。
だが彼らが後ずさった、そして中を指差す。疑問に思い私も中を見た。
「なんだ、どうして動いている?」
少年が生きて動いている、鈍い動きで這うようだが死んでいない。地球上の生物で殺せぬものはいない程の強力な毒。それを濃縮した劇物中の劇物。あれの生命力を考慮して念入れに用意させたもの。それで何故即死しない、何故動ける?
思っても見なかった光景に頬から冷や汗が垂れる。
万が一に備え、横のベルカに戦闘待機させる。金髪のエージェントは見惚れる程の美貌だが我々のプログラムを経た結果、感情を失い従順な戦士となった。それが小さく頷き離れていく。
油断なく観察を続ける、目や耳から血が滴っている。口から泡を垂らしながら蹲っている。全身が強張り必死に堪えているようだ。追加でガスを流すように伝える。
信じがたい強靭さ、推測したデータを上回るほど。私は今までにない、初めての事態に困惑していた。
耐え難い苦痛、我慢ならぬ屈辱。身を蝕む猛毒に対する怒り。
全て、乗り越えてみせよう。その程度が出来なくて何が頂点か、容易く越えてみせようではないか。僕には出来ないが俺には出来る。いいや、僕にだって出来る。けれど俺はもっと素直、僕は殻だ。俺というどうしようもない人間を覆い隠す殻。周りの人間に触れ、僕という存在が生まれた。俺は本来そのまま表に出ず一生を終えただろう。
きっと俺は待っていた、知っていた。自分の力を、この時を。
大きく息を吐き、そして強く吸い込む。このガスは大した物だ、最早これまでと俺に一瞬でも思わせたのだから。だが足りない、俺を毒殺するのに『十数秒も』与えてしまうなど。俺を殺したくば一瞬だ、瞬きの間に息の根を止めてみせろ。そうしたらば俺も終わっていただろう。……ああ、少し呼吸も楽になってきた。
立ち上がり鏡の向こうを見る、驚く複数の顔があった。どうやら想像だにしていなかったらしい。
次に邪魔なのは枷だ。これも只の金属ではないのだろう、生半には千切れない。毒には耐えてみせたが今の弱った体ではどうにもならない。
目鼻から血を滴らせ思案する、すると再びガスが流れてくる音がする。学習能力がないのか、これはもう無意味だというのに。
今度は毒にたじろぐこともなく前の男に尋ねる。
「で、次はどうするんだ?」
「……気が変わったなら聞き入れるが」
「詰まらない答えだ、やはりお前たちには魅力を感じないな」
そう言いながらガラスに向かって歩く、手足が封じられている。だから俺は頭を打ち付けた。鈍い激突音が響き額から出血する、鼻血等と相まって顔面が血だらけだ。
けれど意に介せずまたぶつかる、二度三度。四度目で手応えが変わった。しなるような感触。振動も強くなる、体を後ろに反らせ一際強く当たると僅かに傷がついた。
あと少しだ、そう思い止めの一撃をとした時に後方から接近するものが。
振り返るよりも先に衝撃が、枷のお陰で棒立ちのまま倒された。見ればここの奴らの作業着とマスクをした者。よくよく観察するとそれよりも丈夫そうな素材。
顔が隠されているが、今の攻撃だけで中身は察せれる。
倒れたまま見上げて話しかける。
「また君か、名前を聞いてもいいかい?俺は道影猛」
返事はなくそのまま蹴りが飛んできた、転がって躱すがどう考えても不利な状況。更に彼女の手には銃。日本の警察が持つようなものではなく、殺傷力の高そうなライフル銃。
こちらへの警戒か、追撃はその銃を使って行われた。
尺取り虫のように跳ねて距離を取るが、銃弾は容赦なく向かってくる。
脳を飛ばされたら今は危ない、腕で覆い受ける。弾丸は体に幾つも食い込み、手足が爆ぜる。衝撃で壁に打ち付けられた。
「痛い。今朝もそうだけれど、今まで喧嘩なんてしたこと無いのに。急にこれはないよ」
そう言いながら立ち上がった。
「けどお陰で取れたよ、ありがとう」
枷を地面に落とす。手足が破損し小さくなった分、隙間が出来た。指は今にも取れそうだが、その内くっ付くから気にしない。刺すような痛みも俺には問題にならない。
「それでどうするの、まだ戦うの――」
話している途中にも関わらず発砲してきた、人間味の薄い人だ。屈んで接近する。銃弾が背中を掠めるが、直撃する角度になる前に接近しきる。
首を掴んで投げ飛ばす、そうシミュレーションしたのだが。
目の前から彼女が消えると背中に痛み、そのまま前に進み振り返る。当然の如く居たのは今、目の前にいた女。
テレポート、そういった類のものだろう。厄介ではある。
だが彼女も気が付いているだろう、もう電撃は効かないと。
「もういいかな、どうせ結果は見えてるよ。君も死にたくはないでしょ?」
「……」
意思疎通できている気がしない、まるで機械のようだ。そう思えば動きも精密で無駄がない、相当の訓練の賜物か。
こちらは反対に無駄だらけ、振りも大きく狙いはアバウト。
テレポートを繰り返す彼女にこちらの攻撃は一つも当たらない。
だが向こうがレーシングカーならこっちは重機。当たればそれで終わり、向こうの攻撃はダメージにならない。
千日手になろうかという時に外から声がかかる。
「取り込み中に申し訳ないが、伝えなくてはいけないことがある」
「なにを」
「この施設は放棄することになっていたのだが、その日時を早めることが決まった」
「それで?」
「これから始めるので、そのまま生き埋めになって欲しい」
「嫌なんだけれども、それにここには彼女もいるけれど」
横のロボット女を見ながら尋ねる。
「残念だが決定事項だ、彼女は君を繋ぎ止める役目がある」
「随分と人道的な組織だこと」
「そうだとも、私たちは『人間』のために日夜奔走しているのだ」
実に気に入らない男に飛びかかる、彼女がそれを阻止する。電撃は耐えれるようになったが、攻撃の速度はこちらよりも圧倒的に上。テレポートもそうだが、基本的に彼女が異常に速い。
手をこまねいている内にガラスの奥にシャッターが降りていった。
あの少年の力を測り間違えたのは大きな誤算だった、もっと時間を掛けて施設を放棄。隠蔽工作を徹底する予定だったのに、乱暴な方法だが決してこちらの動きを悟られないようにデータを廃棄せねば。
私と数名は先に撤退してもう一つの部署へと連絡をする、機密保護及びリスク管理の都合で施設内では通信機器が使えないのは仕方がないとはいえ手間だ。
廊下を移動し、エレベーターへと向かう途中、大きな揺れがあった。
「よもやもう廃棄を始めた訳ではあるまい?地震か」
「ハズレ」
櫛貞が横を見た。同時に壁が砕けてあの少年が、道影が現れた。
頬から血を流し服も破れており満身創痍に見えるが顔つきは、眼はその逆。
多くの異能力者を見てきた櫛貞をもって後ずさり、圧倒される気配。風格。今までの者とは違う、これはそれらよりも更に上の。
予定通り、施設は廃棄された。ただしそこから脱出した者はただ一人を除いていない。
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