目覚め
あれから気がつくと僕は病院にいた。両親が横で座っており、目が合うと跳ね起き近づいてきて強く抱きしめられた。
それから暫し感動していた両親だが、落ち着いたところで話を聞く。あの後どうなったのか。
説明は明瞭。誰か――恐らく神鳴達、が警察を呼び不審な男と僕はその場で倒れていた。
警察が到着した時には通報者たちは立ち去っており、姿はなかった。
そして両者が病院に運ばれ、男は死亡が確認、僕は原因不明の昏睡状態だった。
丸二日気を失っていたらしく、相当心配をかけたようだった。その後精密検査を受けたが後遺症などは見当たらなく、同時に倒れた理由も見つからなかった。
過度の恐怖による失神、その際の頭部の強打による意識喪失。そう結論付けられた。
……実際には頭部の怪我はそれほどのものでは無かった訳だが。
その後警察から事情を聞かれ、見たままの説明をした。
顔面を掴まれ体が熱くなったことも話したが、恐怖でそう感じたのではと言われただけだった。
それでは説明がつかないほどの感覚だったのだが、信じてもらえないのを理解したのでそれ以上は言わなかった。
僕自身時間の経過とともに幻だったのではと思い始めていたから。
ただ一つだけ、その事件から変わったこと。気になることがある。
『調子が良すぎる』のだ。それだけだと健康なので結構なのだが、妙に体が軽い。
今ならば大概の運動を人並み異常、それ以上のレベルでこなせる気がしている。
昏睡からの復帰で体を十二分に休ませた結果とも取れなくはないが……。
「おぉ!猛だ、おはよう」
「花楓、久しぶり」
久しぶり、念のために一日の療養と休日を挟んだので5日ぶり、週明けの再会。
いつもと変わらない笑顔、彼女は心配してくれていたのだろうか。
「思ったより元気そうだね」
「まあ、目が覚めた直後も特に問題は無かったんだけれど」
「そうなんだ、皆心配してたよ?」
「皆って。僕、友達碌にいないけど……」
「流石に通り魔に襲われて昏睡じゃあ心配もされるよ」
「それもそうか――」
「おお、猛だ!生きてたか」
7時の方向から声。聞き馴染みのあるその声は。
「死なないよ、別に刺されたわけでも無いんだから」
「いやいや、そんなのわからないって」
加賀美真司(かがみしんじ)、その数少ない友人が現れた。
花楓は家も近いが、真司はそうでなく学校の近くに住んでいるので、駅を降りた後に偶に会う。
茶髪で髪を綺麗にセットしており、所謂チャラ男的な見た目。軽い性格だが意外と女子には奥手。一度意を決して告白し、見事玉砕してからは凹み未だに少し引きずっている。
「でも良かったね、花楓さん」
「え?」
「あ、ちょっと黙ってて……」
「花楓さん、お前が倒れたって聞いてから元気なかったんだよ。でも二人共元気になったみたいで良かった良かった」
「ちょー!」
「うぎゃぴ」
奇妙な呻き声を上げた真司。顔を赤くした花楓が真司の頭部にチョップをしたのだ。結構な勢いがあったのでダメージは大きそうだ。
「あ、ごめん。少し強かった?」
「んげ、痛い……。花楓さん必死すぎ」
「はは、二人共心配してくれて嬉しいよ」
学校に行くまでのこの僅かな時間は、下校後の時に次いで貴重な平和だ。
そして残念ながらその時間はもう終わりそうだ。
「はあ……」
「おいおい、ため息吐くなよ。少しいなかったからあいつらも違う奴に絡むかもよ?」
「楽観出来ないよ、年度またいでも忘れない奴らなんだから」
「まあ、またなんかされたらアタシたちで慰めてあげるから!」
助けてはくれない、んだよね。僕も助けられないと思うけどさ。
3階の教室に入るとやはりと言うべきか、あいつらがいた。
「あ、猛じゃん。どうした、今回は病人キャラか?」
凄い、出会い頭に煽れるこの精神には感動すら覚える。
冴島、内藤、屋久島の3人。いつも一緒に居るこいつらが僕の宿敵だ。
心のなかではいくらでも悪態をつけるが、見事に軽薄そうな顔だ。
それでいて全員が彼女持ちなのだから、日本の将来が心配だ。
「違うよ、本当に倒れて――」
「それで、通り魔の前にも言ったのか?『フフフ、そう思うかい?』ってさ」
そんな台詞は言っていない、近いことは言ってはいたが。
出来れば彼らにもあの男を見せてやりたい、そうしたらそんなおちゃらけた発言も出ないだろう。
やがて担任が来たので席に着く、幸いにも席は離れているので授業中は迷惑を被らなくて済む。
そんなこんなで昼休みまで偶に煽られながら過ごして、真司と昼飯を食べていると教室がざわついた。
神鳴が入り口に立っていた。珍しく来ていたらしい。あの時の怪我が癒えていないのか、頬にガーゼを貼っている。
「おい、お前」
「……へっ?」
神鳴がこちらを向いて話した。まさか僕じゃないよな。
「無視すんな、お前だよ。……猛、とか言ったか」
「あ、はい」
僕だった、呼び出され彼らが時折使っている空き教室に入った。
どこから手に入れたのかソファがあり、バンドのステッカーや趣味の私物が置かれまるで勉強をしに来ている気はないらしい。
そんなことを思い現実逃避していると、そのソファに座らされた。
決して座り心地が良いとはいえないが、言えるはずもなし。神鳴も向かいのもう一つのソファに座る。
着崩した学ランの上着を脱いで横に放り、足を組んで話しだした。
「……で、どうなった?」
「え?」
質問になっていない、もっと詳しく。
「神鳴、それじゃわからんだろ」
横から仲間が指摘する。ありがとう、誰か。
「あー、そうか?そうだな、お前。あの男に掴まれた後どうなった?」
「どうって……?」
「お前気づいてなかったのか?あの時お前赤く『光って』たんだぞ」
「え、そうなのですか?」
顔を掴まれていたのだ、自分の体が見える訳もなし。光っていた、何故?
「あの野郎、普通じゃなかった。只の裏拳であんなに吹っ飛ぶ訳がない、そいつに何かされたんだ、おかしな事があっても不思議じゃねえ」
「と言われても」
すこぶる健康になりました、と正直に言ったものか。いや怖いので止めておこう。
「糞、あの野郎。そのままおっ死にやがって」
「……」
「じゃあ、まあいいや。もう良い」
「はい……」
言われるがままに出る。怖かったが、意外と何もなかった。
只わからない。光った?ホタルじゃあるまい。
だが異常はすぐにわかった。
午後一の授業が体育だった訳だが、そこで短距離走をしたのだ。
僕が出したタイム、『10秒11』。
今すぐオリンピックに出られそうな数字だ。
測った生徒からタイムを聞いた教師は大慌てで近づいてきた。
明らかに測り間違えではない、見るからにその速さがわかるからだ。
それも陸上部でもなければ部活動に入っていない。走り方もまるでなっていないにも関わらず。
その日は年度初めの最初の授業だった訳で、体力測定が行われていた。
僕は全ての記録で高校生としては異常な数字を叩き出した。
授業が終わるとすぐに教師から陸上部へと勧誘された。
しかし丁重にお断りした、自信がない。そういう気持ちもなくはないが、なによりも自分自身が理解できてないからだ。
二年の授業な訳で、去年も同じことをした訳だ。そこでは実に平凡な記録だったのだから、僕はたった一年登下校しただけでオリンピックを狙える能力を身に着けたということになる。
そんな訳がないだろう。そんなことがあったら世界中のスポーツ選手は今頃、更にとんでもない記録を量産している筈だ。
心当たりなど、一つしか無い。
内心穏やかじゃなく教室に戻ったが、流石の出来事に生徒に囲まれ質問攻めにあった。
殆どが部活動の勧誘。それらをなんとか切り抜けてその日の授業を受け、逃げるように帰る――。筈だった。
「おい、猛」
冴島他二人の馬鹿に呼び止められた。下駄箱で待ち構えていた彼ら、最後の辺り姿を見なかった訳だ。
「お前、凄いな。知らなかったよ」
僕を褒め、笑う冴島。しかし目が笑っていない。確かに冴島は部活こそしていないが、運動神経は悪くない。体育の授業では毎回活躍して調子に乗っている。
まさかプライドを傷つけたとでもいうのか?なんてちっぽけなプライドか。
「痛っ」
無言でどつかれた。
「あんまり調子にのるなよ?お前がでかい顔してっとムカつくんだよ」
とんだ言いがかり、いつ僕がでかい顔をしたのか。完全に妄想でキレている。
横に無言で立ち尽くしている真司にも申し訳ない。
しかしあまりの無茶苦茶な理屈に腹が立つ。
そしてつい、口をついて悪態が出てしまった。
「嫉妬するなよ」
「は?」
言ってしまった、心で思っていた言葉がつい漏れ出た。
状況次第では聞き逃すような小さい声だったのだが、無駄に優れた彼の耳は捉えてしまった。
「……ちょっと来い」
胸ぐらを掴まれ連れて行かれる。真司は完全に無視されポツリと立ち尽くし、申し訳無さそうな顔でこちらを見ている。
……今度なにか奢ってもらおう。
呼び出すにはお誂え向きの場所。体育館と校舎の間にある空間。
手入れの足りない茂みで見通しが悪く、助けは期待出来なさそうだ。
途中から自分で歩いていたが、ついた途端どつかれて倒された。
「一回立場を分からせてやるよ」
下卑た表情、まるで三下の台詞。なお僕は更に下。
立ち上がると殴りかかってきた。
しかしおかしい。
遅いパンチだ。見切れてしまう。反射的に避ける。
空振り、こちらをみる冴島。
額に青筋が奔り再び殴りかかってきて――。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「猛、昨日は悪かった!……って、あれ?」
今日は花楓と会わなかったので一人で登校していたら真司と会った。
そして僕の顔を見ると素っ頓狂な声を上げた。
「その顔。お前、昨日冴島たちに呼び出されて、何もなかったのか」
「いや、殴りかかられたけど」
「殴りかかられて?」
「全部躱した」
「へー、そうか。……そうか?」
理解できない顔の真司。冗談を言っているように思ったのか、思うであろう。僕自身訳がわからないのだから。
「なに、結局何もなかったってこと?」
「だから囲まれて殴りかかられたって。ただ全部避けたんだよ」
「うん。意味がわからない、頭打ったのか?それとも俺が打ったのか?」
「どっちでもない、本当なんだって」
「あー。昨日の授業で思ったけどさ、お前おかしいよな、そんなに運動神経良かったか?」
「良く、無かったね。この間まで」
悪いというほどでもないか、ただ今の状態が異常なのだ。
真司に先日起こった出来事を改めて説明した。
「へー。ファンタジー。凄いな、漫画みたいだ。お前ラノベの読み過ぎじゃないか」
「本当なんだって、信じられないだろうけどさ」
期待もしていなかったが、やはり信じてもらえなかった。
そうこうしている間に学校の前まで来た。
すると前方に花楓が居た。
「あ、花楓さんじゃん。……それと、神鳴?」
「そうね」
最近良く見る顔。本来僕のような人間とは関わりの少ない人種。
「だから知らないって」
「そうか、けど何か変わったところは……。お、噂をすればってやつか」
思い切り目があった、そのまま近づいてくる。
やはりと言うべきか、目当ては僕のようだ。
「おい聞いたぞ。3人に囲まれて全員伸したってな」
「え、別に倒しては……」
もう話が広まっているのか、誰かが見ていたのだろうか。それなら助けに入ってくれても、まあ必要には見えなかったかも知れないけれど。
「なんでもいい、ちょっと来い」
「腕を掴まれ連れて行かれる、これもまた最近見に覚えのあることだ」
「あ、猛」
「猛!」
助けてくれ、無理だろうけどさ。
もうちょっとポーズだけでも……。
呼び出されたのは例によってあの教室だ。
朝早いからか、昨日は5人全員いたが今はもう1人しかいない。
「それで、昨日聞いたことだが」
「はい」
なんともないかと聞かれ、無いと答えたが。直後になんともあることが発覚したのだ。
嘘をついたと思われても仕方がない、本当に気づいてなかった訳だが。
けれども神鳴の顔には怒りは見えない、それは何か思案している様子。
「やっぱりな、あいつも……」
「あの、なにか?」
急に神鳴が立ち上がった。意を決したような毅然とした顔。
「お前、俺と戦え」
嫌だ。
思い虚しく学校から連れ出され、人の少ない公園に来た。
この間の公園よりだいぶ小さいが、周りの木々が生い茂り周りから見えづらい。
学校でも一番強いとの噂の人間となぜ殴り合わなくてはいけないのか。
疑問は尽きないが、神鳴はすっかり臨戦体勢だ。
「ぶっ倒れるまでやる気はないさ、ただこっちは本気でいくぞ」
「ええ……」
理不尽。
しかし神鳴が踏み込み殴りかかってきた、右拳の素直なパンチ。
昨日の冴島たちのそれよりも段違いに速い。
けれど見切れる。体を右に動かし躱す。
神鳴は一瞬驚いた様子を見せたが、構わず更に来る。
鋭い右の中段への蹴り。
躱そうか迷った結果まともに喰らってしまった。
「痛っ」
「――」
痛がったのは神鳴。僕は脇腹に蹴りが入ったにも関わらず、まるで痛くない。
反射的に蹴られたままに飛び退いたが、堪らえようと思えば堪えられた気がする。
やはりおかしい、冴島との比較になるが明らかに神鳴は強い。
僕は喧嘩の経験など、記憶も朧気な幼少期を除けば全くない。
事実対応は恐らく素人丸出しだ。なのに何故かこちらが優勢の雰囲気。
後ろの神鳴の仲間、近藤と言うらしい、も驚いている。
しかし彼もやはりといった顔。
「もういい、わかった」
「え」
「やっぱりお前はあいつと同じだ」
「誰?」
「この間お前とあった日にある奴、他所の学校の奴と喧嘩した。そいつもお前と同じ、まるで人間とは思えない体」
「……」
確かに自分の異常性は理解し始めているが、他にもそう云う者がいるのか。
別に不思議でもないか。
「あいつはヤバイ、俺達は見逃された。ムカつくがそれほどの差があった。だがそれじゃいけねえ。あいつは多分もっとヤバイことをしでかす」
「ヤバイこと、ですか?」
相変わらず同い年なのに敬語で喋ってしまう。
話してわかったが、神鳴は振る舞いこそぶっきら棒に見えるがかなり常識的な人間だ。
驚くほど話しやすい、人間見た目ではわからないとはこのことか。
そして気になる発言。
「あいつは他のやつ、自分以外人間とも思ってなさそうだった。その内ひょっとしたら取り返しの効かないことをするかもしれない。殺人とかな」
「!」
まさか、そんな訳が。いや、とんでもない強さなのは話を聞いたら分かる。
それが元々危ない人間がとなると何があってもおかしくないのか。
「俺たちもそんな奴をこの街にのさばらせたくない。けど俺達じゃ止められない」
「まさか僕に?」
「そこまでは言わない、けれどもあいつを止められるのは、お前のような人間だけかもしれない。警察も数人じゃ敵わないかもしれない、あいつはただ強いだけじゃない。なにかおかしな力を持っている」
「おかしな力?」
説明はできないという、ただ彼らは気づかぬ間に倒されたらしい。
本当に現実離れした話。
それで話は終わり、僕は学校に戻り神鳴はどこかに行ってしまった。
教室に入ると教師に多少怒られたが、顛末を説明すると許してくれ、寧ろ同情してくれた。
そして直ぐに昼休みになったのだが、変化に気づく。
「あいつら来ないな、さっさとどこか行ったよ」
「そうだね、猛。噂は本当なの?」
冴島達が絡んでこなくなった、理由は明確。
自分たちより弱いからこそ虐めていたのだ、それが違うとわかれば無闇に手は出せなくなるだろう。
唐突に僕の学校生活は平和になった。
しかし噂はやや事実と異なる、僕が冴島たちをボコボコにしたとか。
彼らを見れば分かるが怪我一つ無いのが分かるだろうに。
「まさか、そんなこと出来ないよ」
「だよねー。けど少しくらい反撃しても良かったんじゃない?それだけの事されてたと思うしね」
花楓は結構乱暴な性格、けど僕は意味もなく(無くはないが)暴力を振るうのは気が引ける。
「でも良かったよ、これでもう慰めなくて済むよね!」
「出来れば助けて欲しかったけどね」
「だってあいつら直ぐ手を出すんだもん、それにいつも三人一緒だし」
「しかも姑息なんだよな、先生には気づかれないようにするしね」
なにはともあれ、この二人には随分お世話になった。流石に酷い時は助けてくれたし。
そうして平和な学校生活を送り、平穏を味わい下校した。
そして次の日、学校に着くと神鳴ともう一人、我が校の女子生徒が死んだことを担任に告げられた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
学内は大騒ぎだった。学校の有名人が、それも殺されたとあっては。
犯人は不明、おそらく今もこの街にいる。
その日は午後から休校となり、必ず複数名で行動するよう言い渡された。
僕も花楓と共に帰っていた、その道中で尋ねられた。
「昨日、神鳴君に連れられた後何があったの?」
「それは……」
内容を説明すると彼女は怪訝な顔をした。
「なにそれ、そんなことってあるの?」
「信じられないよね、正直僕もまだ半信半疑だよ」
だが昨日の話の直後にこんなことが起きれば嫌でもそのことが頭を過る。
本当に冗談のような話があるのか。
先程教室でクラスメイトが携帯で見たニュースの話をしていた。
被害にあった二人共無残なほど体が原形を残していなく、なにか強力な、重機のようなもので引き千切られた様な有様だという。
けれども被害現場は閑静な住宅街の近くの細い路地で、大型の重機が入るのは困難らしい。
今頃テレビのニュースでも報じられているだろう。
「一人、じゃないよね多分。そんな酷いこと、信じられないことが出来る。沢山いるほうが怖いけど」
「神鳴は『あいつ』って言ったから、複数じゃないと思うけど」
「猛はその話信じているの?」
「少なくとも神鳴は冗談を言っている風では無かった」
「でもやっぱり……」
そうこう話して歩き、電車を降り駅の横を歩く。途中で高架線の下を通るが、ここは人通りが疎らで通る時は、特に今は少々怖い。
そんなことを思っていると正面の少し遠くを他校の生徒、緑のブレザーを来た男が歩いているのが見えた。
ネクタイもせず、上着を着崩している。髪は明るい金髪を真上にセットしている。ひと目で善良な生徒ではないと分かる風貌。
それだけならまだ良かった。
だがその男は異様、ある人物を思い起こさせる。
下に来ているワイシャツ、そして頬についている『赤いシミ』。まさか血ではないか。
完全にこちらに気づいており、ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべている。
花楓も当然気づいており、僕の制服の袖を掴んでいる。
後ずさるが、向こうがズカズカと距離を詰めてくる。
逃げ出したいが、後ろを向いて逃げることに躊躇う気持ち。只ならぬ気配がそれを強くする。
そうしていると男が数メートル先から話しかけてきた。
「はあい、カップル?いいね、仲良さそうで」
「なんですか、あなた」
語気強く花楓が返す。頼もしい反面、あまり相手を挑発しなければとヤキモキする。
男は鼻にピアスを開けている。目は細めだが、シュッとした顔は女子にモテそうだ。
「あー、いいね。強気そうだ。そういう娘は好きだな。顔も結構いい感じだし。昨日の女はブスだったな。嫌いなんだよなブスは。それだけで殺したくなる、殺したけどさ」
「まさか……!」
聞き捨てならない台詞。嫌な予感がどんどん膨らむ、デタラメを言っている様には思えない。
「あなた、神鳴って人知ってますか?」
「へ?なんだって」
僕は意を決して聞いてみたが、嘯いている訳ではなさそうだ。本当に知らないと言った顔。
「赤茶の髪の、家の学生です。男の」
「それなら昨日会ったよ」
「その人になにかしましたか」
「警察みたいだね、いいけど。殺したよ、それが?」
確実にこいつだ。どうするべきか、逃げ果せるか。花楓だけでも無事に……。
「君はどっか行きなよ。俺はこの娘に用がある、今出来たからさ。君名前は?」
「用ってなんですか」
「名前聞いてんの、答えて」
「……花楓です」
花楓に二の句を告げさせぬ圧迫するような言葉。これだけでこいつの性格が窺い知れる。
「可愛い名前だね、好きだなぁ。ポニーテールって言うんだっけ?そういうの。俺は鷹科和実(たかしなかずみ)だよ、和実って呼んでね。じゃ行こっか」
「どこにですか」
「どこって、デートだよ」
「嫌」
きょとんとした鷹科。
「そんな返事は求めてないな」
「嫌なものは嫌なの、あんたみたいな奴はタイプじゃない」
鷹科が目を細めた。口元は笑っているが、そんな穏やかな感じはしない。
「いいね、やっぱり好みだ。けどじゃあ彼女にするのは止めた」
「もういい?さっさと帰りたいんだけど」
「駄目だよ、嬲ることにしたから」
鷹科が手を前に突き出し、掌を捻るような仕草を見せた。
直感が危機を知らせる、咄嗟に花楓を押しのける。それは奴の正面に飛び出た形になる。
「あ」
「え?」
腹部に強い熱、そう思う程の熱い痛み。先日は内側から痛みが走ったが今回は違う。
「うぅぁ……」
「あーあ。馬っ鹿でー」
服の上からでもわかる。腹が螺旋状に捻じれている。
激痛が奔り、気が遠くなる。
「じゃ、改めて」
「なに、したの……」
震える唇で花楓が言葉を絞り出した。
「見たとおりだよ、捻ったの」
「どうして、どうやって」
「どうやってか、うーん。わからないな、気がついたら出来てたな。ついこの間だよ」
花楓は現実離れした出来事に心がついていけない。少し遅れて恐怖が心に届き、足が震える。
「やだ、猛は?」
「死んだ、まだ生きてるかな?けどもう死ぬよ」
その通りかもしれない。立ち上がれない、腹から血が滴っている。内臓がめちゃくちゃになっている様だ。
けど死にたくない、当たり前だ。昨日やっと、学校が楽しく思えたのに。これからなのに……。花楓とも。
「まずは足かな、顔は最後にするよ。可愛いからね勿体無いもの」
「やだ、やめて。来ないで……」
「見てなかったの?近づかなくても大丈夫だよ、心配しないで」
「やだ、やだよ」
泣き出し顔を拭う花楓、それを見て鷹科が大きく舌打ちした。
「なあ、聞いてんのか?無視されんのは嫌いなんだよ、さっさと殺すぞ」
「ひっ」
このクソ野郎、気が狂っている。楽しむためだけに花楓を、神鳴も。
意外なほどに良い人だった神鳴。今なら分かる、彼もきっと女子生徒を守って死んだのだろう。
四肢に力を入れる、手をつくが上手く力が入らず倒れる。
もう一度、立ち上がれる。花楓のために、俺のために。
・
・
・
・
・
猛の話は本人には悪いけれど、冗談だと思っていた。私も彼の一年生の時の振る舞いを見ている。
そういう病気、中二病というもの。それをまだ引きずっているのだと。
けど違った、本当にいた。違う、聞いていたのよりもずっと酷い。
こいつが同じ人間だと思うだけで反吐が出る。悔しい、こんな奴に、こんな場所で。まだ少ししか生きていない。
もっとこれから色んなことが、楽しいことも辛いことも。友達や猛と……。
猛、面白い人。最初会った時の振る舞いにはちょっと引いたけど。私もアニメとか好きだし話もあった。
これからももっと。
……。やっぱりこのまま終わるのは悔しい。一発ぐらい顔面に。
けどおかしいな、こいつなんで固まってるんだろう。
それに私の方を見ていない、私の後ろを?
「へー。凄い、よく立てるね。けど痛そー」
「猛?」
立ち上がった、立ち上がれた。相変わらず激痛は収まらない。
でも踏ん張れる、前に進める。怒りが、思いが力をくれる。
体の内側から湧き上がる力、目の前の相手を倒せと。全身が、全神経が雄叫びを上げている。
これ程までの昂りは生まれて初めての気持ち、これが――。
「でも近寄んないでくれる、キモいからさ」
「あぁ!」
思わず絶叫してしまう。再び、奴が今度は手を横に振った。それだけで猛の足があらぬ方へと曲がる。さっきといい、なにが起こっているのか。
「やっぱり俺成長してるなぁ、この間は吹き飛ぶ位だったのになー」
「さて、気を取り直して……」
怪訝な、不思議そうな顔をした鷹科。
猛がまた立ち上がる。足は未だ折れておるが、なぜか片足だけ引きずっている。
私には両足が折れたように見えたのに。
「両足折らなかったっけ?俺、まあいっか。も一度」
今度は上半身を襲う見えない、衝撃波のような攻撃。
猛は腕で体を抱くように防ぐ。そして倒れることなく、進み続けた。
「は?なんでだよ、加減しすぎたかな?」
今度はまた足、止まらない。次は頭、防がれた。全身、堪える。
近づく猛、それが心底気に入らないような鷹科。顔が怒りで歪んでいる。
「あー、もう。苛つくなぁ!さっさと死ねや!」
痛々しさに目を背けたくなるほどに猛の姿は満身創痍。だが足取りは力強い。
止まらない、止まらない。とうとう目の前に対峙する。
頭から、腹部からも足からも。夥しい出血。なのに生きている、瞳は正面の鷹科を強く睨んでいる。
「なんなんだよ、お前。なんで死なないんだよ」
「……」
言葉を発しない猛、流石にそれ程の体力は無い。だが目が訴える、『やってみろ』と。
振りかぶり、力強い仕草で構えた鷹科。が振りかぶった右腕が振られることは無かった。
「あぐぁ」
猛の拳が顔面を捉えた、動き自体はまるで素人。喧嘩なんかしたことないと言っていたがその通りの動き。けどその速さは明らかに普通の人よりも上。
受けた鷹科が後ろに吹き飛ぶ。2、3メートル飛んだ先で跳ねた。
少しの後によろよろと起き上がる。
「糞が、糞ったれが!俺が、俺がぁ!」
「……」
鷹科が急に遠くを見た。電車が走る音に紛れて聞こえる音。
悲鳴、通りがかった中年女性。それを聞いて人が来る音がする。
鷹科が大きく歯を剥く。そして横にあったフェンスを蹴飛ばした。
フェンスは大きく曲がり、蹴られた場所は穴が空いた。
「次は必ず殺す」
それだけ言い残し去っていった。
「――猛!」
花楓が近寄る。猛はその言葉を聞き、姿を目にし、笑みを浮かべ地面に倒れた。
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