人食いの思い出
小雪 好
人食いの思い出
一杯やろう。
そう思い、医師のトッドは馴染みの酒場に歩いて行った。
トッドは家で飲むより、馴染みの酒場で飲むのが好きだった。
猥雑だが、それらが溶け合った暖かな雰囲気は、どこか自分の好きなシチューのにおいに似ている。
その雰囲気に浸りながら、酒を飲みたい。
特に今日みたいな日はそうしたい。
幸い、妻の理解は得ている。遅くなっても大丈夫だろう。
そう考えているうちに、酒場の前に着いた。
ドアを開ける。
がやがやとした猥雑な、それでいて、暖かな雰囲気が体に染み入る。
ああ、良いなぁ。
色々な人種が混ざり合い、一つの秩序を成す。
それは、自分の若い頃には見られなかった光景だ
それを見られるのは、この歳になっても喜ばしい。
トッドは、口を少し緩ませながら、カウンターに向かう。
そして、僅かに驚き、声を出した。
「ログ、来てたのか」
振り向いたのは、ここで会うのは珍しい、商人のログだ。
色々な所で物を売り買いする彼が、この街に居るのは珍しい事だった。
ログは「おう」と返し、手を挙げた。
その雰囲気は鷹揚で、彼の魅力の一つだ。
家族の多さが、彼をそこまでの人物に仕上げたのだろうと思う。
トッドは彼の隣に座り、いつも飲む酒を頼む。
「久しぶりだな、ログ。いつ来たんだ」
「ああ、最近は芋が売れる季節だったからな。それを売りに来たんだ」
「そうかぁ、煮込んだシチューがうまいんだよなぁ」
「大いに食ってくれ。その分、俺は儲かる。
何、損はしない。それだけの出来だと、俺は思う」
「ああ、楽しみだ」
味の染みた柔らかな舌触りを思い出し、顔を緩ませながら、運ばれた酒を飲む。
ああ、美味い。
気分が良い時に、酒が喉を通る。
・・・良い事だなぁ。
トッドは、満足げに息を吐いた。
ログは、少しずつ味わうように飲んでいた。
彼と、こうして酒を飲めるのは、良い気分だ。
そう思っていると、ログが口を開いた。
「妻は良いのか?」
「ああ、ちゃんと許可は取っているよ」
「そうか、子供は元気か?」
「ああ、元気さ」
「そうか。……トッド、何かあったのか?」
酒を運ぶ手が止まる。
「どうして、そう思うんだい?」
「この時間、お前は酒場で飲むより、妻と一緒に家にいる事を選ぶ奴だ」
「商人はそういう事を覚えているよなぁ」
はは、と笑い、声を潜めて、言う。
「人食い病の患者を診たんだ」
「何?」
ログが眉を顰める。
「治ったのか?」
「少し、長かったけどね。ちゃんと薬を与えて、治したよ」
「カタツムリか?」
「ああ、良い時代になった」
微笑みながら、心の中が疼くのを、トッドは感じていた。
人食い病。
罹ると、狂ったように人に噛みつくようになり、やがては死に至る病。
この国で、猛威を振るい、一つの民族を滅ぼしかけた病だ。
「そうか……。だから、飲んでいるという訳だな?
あの暴動とは程遠い場所のこの酒場で」
「鋭いなぁ……」
「ああ、俺もあの時の事はどう思って良いのか、分からない。
ただ、あの時、儲けたのは事実だった。それで、子供の腹を満たせたのは事実だ」
「はは、商人にとっては良い時……でもないかな?」
「儲け時ではあったが、強盗も多かった」
「クンダの民が襲う事もあったんだってね?」
ログは鼻をわずかに鳴らした。
「ああ、商人はクンダ狩りの一端を担っていると言われたからな」
クンダ狩り、人食い病が、人食いといわれる主な所以でもあった。
クンダの民の人々の血肉は人食い病に効く。
そんな噂が広まったのだ。
恐らくは、クンダの民が人食い病に罹らないために出来た噂だろう。
実際に効果があったのかわからない。
だが、クンダの人々の血肉を求め、クンダ狩りは起こった。
薬として売りたい商人。そして、家族を救いたい人々。
彼らは、人食いという禁忌に目をつぶり、噂を信じた。
クンダの人々が食べていたカタツムリが病気に効くとわかるまで。
「クンダの民はあの時に滅びかけた。
クンダを見たら、金貨を思え。
そんな言葉があったくらいだからな」
「はは、言い聞かせてたんだろうね。クンダの民は、この国の人々ともよくやって いたから。
良き隣人を狩る罪悪感を紛らわせるために」
「俺は、家族が大事だった。だから、クンダの薬も扱った。
・・・お前は、違ったよな」
「僕も妻が大事だからね。妻が狩られるのは看過できない」
トッドは思い出す。
クンダの民特有の、緑色をわずかに含んだ黒髪をした妻を。
そして、彼女が、自分が死ねば、人が救えるのかと悩んでいた事を。
「俺もお前と知り合ってから、クンダの民への認識が変わった。
シチューの味は変わらずか?」
「お前がうまいといった時から変わってないよ」
「ああ、それは良い事だ。俺が金貨よりお前たちの命を選んで正解だった事でもあ るからな」
「僕たちを逃がさなければ良かったと思っているかい?」
「自分が逃しても無駄じゃないか。それよりも、お前たちを売り渡せば良い。そう 悩んだ事も確かだ」
「正直だなぁ」
「お前との付き合いも長いほうだ。この程度の事は隠す意味がない」
ログはぐいと酒を飲んだ。
「昔言ったように、商人は金貨を信じる者だ。
金の世の中を動かす力を崇める者だ」
「だから、クンダを救う事に金貨を使ったのかい?」
「・・・何の事だ?」
「いやぁ、昔の知り合いに、人食い病の研究をしていた奴がいてさ。
彼から君の名前を聞いてね」
「・・・ある程度思い悩んでいたさ。だから、少しの気まぐれを起こした。そんな 所だ。
感謝される事でもなんでもない」
さて、とログは腰を上げた。
「俺はもう出る。酒も程ほどにな」
ログはそう言って立ち去っていった。
トッドは、その背中を見送ると、ふと思い立ち、一つの注文をした。
運ばれて来たのは、煮込まれたカタツムリだ。
人食い病に効くと分かり、今では多くの人が食している物。
トッドはそれをつまみ、美味いなと、感慨にふける。
人食い病で思い出した、苦い気持ちは酔いの中に溶けていった。
人食いの思い出 小雪 好 @novellike
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