0.プロローグ~出会い~ 3

 試合が終わった瞬間、なぜか涙はでなかった。泣いている友達の傍にかけ寄ることもできず、ただグラウンドの上で立ち尽くしていた。これが現実だと認めたくなかったのかもしれない。これが夢だったらいいのにって思ってたんだと思う。泣いたら、これですべてが終わったんだと痛感してしまうから、脳みそが泣かないように命令していたんだと思う。


 それなのに、今は涙が溢れて止まらない。どうしてだろう。こんなところで泣くなんてカッコ悪いってわかっているのに。腕でごしごしと顔を拭いていると、さゆりさんは俺に白いハンカチを差し出した。


「これ、使ってください」

「ありがとうございます。洗って返すんで……」

「いえ、あげますよ。なので思いっ切り使っちゃってください」


 優しさが身に染みて、よけいに泣いてしまいそうだ。この人は何でこんなに優しいんだろう。やっぱり天使なのかのかもしれない。ハンカチで目を押さえると、洗剤の優しい香りがした。心が落ちついていく。涙を拭き終え、呼吸を整えていると、いったんカウンター奥に入っていたさゆりさんが戻ってきた。


「はい、どうぞ」

「えっ? 頼んでませんけど……」

「これ、私からのサービスです」


 テーブルに置かれたのは、ごく一般的なショートケーキだった。


「またさゆりちゃん、そんなことして!」


 鈴木のおっさんは懲りずに茶々をいれる。他の二人から「まあまあ」となだめられ、再びおとなしくなった。


「ハンカチまでもらって、ケーキまで……申し訳ないです」

「いいんですよ。私が勝手におせっかいを焼いているだけですから。それより、ショートケーキって、なんだかご褒美って感じがしませんか?」

「ご褒美、ですか?」


 さゆりさんは笑顔で両手を合わせている。普通の仕草なのに、なぜか可愛らしく見える。いや、違うな。さゆりさんは何をしても素敵なんだろう。


「はい。だから、今日試合に頑張ったご褒美として召し上がって下さい」

「でも、俺は――」

「――後悔するような結果だったかもしれない。誰かに責められてしまうかもしれない。それでも、一生懸命、全力を出し切ったんですよね?」

「……はい」

「お客様が頑張っていたことは、ご自身が一番わかっているはずです。だから、ちゃんと自分を褒めてあげてくださいね」


 さゆりさんの言葉が、暗闇にいた俺に光を差してくれた。そんな気がした。真っ直ぐな言葉に胸が打たれて、優しい微笑みに、目を奪われる。穏やかな話し方と、可愛らしい声に心をわしづかみにされてしまった。


 目の前にいるこの女性は、人ではない。天使に違いない。そう確信した瞬間だった。


「ありがとうございます、いただきます!」


 ケーキに飾られた苺をフォークに差し、一口で食べる。甘酸っぱさが、疲れた体に染みるようだ。


「あら、最初に食べちゃうんですね、苺」

「あ、そうですね。無意識に……」

「私も、最初に食べちゃう派です。一緒ですね」


 なぜか嬉しそうに、にっこりと笑っているさゆりさんを見て――俺は完全に、恋に落ちた。

 決めた。高校生になったら、この喫茶店でアルバイトをしよう。そして、さゆりさんと仲良くなって、いい感じになったら告白する。

 結婚前提に付き合いたいから、十八歳以降に実行するのがベターだ。


そして、もう一つ。これから先、ショートケーキは絶対に苺から食べることにしよう。

 

 中学三年の夏。試合に敗れた心の傷は、運命的な出会いによってすぐに癒されたのだった――。



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