第一章 少年期 ただ素振りだけの剣士
第2話 花のひとひら
そのころのことは薄ぼんやりとしか覚えていない。
なにせまだ俺も幼かったし、腹ばかり減らしてぼんやりと生きていたのだから。
野盗が村に入り、老人と年かさのいかぬ幼い子供ばかりが残された。
村に残った僅かな食料は、たまたま狩に出ていて難を逃れた男がすべて持っていってしまった。
俺と妹は、虫であれ、草であれ、木の葉であれ、口に入るものは何だって口にいれてはみたが、いよいよ体が動かなくなってきた。「明日いや今日にでも」とぼんやり考えていたときにその一団が村を通りかかった。
戦帰りの屈強な剣士たち。
俺たちのようなボロを着た食い詰めの民を数多くつれていた。
ふるまいのおも湯の皿を底まで舐めていた時のことは、少しだけ覚えている。
俺と妹は自分の足で歩けるようになるまで荷駄に乗せてもらった。
野を越え、森を越え、山を越え、痩せて骨ばかりになっていた体も、朝夕の食事のおかげで歩けるような強さになった。
野を越え、森を越え、山を越え、剣の里の子になる。拾われた他の子らにまざって、木の棒を振るようになった。
それでも俺はまだぼんやりと生きていた。
剣を習い始めたとはいっても、その剣でなにがしたいというわけでではなかった。他の子らと同じように棒を持ち、同じように棒を構え、同じように棒をふっていた。べつだん不真面目だったわけではない、ただぼんやりしていただけだ。
そんな俺が剣に魅せられ、剣に生きようと思うようになったのは、剣を振り始めて更に、野を越え、森を越え、山を越えた後の事だった。
その日のことは今でもはっきりと覚えている。
はらはらと小雪の舞う日の事であった。
「積もるまでに里に着きたかったな」
と剣士の誰かが呟いた。
里まであと数日というところまで来ていたが、里は山深い谷間にあるとのことだ。
「子供や年寄りには雪の峠は厳しかろうに」
俺たちのような食い詰めの民がそのころには更に数を増していた。
剣士は
俺たちは冬の裸の木々、どこまでも続く森の真ん中でその日は休むことになった。いくつもの焚火を車座に囲み、互いに身を寄せ合いながら寒さをしのいだ。
そしてそれは草木も眠る
火の番をしていた誰かの絞り出すような悲鳴に、俺たちは目を覚ました。いや、先ほどから何か嫌な重い感じがしていて、もう皆目が覚めていたのかも知れない。
夜の底が白々と輝いていた。目を開けるとあたり一面には満開の桜。月も星もない真っ暗な夜の空を背景に、ゾッとするほどの妖気を含んで桜の花が咲いていたのだ。
逃げなければととっさに思う。
だが一体何処に逃げればいいのか。
どこへいっても俺たちは桜の森に閉じ籠められていて、逃げ場などどこにもなかった。
はらはらと、はらはらと桜の花びらが舞う。
風は吹いていなかったけれど、花の下ではゴウゴウと風が吹いているような気がした。
「坊や、坊やそこにいるの?」
女の声が微かにする。
「ねえ坊や、どこなの?」
舞い散る桜の花びらがささやく。
「坊や、そこにいるのね」
目の前の桜の巨木の上、夜の深い闇に真っ赤な月が出たように、血走った大きな女の目が一つ光った。振り乱された髪がもう片方の目をおおう。
鬼だ。女の鬼だ。
愛する我が子を喪い。探し求めて桜の森に迷い。迷いながら狂い。狂いながらもなお我が子を探しもとめ鬼になった。
女の情念が一気に俺たちに流れこんできた。
女は巨木から身をのりだして、あたりにいる子供たちの顔を一つ一つを確かめようとした。
逃げ出そうにも、身に積もる桜の花びらが邪魔をして身動き一つとれない。
そのとき俺は見たのだ。
一人の老剣士が静かに鬼へと歩いていくのを。
そのとき俺は見たのだ。
鬼の右手の爪の斬撃を
そのとき俺は見たのだ。
ゆっくりと大きくふりかぶった老剣士の剣が吸い込まれるように鬼の顔を真二つに斬り裂いていくのを。
「成仏なされよ」
その剣には憎しみも、勝利への執念も、生への執着も、何も込められてはいなかった。よどみなくただ流れるような一振りだった。静かな一振りだった。そして美しい一振りだった。
鬼の顔が割れた。
ゴウと風が吹いたような気がして、満開の桜が一瞬で消えた。
静寂が戻り、夜の底は焚火の赤黒い明りだけとなった。
いや、冬の裸の木立や地面はうっすらと雪化粧をしていて、その分だけ白くぼんやりしていた。
老剣士の前に、いったいどこから迷い込んだか、桜の花びらがひとひらだけ風に舞っていた。
そのひとひらの花びらは真二つにわかれ、静かな嘘のように消えていった。
誰かに勝つとか、誰より強いとか、そんな剣じゃなくていい。あの人のような大きな一振りが振れるなら、静かで美しい一振りが振れるなら、俺はこの命をかけたってかまわない。
ただひとひらの花を斬る剣でいいと、そのとき俺は思ったんだ。
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