第14話 動物農場
《副軸――祠堂頸木[しどう くびき]》
文化祭の当日。生まれて初めての『人間』――真田悠人に出会った私は、それから気が向いたときにあの非常階段に行って、彼とほんの少しだけ会話を交わす間柄になっていた。
本当は、私はもっと真田悠人と話したかったのかもしれない。一日中でも、会って人間同士の会話を行いたかったのかもしれない。しかし、何だかそれはもったいない気がして、私は彼との邂逅を数日のうち十分程度に留めるようにしていた。もちろん他の生徒たちは、私と真田悠人が密かに会っていることなど、知る由もなくて。
「家畜どもは苦しみから解放されるため、この世界から神を追い出した。その結果、この世界は豚どもに支配された、もっと苦しいものとなってしまった」
私がそんな話をすると、色素の薄い髪と白い肌をした、線の細い端正な顔立ちの美少年――。真田悠人が、いつもの柔和な笑顔を浮かべる。
「ジョージ・オーウェルの、『動物農場』ですか?」
「お前は私にとって、そんな……豚が支配する世界で出会えた、唯一の人間なんだ。お前と出会って、私はようやく人間の言葉で話せるようになった」
「まさか、違いますよ」笑みを浮かべたまま、白皙の美少年が首を振った。「僕は『裸の皮膚以上の財産』を持っていませんから。この世界を支配しているのが豚だと言うのなら、その中にいる愚かな雄馬に過ぎません」
「雄馬だと?」
「はい、『I will work harder』ですよ。ウィリンドン・ビューティーの遺言を無視した農場の動物たちは、確かに愚かでしたが。雄馬のボクサーに至っては、その中でも格別に度し難い。彼は罪から逃れるために自身に罰を与え、そして身体を壊して最後には屠殺業者に売られてしまいました。深い深い後悔の海の底で」
まるで自嘲するように、色素の薄い少年が言う。
私は小学生低学年の頃に読んだ、『動物農場』の内容を思い出していた。
「私の解釈では、ボクサーはただの実直な――。ナポレオンを崇拝しているだけの、哀れな雄馬だったはずだが。後悔などと」
「いえ、ボクサーは農場から人間を追い出したことを、ずっと後悔していたはずなんです。だから、動物農場が誕生した後にも人一倍頑張った。身体を壊すほどに努力した。ただ、自分の罪を償うために。その証拠に、彼は『牛小屋の戦い』で馬丁の少年を殺してしまったと勘違いしたとき、泣きながら後悔を叫んでいましたからね。ボクサーにとっては、農場に残った動物たちを幸せにすることだけが、唯一の贖罪であり逃避だったんですよ」
「まるで殉教者だな。まあ、お前がそう言うのなら……そうなのだろうが」
私は皮肉っぽい笑みで、真田悠人に応える。
彼がそう信じているのなら、それでいいのだろう。異論はない。
「そんなにこの世界が、人間にとって生きづらいのなら」白皙の美少年が、真っ直ぐな視線を向ける。透き通るような瞳で。「いっそ、ベンジャミンのように生きればいい」
「ベンジャミンだと?」
「はい。その方が楽であることは、『足の下の藁を見るのと同じほど確か』ですよ。『尻尾なんぞいらないから、ハエをこの世からいなくして欲しい』と、神様に文句を言いながらも、豚と共存していけばいい」
「皮肉屋のロバは、決して笑うことはないんだぞ」
「でも、いつかきっと……心の底から笑える日が来ますよ。あなたにだって、来るはずです。それまで怠惰に待てばいい。ロバは長生きですからね」
『動物農場』に出てくるベンジャミンの言葉を引用して、色素の薄い少年が言った。
彼との会話は心地良くて、まるで透き通った海の表面を揺蕩っているような気分だ。
しかし、私はまだ豚どもとの会話を続けなければならない。この豚に支配された世界で円滑に生きるためにも、『ブヒブヒ』と、屈辱的な豚の物真似を演じ続けなければならない。もったいない気がするから、というのも、もちろん本当だが。だから私は、彼との会話は短く留めるようにしていた。自分の中にある欲求が、渇望が、抑えられなくなってしまわないように。
《主軸――上條匡太[かみじょう きょうた]》⑭
学校を終えた俺は、生徒会の仕事を他のメンバーに任せると、その日のうちに再び祠堂頸木に会いに行くことにした。
いつものように、俺の住んでいたアパートにて不在を確認した後で、下校して来るであろう頸木を通学路を通って待ち伏せる。彼女は比較的、規則正しい生活をしているらしく、いつも俺は同じ通りでその姿を捉えることができた。
目に掛かるほど長い黒髪と、死んだ魚のような目。常に卑屈な表情を顔に張り付けた少年が――。上條匡太が、そこで初めて俺の存在に気付いたかのように視線を向ける。
「はあ……まるでストーカーだな」
心の底から面倒臭そうに、少年が嘆息した。
俺は祠堂頸木の目を真っ直ぐに見つめる。逃げないように。
「祠堂頸木……俺の身体を返せ!」
「今はもう、私の身体だ」
「ふざけるな! お前も、イチエルから聞いてるだろうが! このままだと、元に戻れなくなるんだぞ! お前は永遠に、自分の身体を失ってしまうんだぞ!」
「前にも言ったはずだ。私は、この身体を返すつもりはない。お前が死にたいのなら、自殺でも何でも好きにしろと」
まるで養豚場の豚でも見るような、絶対零度の視線――。
その冷たい瞳に射竦められながらも、俺は口を開いた。まだ話は終わっていない。
「お前が……悠人のことをイジメていたのか? 悠人をイジメるように、あの男子生徒たちに命令していたのか?」
「くだらないな。そんなことを聞いて、いったい何になる?」
「――答えろよ、祠堂頸木!」
「………」
微塵も動揺することなく、真っ直ぐに彼女は俺の目を見ていた。
真っ直ぐに。真っ直ぐに。真っ直ぐに。真っ直ぐに。
「だったら、どうだと言うのだ? 真田悠人の敵討ちでもしに来たのか?」
「違う! 俺は……俺は……十年間も、一緒だったんだ。親友だったんだ。十年間も……」
「親友が……大切な幼馴染が死んで、自殺することしか選べなかったお前に、いったい何ができる? ――思い上がるなよ、上條匡太」
まるで、斬って捨てるような声音だ。
瞬間、俺はまるで首を刎ねられたように、動けなくなってしまった。
――悠人が死んで、俺は……俺は……
面倒臭そうに、頸木が俺の横を通り過ぎていく。通り過ぎていく。
何の反論もできなくて。俺には、何も言う資格がないような気がして。
絶望。絶望。絶望。絶望。
「あ、あの……すいません! すいません!」
そんな絶望に身体を絡め取られて、いったいどれぐらい経っただろうか。
冷や汗がどっと噴き出していることに、ようやく気付く。
死後硬直のように立ち止まっている俺に、誰かが声を掛けてきた。
蜜を溶かしたようなセミロングの茶色い髪。クルミ型の愛らしい大きな瞳を持つ、陽性な少女だ。明るくて快活な雰囲気を備えた、学年一の美少女――。中学の頃から水泳部に所属していたこともあり、そのスタイルは健康的に鍛えられている。
「……綾瀬川……夏美?」
「は、はい。三雲高校二年の、綾瀬川夏美です。あ、あなたは、久城峰学園で生徒会長をされている、祠堂頸木さん……ですよね? ずっと、あなたと話がしたかったんですけど。な、何て声を掛ければいいのか、わからなくて――」
陽性の美少女が、戸惑うように唇を噛み締めた。
何かを訴えるような、真剣な上目遣いを向けてくる。
「あ、あの……今の、私の幼馴染なんですけど。祠堂さんは、匡太とお知り合いなんですか? 確か、前にも話し掛けていましたよね?」
「い、いや……知り合いって言うか。俺は……」
「最近、匡太の態度がおかしいんです。そ、それで、私……ずっと様子を窺っていたんですけど。さっき、あなたは……匡太のこと『祠堂頸木』って呼びましたよね? と、遠くからだったので、それしか聞き取れませんでしたが。あなたは確かに、匡太のことをそう呼びました。い、いったい、どうして……どうして……」
そのクルミ型の愛らしい瞳が、涙の気配に揺らいでいた。
どうする? どうする? どうする? どうする?
半ばパニックを起こしたように、頭の中を同じ言葉が反響する。
――夏美に……全部話した方がいいのか?
――いや、でも……普通は信じないだろ。
――でも……でも……でも……でも……
「俺は……俺は、上條匡太なんだ。でも、今は……色々あって、祠堂頸木と身体が入れ替わってしまっていて。だから……だから……」
気が付くと、幼馴染の少女の前ですべてを白状していた。
こんなことを言っても、信じてもらえるはずがない。頭がおかしいヤツだと思われるだけだ。しかし、それでも彼女にだけは知っておいてもらいたかった。本当のことを、知っておいてもらいたかったのだ。
「か、身体が入れ替わってるって――」何かに耐えるように、夏美が歯を食い縛った。「そんな、ドラマや小説じゃないんだから。――信じられません!」
「でも……本当なんだ! 俺は、上條匡太で……でも、一週間以上前に雑居ビルから飛び降りて、そのとき真下にいた祠堂頸木を殺してしまって……それで……」
「飛び降りたって、何よそれ?」
それは、すごく冷たい声音だった。氷でできた刃のように。
激しい怒りと悲しみに満ちた瞳で、少女が俺の顔を睨み付けている。
「いや、えーと……違うんだ。俺は……俺は……」
「最低だよ! 悠人も、匡太も、本当に――最低だよ!」
「夏美……」
大粒の涙を流しながら、陽性の美少女が叫んだ。
いつも明るい夏美の、そんな姿を見るのはあの日以来で。悠人が死んだ、あの日以来で。俺は大切な幼馴染に、言い訳することさえ許されないのだと自覚した。
「本当に……最低だよ」
強引に涙を拭い取り、夏美が俺の横を小走りで通り過ぎていく。
俺は何と声を掛ければいいのかわからなくて。自分が死んで悲しむ人の気持ちなんて、少しも考えていなくて。本当に独り善がりで。悠人の気持ちにも気付けなくて。
――ああ、本当に……最低だよ。
――最低なんだ、俺は……
その震える背中を見つめながら、自分自身に失望した。
俺は本当に、どうしようもなく最低な人間だったのだ。生きている価値もないほどに、最低な――。
《副軸――祠堂頸木[しどう くびき]》
「私には、まだ胎児だった頃の記憶があるんだ」
高校二年生に上がってからも、私は真田悠人との密会を続けていた。
いつものように、非常階段の壁に凭れて二人で『人間』の言葉を交わす。
私がその話を誰かにするのは、初めてだった。本当に生まれて初めてで。
「胎児だった頃、私はいつも、とある一人の人物と言葉を交わしていた」
「とある一人の人物……ですか?」白皙の美少年が、不思議そうに小首を傾げる。
「ああ。男なのか、女なのか。大人なのか、子どもなのか。私にはもうわからない。ただ、私はその人物のことを当時は名前で呼んでいたが、その名前が失われてからは『アナザー・ワン』と呼んでいる。そしてアナザー・ワンは、私に色々なことを教えてくれた。この世界の仕組みだったり、真理だったり。まあ、私はそのほとんどをもう忘れてしまったわけだが」
「胎内記憶を持って生まれてくる例は、確かにあるみたいですけど」
「ああ、そうだな。それで、私も生まれた後で、フレデリック・ルボワイエの『暴力なき出産』から、最新のものまですべての参考書籍に目を通したが。私が体験したようなことは書かれていなかった。アナザー・ワンはいったい、誰だったのだろうか。どこに行ってしまったのだろうか。私はずっと、そのことを考えているんだ」
「そうですか……」
もしかしたら、笑うかもしれないと思ったが、色素の薄い少年は真剣な様子でその話を聞いていた。おそらく彼は、私がその話を初めて誰かに打ち明けたのだと、看取したのだろう。とても重大で、重要な話をしているのだと。
「僕も……ずっと親友の一人に、打ち明けられないことがあるんです」
気を持たせるような沈黙の後で、真田悠人が口を開いた。
「僕には二人……幼馴染の親友がいることは、前にも話しましたよね?」
「ああ、上條匡太と綾瀬川夏美……だろ」
「はい。それで、僕がまだ小学生の頃に、その幼馴染の……夏美の父親が、勤め先でセクハラ疑惑を掛けられて、一方的に会社をクビになってしまったのですが。そのおじさんは、本当に人が良くて。奥さんのことを愛していて。絶対にセクハラなんてするはずがないのですが、結局会社は被害者である女性従業員の言葉だけを信じ、おじさんのことを処分しました。女性という逆差別される立場を利用した、典型的な『弱者の暴力』ですね。そして、おじさんがどれだけ弁明しようとも世間は信じなかった。許さなかった。本当に……僕なんかにも、すごく良くしてくれる人だったのに――」
白皙の美少年が、歯を食い縛る。強く。強く。
「それでも、仕事をクビになった当初は、おじさんも言ってたんですよ。『神様は見てくれているから』とか、『神様は正しい者の味方だから』とか。でも、神様はおじさんのことを助けませんでした。どれだけ必死に再就職しようと頑張っても、セクハラ疑惑でクビになった人間なんて、普通は雇いません。それでもおじさんは家族のために、必死で就職活動を続け、続け、やっと吹けば飛ぶような零細企業に再就職が決まりました。しかし、そこでもセクハラの噂は広まっていて――。おじさんはイジメられたり差別されたりして、結局その会社を辞めてしまいました。それからおじさんは、毎日のようにお酒を飲むようになって。おばさんや、それに夏美にまで暴力を振うようになりました。夏美は……平気な顔して笑ってたけど、その痣は見ていられないぐらい酷くて。酷くて。そこで、僕はおじさんのことを殺してしまおうと考えたんです。おじさんが死ねば、夏美は救われるって」
「その、幼馴染のために……か?」
「はい。当時の僕は、自分のことを『頭がいい』と思い込んでいる、小賢しいガキでしたから。それで、色々計画を立てて。公園で飲んだくれているおじさんと、毎日のように話をして、最終的には自分の思い通りにできるよう洗脳しました。まるでコントロールフリークのように。それで、おじさんが僕の言葉を完全に信じ込む段になると、言ったんです。『夏美が言ってましたよ。お父さんなんて、早くいなくなってくれればいいのに。死んでくれればいいのに。会社でセクハラをしたお父さんなんて、不潔だし、家族の恥だから。いなくなって欲しいって。そうすれば、お母さんと二人で幸せに暮らせるのにって――』。まあ実際、夏美は僕や匡太が助けるまでは、おじさんのセクハラの件で学校でもイジメられていたわけですが。僕のその言葉を信じたおじさんは、酷く落ち込んでいる様子で。愛する娘にまで、自分がセクハラをしたのだと思われていることに、涙を流すほどショックを受けていたようで。そして、その一週間後に睡眠薬を大量に服用して、自殺しました。僕の計画通り、死んでしまったんです。それで、その次の日には葬式が開かれたわけですが。夏美は……すごく、泣いていて。泣いていて。泣いていて。泣いていて。見ていられないぐらい、悲しそうで。あんなに殴られていたくせに。あんなに怖がっていたくせに。そのことを忘れたように、彼女にとっておじさんは『優しくて頼りになるお父さん』で。でも、そんなお父さんを僕が殺してしまって――」
「………」
それからも、真田悠人は自分の罪について話し続けた。話し続けた。
綾瀬川夏美のこと。上條悠人のこと。
私は彼の昔話を聞きながら、その生き方が贖罪と――そして逃避なのだと知った。まるで、人間を農場から追い出したことを後悔し続ける、ボクサーのように。農場の仲間たちを不幸にしたことへの償いとして、自らを罰し続ける道を選ぶなんて――。
――なんて……愚かな。
――度し難いほどに、お前は……
真田悠人が学校でイジメられているのを知ったのは、そのすぐ後のことだった。
非常階段から見えるサクラは、いつしか完全に散っていて。葉桜になっていた。
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