第11話 綾瀬川夏美の憂鬱
《副軸――綾瀬川夏美[あやせがわ なつみ]》
石橋先輩たちへの暴力事件が発覚後、『匡太』やその場にいた私はすぐに生徒指導室に呼び出された。しかし、そこで目にしたのは世にも恐ろしい光景で。大怪我を負わされた石橋先輩たち五人は、別に誰かに命じられたわけではないにも関わらず、必死に『匡太』が罪に問われないように庇っているようだった。
「悪いのは、全部俺たちなんです」「俺たちが校舎裏で些細なことで殴り合いの喧嘩を始めて、それを上條君が止めようとしてくれただけなんです」「上條君は関係ありません」
しかし、教師陣が『直前に、五人が上條匡太を教室から連れ出したこと』や、『石橋先輩たちが上條匡太を、綾瀬川夏美と一緒にいて気に食わない。シメてやる。などと、以前から口にしていたこと』を、指摘すると。彼らはそれでも『上條君は何もしていない』と訴え、ついには自分の拳で自分のことを延々と殴り始めたのである。
その光景はあまりにも異様で。異常で。教師たちは自分の拳で血塗れになる五人を必死に止めていたが、偽物の少年は、養豚場の豚でも見るような絶対零度の視線を向けているだけだった。実に詰まらなそうに。
このままでは、さらに問題が大きくなってしまう。生徒たちを厳しく追及したせいで、こんな二次被害が出たのではないかと、保護者や教育委員会に厳しく弾劾される可能性だってある。――そう考えた教師たちは、結局その問題を『五人の生徒たちによる喧嘩』として、処理することとなった。石橋先輩たちは、『匡太』にあれだけの暴虐を振われたにも関わらず、身を挺して全力で彼のことを守ったのである。
そして――偽物は何食わぬ顔で日常に回帰した。
他の生徒たちも、まさか普段から喧嘩なんてしない匡太が、運動部で鍛えた五人の先輩を熨してしまったとは思わない。思えない。だから『五人の生徒たちが匡太を呼び出した後で、いきなり喧嘩を始めた』というその話を、完全に信じているようだった。
そして、私は幼馴染がどこに行ったのかを探るため、偽物への付き纏いを続けていたが。やはり本物の匡太の居場所は、わからなかった。
――もしかしたら、あの人が関係あるのかもしれない。
――前にいきなり話し掛けてきた、あの人が……
そう思い、あの信じられないぐらい美しい容姿をした、絶対的な美少女――。祠堂頸木さんについても、必死に調べたのだが。彼女は超が付くほどの有名人だったため、特定するのは実に簡単だったものの、何と声を掛ければいいのかわからなかった。『もしかしたら、幼馴染が別人に成り代わっているかもしれない』なんて、どう考えても頭がおかしい人の発言だ。もし周りにそんな話をした日には、カプグラ症候群を疑われ、メンヘラ少女として精神病院送りになることだろう。
――もしかしたら、そのうち帰って来るかもしれない。
――何でもない顔で、匡太は帰って来るかもしれない。
自分自身に、必死に言い聞かせる。何度も。何度も。何度も。何度も。
しかし、匡太は帰って来なかった。どこかに消えて、いなくなってしまった。
「……あれ? 何だこれ?」
そのことが悲しくて、不安で、元気なふりをするのはもう限界で。夜独りになると、私は無自覚に涙を流した。そして、止まらない。止まらない。
「匡太……どこにいったの? 匡太……匡太……」
匡太までいなくなってしまったら、私は本当に駄目だ。独りぼっちになってしまう。
そのことが悲しくて、私は布団の中で泣くことしかできなかった。悠人がいなくなり、匡太までいなくなろうとしていることに、この脆弱な心が耐えられるはずがない。
「悠人……匡太……会いたいよ。会いたいよ」
でも、泣いても何も解決しないことは、わかっていた。わかっていた。
だから私は、どんなに辛くても『匡太』の監視を続けなければならない。悠人に笑われないためにも。たった独りで――。
《主軸――上條匡太[かみじょう きょうた]》⑪
アキラと一緒に異世界に行った日から二日が経ち、また月曜日が迎えに来た。
俺は相変わらず祠堂頸木として信者たちに囲まれながら、順風満帆な、順風満帆過ぎる学校生活を送っている。
頸木は、いったい何が気に食わないのだろうか? どうして、こんなにも完璧な自分を『もういらない』と言ったのだろうか? ――その気持ちは、わからない。
もしかしたら、彼女は本当は今すぐにでも自分の身体に戻りたいが、自殺した俺に腹を立てて素直になれないだけかもしれない。俺の自殺に巻き込まれたことが許せなくて、あんな意味不明なことを口走ったのかもしれない。
「いや、でも……おかしいだろ? そういう感じじゃないって言うか」
放課後になり、生徒会室前の廊下から中庭を眺めながら、独りごちる。
「何を悩んでおられるのですか、お姉様?」
そんな俺に、心配した顔で黒宮小春が声を掛けてきた。
明るい金色の髪を二つにまとめた、目尻のやや吊り上がったエメラルドの瞳を持つ少女――。どこか小悪魔的な雰囲気を醸し出す、金髪碧眼の美少女である。
「いや、何でもないよ。ちょっと中庭を眺めていただけで」
俺は適当な笑顔を浮かべ、適当に答えた。
「中庭って……あの、二年の男子生徒たちですか?」
「え? 知り合いなのか、小春?」
「いえ、別に『知り合い』と言うほどのものではございませんが。あんな、下賤な者たちのことなんて」可愛い顔を露骨に歪め、小春が首を振る。「でも、あの生徒たちは……自殺した真田悠人を、イジメていたメンバーじゃありませんか?」
その言葉を聞いて、ぼんやりと中庭にいる生徒たちを見つめる。見つめる。
「……えーと、そうなのか?」
「そ、そうなのかって――」
そこで、金髪碧眼の美少女が驚いたように目をしばたたかせた。
「あのイジメは、頸木お姉様がやらせていたんじゃないですか」
「――え?」
「前に訊いたとき、御自身でおっしゃられていましたよね? 目障りだから、二年の男子生徒を使って、真田悠人のことをイジメていると――」
「………」
フリーズ。フリーズ。フリーズ。フリーズ。
その言葉を聞いて、脳がフリーズを引き起こす。
いったい何を考えればいいのか、わからない。
いったい何を感じればいいのか、わからない。
――悠人へのイジメは、こいつが扇動していたのか?
――悠人を自殺に追い込んで殺したのは、こいつなのか?
「でも、まさかイジメを苦に自殺するなんて……。い、いえ、もちろんお姉様は何も悪くなんてありませんが。ちょっと、後味は良くないですよね。ああいうことをされると。まあ、美少年ではありましたから、一部の女子たちは悲しんでいましたけど――」
小春が何かを話しているが、その言葉は、もう俺の耳には届かない。届かなかった。
悠人へのイジメを扇動していたのが、祠堂頸木なのだとしたら。悠人を殺したのが、祠堂頸木なのだとしたら。俺はいったい、どうすればいいのだろうか? 彼女に対して、どんな感情を抱けばいいのだろうか? それさえも、もう俺にはわからなくなっていた。
――それでも……
ただ――それでも俺のやることは、変わらない。変わるはずがない。そのことだけは、はっきりと理解していた。
一日でも早く自分の身体を取り戻して、取り戻して、そして……。
《副軸――祠堂頸木[しどう くびき]》
黒宮家に引き取られ、何不自由のない暮らしを始めた私は、しかし無聊な日々を過ごしていた。相変わらず私の周りには、豚しかいなくて。彼らとの会話を成立させるために、私は『ブヒブヒ』と、豚の言葉を発し続けなければならなかった。
中学でも、高校でも、豚たちはまるで神のように私のことを崇拝し、崇め奉った。豚たちの神様をやらされるなんて、笑えない冗談だ。
だから私は、クラスの豚どもを皆殺しにしようと考えた。文化祭で作るカレーに致死量の砒素を混入することで、皆殺しにようと考えたのだ。
未成年が致死量の砒素を手に入れるのは、殺虫剤にしても殺鼠剤にしても身分証が必要であるため困難だが。私はネットで知り合った製薬会社勤務の男を洗脳し、容易にそれを手に入れることに成功した。
そして十月末――、いよいよ文化祭当日が訪れる。
私は液状の砒素をカレー鍋に混入すると、自分だけがカレーを食べていなくても不自然でない状況を作り出すため、信者たちを巻いて独り非常階段へと向かった。
階段からぼんやりと外の様子を眺めながら、クラスメイトたちが藻掻き苦しみ、死んでいく姿を想像する。想像する。想像する。想像する。
私が味付けをしたカレーであれば、教室の信者たちは必ず、ありがたがって食べるはずだ。だから少なくとも、死者は三十人以上になると予想された。そんな算段を立てながら、私は昔のことを思い出していた。家族を一家心中させたときのことを、思い出していた。
「こんなところに、おられたんですね」
そのとき、不意に後ろの非常扉が開いた。
そこに立っていたのは、色素の薄い髪と白い肌をした、線の細い端正な顔立ちの美少年――。同級生の真田悠人だった。
――こいつは、確か……
別に彼のことを、特別に覚えていたわけではない。たまたま、私がカレーを作る数十分前に、廊下でぶつかっただけだ。数瞬だけ目が合っただけだ。それで、小春から名前を聞いて、覚えてしまっていただけに過ぎない。
「何の用だ、真田悠人?」
「いえ、文化祭が始まったと言うのに……学園の生徒会長様がこんなところにいても、いいんですか? みんなが待ってますよ」
柔和な笑顔を浮かべ、少年が言った。
まるで薄いガラスのような表情だと思った。
「私は……今は少し、休憩中だ。クラスの出し物を作るのに、苦労したからな」
「……そうですか」
非常扉の前に立ったまま、真田悠人が呟くように言う。そして――
「少しは、後悔できましたか?」
そう言って、白皙の美少年が小瓶を持ち上げた。それは学校の料理部で使われている、備品で――。私が砒素を入れるために使用した、舞台装置だった。
「すいません。カバンに入っていたものを、勝手にすり替えさせてもらいました。あなたがカレーに入れたのは、ただの水道水にニンニク臭を加えたものです」
「お前……」
その瞬間、私は急速に意識が覚醒するのを自覚する。
あまりのことに、生まれて初めて誰かのことを括目した。
――何だ、こいつは? いったい、どうして……
驚愕――。驚愕――。驚愕――。驚愕――。
初めて感じるそれは、劇的で、そして私は血が滾るような興奮を覚えた。
別に、その少年が私の犯行を予見したことに、驚いているのではない。砒素と水道水を、私に気付かれないほどの鮮やかな手並みですり替えたことに、驚いているのではない。
――たったの、3.14秒だぞ!
廊下でぶつかったとき、たったの3.14秒目が合っただけで、この少年は私の計画を見抜いた。そして、私が何を望んで『こんなこと』をしたのかまで、完全に理解したのだ。
「ああ、お前だったのか……」
涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。
涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。
涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。
涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。
涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。
涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。
涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。
涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。
涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。
涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。涙を流す。
そして、私は生まれて初めての涙を流す。欣快の笑みを浮かべながら。
十六年掛けて、たった一人だ。十六年掛けてようやく見つけた、たった一人だ。
私はやっと、『人間』を見つけ出すことができた。この豚に支配された世界で。
「ありがとう……ありがとう……」
真田悠人を――見つけ出すことができたのだ。
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