第5話 祠堂頸木の日常

 


 《主軸――上條匡太[かみじょう きょうた]》⑤



 目覚まし時計が鳴り、朝が迎えに来た。

 俺が自分の部屋から一階に降りると、小春が朝食を作ってくれていた。

 フレンチトーストに、オムレツに、ウインナー。朝の挨拶を交わした後で、それらを美味しく平らげていく。平らげていく。こんな美少女に毎日、御飯の準備までしてもらえるなんて、祠堂頸木は随分と恵まれた生活を送っているらしい。


「……ごちそうさまでした」


 朝食を食べ終える。と、すぐさま金髪碧眼の美少女が片付けに取り掛かった。

 歯を磨き、部屋で女物の制服に着替え、妹分の少女が作ってくれた手作り弁当を持って、久城峰学園へと向かう。

 本当は、俺はすぐにでも自分に――、上條匡太に会いに行きたかったのだが。小春がそばを離れないため、学校をサボることができなかったのだ。


「おはようございます、頸木様」「頸木会長、おはようございます」「今日もいい天気ですね」「頸木様、昨日はよくお休みになられましたか?」


 家を出ると、高級住宅街には数十人の少年少女が待ち構えていた。どうやら、久城峰学園の生徒たちであるらしい。祠堂頸木の友人……だろうか?

 真面目そうな彼ら彼女らに出迎えられた俺は、とりあえず簡単な挨拶を交わした後で学校へと向かった。久城峰学園までは、歩いて三十分と言ったところだろうか。俺の隣には金髪碧眼の美少女が連れ添い、その後ろをぞろぞろと数十人の生徒たちが付いて来る。まるで、大学病院で総回診を務める教授大先生にでもなった気分だ。

 小春が厳しい態度で接し、それに後ろの数十人が迎合しているのを見るに、どうやら彼らは『頸木の友だち』ではなく『取り巻き』や『信者』と言ったポジションの、生徒であるらしい。俺の隣を歩いていいのは妹分の黒宮小春だけで、他の生徒たちは後ろを歩くことのみ許されているようだ。


 ――いや、て言うかおかしいだろ。

 ――何だよ、この状況……


 その異様な雰囲気に圧倒されて、思わず眉を顰める。

 この祠堂頸木という美少女がいったい何者なのかは知らないが、毎朝こんなにも大勢の生徒を従えて登校するなんて、普通ではない。いったいどれほどのカリスマ性を発揮すれば、こんな状況に身を置くことができるのだろうか。


「……おい、お前!」


 そんなことを考えている。と、不意に俺は目の前を歩く上條匡太を発見し、慌てて声を掛けた。制服姿の少年が振り返る。


「……えーと、頸木会長。どうかしましたか?」

「あ、いや……」


 声を掛けられ、不思議そうに首を傾ぐ少年の姿を見て、俺はすぐにそれが上條匡太ではないことに気が付いた。

 染めた髪を整髪料で整え、耳にピアスを開けた少年だ。その身体は俺とは違い、サッカー部で鍛えているためガッシリとしている。

 確かに顔や背丈はまったく同じだが、これだけ違うのだから間違えるはずもないのだろう。そこに立っていたのは、俺の双子の弟である上條匡助[きょうすけ]だった。


「悪い、何でもない」

「……そうですか」


 俺の言葉を受けて、匡助が踵を返す。そして周りの友だちに笑顔を向け、冷やかされたり、雑談を交わしたりしながら歩いて行った。


「今のって、確かサッカー部の上條匡助ですよね? い、いったいどうなさったんですか、頸木お姉様……あの生徒がどうかされたんですか?」

「いや、どうかしたって言うか……」

「もし彼が何かお姉様に失礼なことをしたのなら、おっしゃってください。すぐにでもこの小春めが、学校にいられなくなるよう排除して御覧に入れますから」


 冗談を言っているのかとも思ったが、その小悪魔的少女の顔は真剣だった。

 俺は慌てて首を振り、笑顔を向ける。


「い、いや、排除って……そんな物騒な。ただ、人違いをしただけだよ」

「……そうですか。それなら、よろしいのですが。気に入らない生徒がいるようでしたら、いつでもおっしゃってください。すぐにでも、お姉様の学園から追放いたしますから」


 いまいち納得していない様子で、小春が言った。

 気に入らないからと言って、生徒一人を簡単に排除できてしまえるなんて――。この祠堂頸木という美少女は、いったいどんな権限を持ち合わせているのだろうか。もちろん、普通の学校の生徒会長には、そんな権限はないはずだが。


「………」


 そんなことを考えながらも、久城峰学園の私立特有の豪奢な校舎に辿り着いた俺は、祠堂頸木としての高校生活を開始した。

 クラスは小春と同じく特進クラスで。運動はともかく勉強などは、他の生徒に付いて行けるかどうか不安だったが、祠堂頸木の身体を持つ俺は驚くほど何でも完璧に熟すことができた。小春や他の生徒たちの話によれば、この絶対的な美少女は容姿端麗なだけでなく、成績が図抜けて優秀なうえにスポーツ万能で。全国模試では常に一位、剣道の大会では一年生にして全国優勝まで果たしているらしい。悠人も色々とすごかったが、この少女は本当に規格外で。神様に溺愛されていて。


 ――本当に、異常なほど完璧なんだよな……


 改めて祠堂頸木のスペックを認識し、俺は思わず溜め息を付いた。まあ、高校一年生にして生徒会長を任されている時点で、そもそもが狂っているのだろうが。


「………」


 そんな絶対的な美少女として、図らずも学園の女王に君臨した俺は、午前の授業を何とか乗り越えて生徒会室で小春が作ってくれたお弁当を、食べることにした。

 やたら豪奢な家具や家電が揃えられた応接室で、副会長の小春や他の生徒会メンバーと一緒に食事をする。食事をする。そして昼休みに入り、俺も何か生徒会の仕事をしなければいけないのかと思っていたが。基本的に祠堂頸木は『学校運営における最終的な決定』を下すだけで、雑務はすべて他の取り巻きたちがやってくれるらしかった。

 そして午後の授業を終えた俺は、放課後に入ってすぐに『少し用事があるから』と言って生徒会の仕事を切り上げることにする。妹分の小春は、『いったい、何の用事がおありなのですか?』『小春も御一緒させてください』と食い下がったが、俺は何とか誤魔化して独りになることに成功した。


 ――まさか、独りになるのにここまで苦労するとはな。

 ――どんだけ取り巻きが多いんだよ。


 心の中で、ついつい愚痴を零す。辟易する。

 ともあれ、ようやく独りになった俺は、当初の予定どおり上條匡太の身体を持つと思われる祠堂頸木本人に、会いに行くことにした。

 まずは歩いて、俺の住んでいるアパートへと向かう。頸木がまだ帰ってきていないことを確認する。その後で、俺は行き違いにならないようにアパートから三雲高校へと向かう通学路を、注意深く哨戒することにした。

 俺は三雲高校では園芸部に入っていたが、基本的に幽霊部員だったため、放課後は学校が終われば真っ直ぐアパートに戻るはずだ。そんな推察もあり、頸木のことを通学路で待ち伏せることにしたのである。


 ――まあ、もちろんそれは、頸木がちゃんと学校に行っていたらの話だが……


 三雲高校へと続く通学路を歩きながら、心の中で独りごちた。

 きっと頸木も、いきなり自分が自分でなくなって酷く混乱しているはずだ。しかも俺と同じように、他人の身体であんな危険なクエストに参加させられた可能性が高い。もしそうなら、きっと今も、不安に押し潰されそうになっているのではないだろうか。

 そんな悲運な少女が、上條匡太としてまともに学校に行っている可能性は、やはり低いような気がした。アパートにいないことは電気メーターを見て確認済みなので、もしかしたら学校には行かずに、別の場所を彷徨っているのかもしれない。あるいは――


「まさか、クエストで死んじまった……なんてことはないよな?」


 自分の口から出た言葉に、自身で絶望する。

 もしも俺と頸木の魂が入れ替わっていて、彼女も同じように異世界であのクエストに参加させられていたなら、すでに死んでいる可能性だってあるのだ。俺だって、アキラや十文字さんの助けがあって、運良く生き残れたに過ぎないのだから。


 ――さすがに、それは可哀想だな……


 そんな風に考え、俺が同情に足と止めている。と、前方から見覚えのある二人組が現れた。何気ない足取りで、こちらへと向かってくる。

 一人は――蜜を溶かしたようなセミロングの茶色い髪。クルミ型の愛らしい大きな瞳を持つ、陽性な少女だ。明るくて快活な雰囲気を備えた、学年一の美少女――。中学の頃から水泳部に所属していたこともあり、そのスタイルは健康的に鍛えられている。

 間違いなく、俺の幼馴染である綾瀬川夏美だった。そして、もう一人は――


「おい、待てよ! お前――」


 そのまま通り過ぎようとする少年に、思わず叫んだ。

 目に掛かるほど長い黒髪と、死んだ魚のような目。常に卑屈な表情を顔に張り付けた少年が――。上條匡太が、そこで初めて俺の存在に気付いたかのように視線を向ける。


 その目は、まるで養豚場の豚でも見ているようだった。


 射竦められる。射竦められる。射竦められる。射竦められる。

 その絶対零度の視線に貫かれて、俺は二の句が継げなくなった。まるでヘビに睨まれたカエルのように、身じろぎすらできない。


「え、匡太……知り合いなの?」


 どこか怯えた表情を浮かべ、夏美が問い掛ける。


「いいや、知らないけど――」


 少年は、実に自然な笑顔を向けた。一流の舞台俳優のような。


「久城峰学園の生徒みたいだから、きっと匡助と間違えたんじゃないかな」

「……そ、そっか。匡助君とは双子だもんね」

「………」


 そんな会話を交わした後で、二人は通り過ぎていく。通り過ぎていく。

 俺は、呼び止めることさえできなくて。とにかく、酷く混乱していて。


「……どうしてだよ?」


 ――どうしてあいつは、あんなにも普通に上條匡太をやってるんだよ? 上條匡太として、生きてるんだよ? もしかしたら、おかしいのは俺の方なのか? 俺は本当は祠堂頸木で、でも頭を打ったか何かでおかしくなって、それで自分のことを上條匡太だと思い込んでいるだけなんじゃないのか?

 ――いや、違う。そんなはずはない。俺は俺だ。上條匡太だ。だって、異世界でも……グランヘイムでも、確かに俺のネームリングは『上條匡太』になっていた。だから、おかしいのは俺じゃない。あいつの方だ。上條匡太の記憶だって、しっかりと俺の中にあるのだから。あるのだから。


 ティロリロリン―― ティロリロリン――


 そのとき、スカートのポケットの中で不意にケータイが悲鳴を上げた。

 すぐさま画面を確認すると、『グランヘイム・オンライン』のアプリを通して、誰かからメールが届いていた。


『連絡が遅れて、ごめんなさい。赤沢アキラです。その後、怪我の具合はどうですか? もし良かったら、メールください』


「………」


 アキラからのメールを確認した俺は、すぐさま返信。彼女と会う約束を取り付けた。

 誰でもいいから、話がしたかったのだ。俺が俺であることを、再確認するために。



 《副軸――黒宮小春[くろみや こはる]》



 私は子どもの頃から、神様の存在を信じていた。

 お父様は、将来は総理大臣間違いなしと噂される新進気鋭の政治家で。お母様は、ミス・ワールドに選ばれたこともあるイギリスの至宝で。そんな二人の娘として存在する私は、生まれたときから誰よりも可愛くて、誰よりも頭が良くて、誰よりも運動ができた。みんなが私のことを褒め称し、まるで中世のお姫様のように扱ったのだ。

 私は自分のことを、神に選ばれた存在なのだと確信していた。自分以外のものは、お父様とお母様以外はすべて愚劣で、私たち家族だけがこの世界で唯一尊いものなのだと信じていた。そんな黒宮家に、あの方がやって来たのは私が中学一年生の頃のことだった。

 その少女は、お父様の遠い親戚の娘で。家族が一家心中したために、家で引き取られることになった。

 腰まである銀桜色の髪と、鋭い狼の瞳。そのすべてが詰まらなそうな表情とは裏腹に、顔の全パーツが完璧な精緻で整った絶対的な美少女――。

 確かに彼女は、今まで見たこともないほどの美少女だったが、それでも私だって負けていない。負けていないと、思っていた。勉強や運動も信じられないぐらい良くできたが、当時の私はとにかく彼女に対抗意識を燃やしていて。負けたくなくて。私こそが神様に祝福された存在であるはずなのに、その少女のそばにいると、自分が酷く霞んでしまうような気がして。だからとにかく、勝つために努力したのである。

 しかし、何をやっても彼女に勝つことはできなかった。彼女を超えることはできなかった。容姿も、勉強も、運動も、カリスマ性も、その少女は私の圧倒的な上を行っていたのだ。それまでは、何をやっても私が一番だったのに。


 くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。

 くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。

 くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。

 くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。

 くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。くやしい。


 それは、嫉妬なんて生易しい感情ではなかった。もはや『恐怖』だった。

 こんなにも自分の上を行く少女が存在するなんて、本当に恐怖だったのだ。

 そんなある日、事件が起こった。顔を洗って食堂に入った私は、そこで信じられない光景を目の当たりにする。


「すいませんでした! すいませんでした!」


 それは、男性の声だった。私の良く知る、男性の声だった。

 床に正座したお父様が、少女に向けて土下座して――。血が滲むほどに、床に頭を擦り付けながら何かを謝罪していたのである。

 お父様が誰かに頭を下げている姿を見たのは、もちろんそれが初めてだった。これまで仕事でどれだけ悪いことをしても、決して謝らなかった父が。誰かに頭を下げられるために生まれてきたような、尊敬すべき威厳ある父が。なんと中学生の小娘に向かって、家族や使用人たちの見ている前で、屈辱的な五体投地の体で平謝りしていたのである。

 私は目の前の光景が信じられなくて、その理由を近くにいる使用人に尋ねた。すると使用人は、『旦那様が、頸木様に醤油ではなくソースを手渡したからだ』と答えた。その少女は目玉焼きには醤油だと決めていたが、お父様は間違えてソースを手渡してしまい、そのことを謝罪するために土下座までしているらしかった。

 その姿を見て、愚かな私は、私は、私は、私めは、ようやく理解した。

 彼女こそが、『絶対的な存在』なのだ。彼女こそが、神の寵愛を受けているのだ。私なんて、その足下にも及ばない。ただの家畜に過ぎないのである。


「ああ、お姉様……頸木お姉様……」


 そして恐怖は絶対的な崇拝へと変わり、私は自身の存在理由[レゾンデートル]を自覚した。彼女のために生きることこそが、自分にとって最大の幸福であるのだと――ようやく自覚したのだった。まるで天啓を授かったかのように。

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