六月七日
りーりん
六月七日
6月7日、午前6時30分。
予めセットしてあった目覚まし時計が鳴り、目が覚めた。
そのまま身を起こさず、5分くらいベッドの中でまどろみながら今日やる事をリストアップしていくのが毎朝の日課。
寝起きの脳を起動させる為でもあるが、嫌な「やる事」を思い浮かべると眠気が覚めやすいからだ。
嫌な「やる事」が今日は2回もあるということを思い出した。
ひとつは、今日が提出期限のレポート課題をまだ終えていないということ。
もうひとつは、制作課題の発表会があること。
シュウイチは福祉科の大学生だ。卒業後は老人ホームで介護士になろうと考えている。
何故その道を選んだのか、それは簡単に説明出来る。
父方の祖父母、おじいちゃんおばあちゃんはとても人柄のよい人物で、亡くなるまで大切に可愛がってもらっていた。
恩返しというまでいかないが、老人の為に働きたいと思ったそうだ。
シュウイチは脳内整理を終え、今度こそ身を起こす。ひどい寝癖は毎度のこと。
洗面所へとのそのそ向かった。
戸建ての2階に自室があり、洗面所は1階。特にこれといった特徴のない、よくある量産型の家。
家を購入した決め手は安さと立地だと、シュウイチの父は語っていた。母は優しさの塊で出来ているような人で、父の判断を後押しし、ローン返済の為仕事も始めた。
シュウイチは一人っ子なので、両親の愛情全て受けて育った。若干我が侭なところはあるものの、母に似て思いやりのある男になったと祖母が漏らしていた。
「あら、おはよう。今日は早いのね」
洗面所から身支度を終えたシュウイチを見かけた母が声をかけた。
朝食を作っている最中のようで、少し慌ただしそうにしている。
「おはよう、今日は早めに出るから。あ、ご飯いいや」
「そうなの? もう卵焼いちゃったのに……お父さんのぶんにしておくわ」
そう言って、母は焼きたての卵焼きを白いお皿へと移した。
「今日は遅いの?」
「多分。遅くなるようだったらメールするよ」
シュウイチもいそいそと階段を駆け上がって、自室へと戻った。
適当な服を見繕って、着替える。
今の時期、朝晩は冷え込むが昼間は暑くなるという気温差に悩まされるが、とくに見た目を気にしないシュウイチは適当に着込み、適当に脱げる薄手のジャケットを羽織った。
リュックに今日の教材やら何やらを詰め込み、鏡で軽く身だしなみを整える。
黒い短髪に黒い眼鏡。今日はコンタクトをつける時間がないようだ。
決して整った顔立ちではないが、どことなく愛嬌のある顔で年上、それもかなり上の女性に何故か可愛がられる事が多い。
残念ながら、同年代から可愛がられた経験は皆無だ。
自室を出て階段を駆け下り、「いってきます」と挨拶をして家を出た。
「いってらっしゃい、気をつけてねー」
今日は晴れ。
涼しく過ごしやすい朝の風がシュウイチを出迎えた。
最寄り駅まで徒歩10分。そこから電車で30程行ったところに大学がある。
いつもの通学路を、いつものように、やや駆け足で駅へと向かう。駆け足なのは大学でレポートを作成しようという気持ちのあらわれだ。
普段は8時くらいの電車に乗っているが、今の時間は7時20分。
40分早く大学へ向かったからといってレポートが出来上がるのか、それはやってみなければわからなかった。
駅前の商店街はまだ眠っていて、ちらほらと駅へ向かう人がいるだけの静かなエリアとなっている。
そこを通り抜ければ駅のロータリーに出るのだが――。
「キャーッ!」
静かな商店街から弾けていくような女性の叫び声が響き渡った。
通行人が、シュウイチが声のした方へ咄嗟に視線を向ける。
シュウイチの瞳に、血を流しながら倒れている女性と、一目でわかった凶器の刃物を持った男がいた。
男は女性を足で踏み倒しながら歩きを止めず、徐々に加速させて次の標的の元へ駆け寄っていく。
あまりにも非日常的な光景を目の当たりにしたシュウイチの思考は停止していたが、徐々に近づく男に対する恐怖でハッとした。
逃げないと!
頭ではわかっているが体が動かない。
男との距離は3メートルもない。猛スピードでシュウイチを見つめながら、一心不乱に走り寄ってきている。
今逃げても間に合わない。何かで防がないと。
そう考えている間に、男との距離は1メートルよりも短くなっていた。
シュウイチは思った。こういう時は何も考えずに逃げることだけ集中しよう、と。
男に刃物を腹へ突き刺された後、そう思った。
シュウイチの腹へ刺した刃物は勢いよく引き抜かれ、血しぶきが男の衣服や顔にも飛びついた。
男は顔色ひとつ変えず、むしろ口元を緩ませながらシュウイチを蹴り倒し、次なる獲物を狙いに走り出す。
シュウイチの目線は、空を向いていた。
血液が大量に流れ出ている為激痛を感じる余裕がない。腹辺りにある違和感はわかるが、息をする事の苦労さの方が勝っている。
本人は大きく息を吸っているつもりだが、実際には体内から溢れ出てくる血液をはき出しながらなのでたいして吸えていない。
瞳は焦点が定まらず、ただただ空を見ようとする。
シュウイチの命があっけなく尽きようとしている。
周囲では更に被害が拡大しているようだが、遠くからサイレンも響いてきている。
やがて辺りが静かになり、空は暗闇に覆われた。
刺されてからほんの数分で、シュウイチは意識を失った。その後病院へ運ばれたが、意識が戻ることはない。
この事件は通り魔事件として日本中に知れ渡った。犯行動機は特になし、精神的に善悪の判断がつかないなどという理由だった。
☆
6月7日、午前5時30分。
まだ朝日が差し込む前の時間から、階段を駆け上がる音が家中に響いた。
その足音はシュウイチの部屋のドア前で止まり、ノックもせず開かれる。
まだ眠っていたシュウイチは突然の事に驚き、まだ眠そうな瞼を開けながら上半身を起こした。
入室してきたのは母だった。
「なんだよこんな朝から……」
シュウイチは驚いているが、母もまた驚いていた。
何か恐ろしいものを見ているかのように眼を大きく見開き、表情が強ばっている。
そして一言も発せず、その姿から何か異様さを感じたシュウイチ。
「なに、何かあったの?」
「あ……寝ぼけてたみたい、ごめんごめん」
母はそう言って、部屋のドアを再び閉めた。寝ぼけていたとはいえ、何か尋常じゃない事態でもなければあのような引きつった表情は出来ない、とシュウイチは思った。しかし本人が寝ぼけていた、と言ったらそれを信じるしかない。
いきなり起こされたシュウイチは気を取り直して、再び目覚まし時計が鳴る時間まで眠ることにした。
それから1時間後、セットしておいた時間に目覚まし時計が鳴り、シュウイチは再び目覚めた。中途半端に眠ってしまったような気だるさが残り、それを感じつつも体を起こす。
今日、彼にはやらなければならない事がある。
重い足を引きずるようにして洗面所へ向かった。
1階では母が朝食の用意をしている。味噌汁と卵焼きの香りが入り混じった空気がシュウイチを包む。
「あ、おはようシュウ。朝ごはんは?」
「おはよ。いいよ、もう出掛けるから」
シュウイチは挨拶を交わしてから洗面所へ行き、髪の乱れを整えたり、顔を洗っていく。
母はその様子を耳で聞きながら、何かを考えているようにして調理している。普段と違って手が止まりがちになり、表情は硬い。
シュウイチは自室へ戻り、私服へ着替えた。リュックに必要なものを詰め込んで、足早に階段を駆け下りる。
今日は普段よりも早く大学へ行き、レポートを仕上げなければならない。
「シュウ、ちょっと待って」
玄関で靴を履き替えていると、母が声をかけてきた。
「駅まで車で送るから」
「え、いいよまだ間に合うし」
普段は送りも迎えもしない母が今日は何故か送ると言い出し、シュウイチは驚いたというより何か別の意図があるような気がして仕方なかった。
今朝の母の様子は何かおかしい。
「ちょっと用があるのよ。ついでだから送ろうかと思って」
母は車の鍵を持ち出して玄関で靴を履き始める。
これといって駅まで歩かなければならない理由も、断る理由も思いつかないシュウイチは、駅まで送ってもらうことにした。
2人は軽自動車に乗り込み、自宅を後にする。
特に会話はなく、3分程で駅に着く。
もう見慣れた大通りは普段より静かで、無言の車内はますますその静けさを強調している。
信号が赤から青に変わり、右折する。
もう駅は目前だ。
だが、駅へ行く用事はこの交差点で消えてしまった。
右折している時、信号が赤にもかかわらずシュウイチ達が乗る車へ速度を落とさず突っ込んできた。
助手席のドアを破壊し、無理矢理ねじ込んでくる車体に押しつぶされるように、シュウイチの体が挟み込まれていく。
母は衝撃を受けた際頭を窓ガラスへ強く打ち、意識を失っていた。
衝突してからほんのわずか数十秒の間に、シュウイチは命を奪われてしまった。
その日のお昼に、地元のニュースで事故の様子が放送された。
突っ込んできた運転手は酒で酔っており、軽自動車の助手席にいた男性は即死、運転手は重傷だとアナウンサーは淡々と話していた。
☆
6月7日、午前5時30分。
梅雨入り宣言から2日経った今日は、晴れていた。
まだ朝陽が差し込むには早い時間なのだが、シュウイチの部屋のドアがそっと開かれる。
開かれた事にも気付かず、熟睡している。
ドアを開いたのは、母だった。
その表情は穏やかではなく、今にも泣きそうだ。
母は、寝ているシュウイチの体を優しく揺さぶり、目を覚まさせた。
「な、なに……」
突然起こされたシュウイチ。まさか寝坊したのかと思い、慌てて体を起こし目覚まし時計を手に取る。
そして、大きく息を吐いた。
「まだ5時半じゃん……」
思っていたより早い時間だと知り、シュウイチは何事かと母を責めた。
「シュウ、ごめんね早朝から。聞いてほしいことがあるの」
シュウイチの頭にひとつの言葉が過った。
まさか、離婚でもするのだろうか、と。
母は今にも涙を流しそうな程瞳を潤ませ、寝起き後すぐにこの部屋まで来たのか、寝ぐせも直されていない。
「落ち着いて聞いてほしいの。あのね……」
シュウイチは黙る。
「今日が、何度もくるの、もう今日で3回目。目の前が真っ暗になって、気が付いたらまた今日の朝」
「今日が今日きて今日の朝?」
母の言っている事が理解できない。寝起きの頭を働かせてみるも、やはり意味がわからない。
まずは落ち着くよう、母を宥めた。
「もうちょっとわかりやすく……」
「あぁ、そうね。今日は7日だけど、今日が終わると8日になる。これが当たり前じゃない? でも、何故か次の日も7日。その次の日も7日なの」
「つまり……7日を繰り返してるってこと?」
シュウイチの結論に、母は大きくうなずいた。
「それで、7日、シュウは学校へ行くでしょう? 信じられないと思うけど、あなた必ず……」
母は言葉を詰まらせ、涙を流した。
「必ず、死んでしまうの」
シュウイチは言葉を失った。普段から冗談も言わず、嘘もつかず、素直な母がまさかこんな空想のような話を早朝からするなんて、と。
わざわざ涙を流してまで妄想を話すだろうか?
「7日が繰り返されてるのを、あなたもお父さんも知らない。信じてもらえないかもしれないけど、本当なのよ」
信じたいところだが、シュウイチにとって昨日は6日であり、今日を迎えたのはこれが初めてだ。
死んだ覚えもない。
「信じなくてもいい、それでもいいから、今日は家にいてほしいの。外へ出るとシュウは死んでしまうから……」
「いや、今日は学校行かないと。単位もかかってるし」
今日休むわけにいかなかった。
大学の出席率があまりよくない授業が今日行われる。それを欠席してしまうと、単位を落としかねない。
「命より大事な事なんてないでしょう?」
母のいう事はもっともだが、まさか自分が今日命を落とすとは想像もつかない。
「まぁ、そうだけど……気を付けるようにするよ」
「どうしても休めないの?」
「意識して気を付ければ大丈夫だよ、心配しないで」
シュウイチは母を安心させようと説得を試みるが、あまり心に響いていない様子。
「家を出たら商店街は避けて。大通りもちゃんと車の動きをよく見て。今日一日、注意してね?」
「うん、わかった、わかったよ」
母はまだ納得していないようだが、これ以上言っても仕方ないと思ったのだろう。部屋を出て行った。
確証はないが用心はしておくか、と心の片隅に留めた後、今更眠れもしないので大学へ行く準備をはじめた。
同日、7時ちょうど。
シュウイチは予定よりも早めに家を出る事にした。玄関で母が見送る中、シュウイチは家を出る。
まだ街は眠りから覚めたばかりで、鳥の鳴き声と風のささやきのみ聴こえてくる。
商店街を避けて、と母が言っていた事を思い出し、少し遠回りだが住宅街を通ることにした。
そういえば、自分はどうやって死んだのか、と考える。交通事故、落下物直撃、滑って転んで打ち所が悪くて、通り魔、急な心臓発作。
こうやって挙げてみると、様々な死に至る要因が多い事に少し驚いた。何かのきっかけで人は簡単に死んでしまう。
その、なにかのきっかけで今日シュウイチは死ぬそうだが、何故母は今日という日を繰り返しているのだろうか。別にこれといって特別な能力などない。
いや、シュウイチが知らないだけでもしかしたら何か特殊な能力が備わっているのかもしれない。
などと考えながら住宅街を通り抜け、もう駅は目前だ。
気を抜かないよう、まわりに気を付けながら駅の改札を通り抜ける。
駅のホームで電車を待っていると、足元で違和感を感じた。
微小な揺れ。
地震だ。
その揺れは徐々に増し、大きく大地を揺れ動かしながらさらに力を蓄えているようだった。
(地震……避難しないと!)
母の言葉が脳裏を過る。
まさか、そう思いながらも襲い来る地響きに心臓を突き動かされる。
視界も揺らぎ、歩いているつもりがもたついて足が絡み、その場で躓いてしまった。
崩れ落ちる天井の壁、電球、電光掲示板。
壁に亀裂が入り、ゴロゴロと壁だった塊が崩れてきた。
激しく動く地面で成す術もないシュウイチめがけて塊が直撃、頭を強く打ち付けてシュウイチの身は倒れこんだ。
シュウイチはその衝撃で意識を失い、戻ることはなかった。
☆
6月7日、午前6時30分。
あらかじめセットしておいた時間に、時計が鳴り出した。
腕を伸ばして掴み、停止ボタンを押す。
時計を枕元へ放り投げ、普段よりも目覚めがいい様子で身を起こした。
こんな日は先に支度を終えておこう、そう思ったシュウイチは洗面所へ向かう。調子がいい時にやるべき事をやっておこう、と。
階段を下りてふとキッチンへ視線をやると、まだ誰もいなかった。いつもなら母が朝食を用意しているのに、寝坊とは珍しいな、などと考えながら洗面所のドアを開けた。
洗面所の奥には風呂場があり、水の流れる音が聞こえる。
こんな朝から誰か入っているのだろうかとあたりを見回すが、脱衣した形跡もない。
何故か気になったシュウイチは、そっと風呂場を覗いた。
そこには母の姿があった。
浴槽には水が溜まっていて、そこへ腕を浸すようにして座り込んでいる。
水は流れたまま。
母は無言で、水を赤く染めている。
シュウイチの体から一気に血の気が引き、最悪の事態だけが脳内を占めていた。
「母さん!」
シュウイチは母の側へ駆け寄り、肩を押さえて顔を見る。皮膚も唇も真っ青になり、瞼はしっかり閉じられている。
揺さぶってみたが起きる気配はない。
息づかいも感じられない。
シュウイチは震える体と咽を押さえながら、必死で叫び、父を呼ぶ。
☆
6月7日、9時30分。
母は帰らぬ人となった。
父は参考人として呼ばれているが、これは自殺だとシュウイチは思った。
理由はないが、何故か強くそう思った。
しかし、何故母が自殺を選んだのかまったく見当もつかない。毎日平凡な生活だったが、それが嫌だったのだろうか? はたまた、何か悪事でも働いて後ろめたい事でもあったのだろうか?
いや、母はそんな人じゃない、と考えを断つ。
母は優しく温厚な人で、庭で育てている植物の世話をするのが好きな人だった。
後日、母の葬儀が執り行われ、そこで初めてシュウイチは現実を受け入れ、涙を流した。
母はもういない。
あまりにも身近な存在で、でも空気のようだった。普段は何も思わないのに、いなくなった途端その存在の大きさに気付かされる。
平凡な親子だった。しかしその平凡も、今思うとすでに懐かしく、そして愛しい。
母がいつもいたキッチンへ入ると、台の上に真っ白な封筒が置かれていた。
封筒にはなにも書かれていないが、中に一枚の紙が。
母の文字で言葉が書かれている。
もし明日が来たら、大事にしてね。
過去を振り返らず、真っすぐ生きて、楽しい人生を。
六月七日 りーりん @sorairoliriiro
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