第2話 神の巫女
なんだかんだで二日目も寺院に来てしまっていた。
僕は明日花のためにカトゥーに来たのだ。
カイの言う通り、他にする事なんてない。
「昨日よりも人が多いね」
「あぁ。今日は一週間に一度のホートラの日だ」
「ホートラ?」
「仙道かすみ様が、カンニャーに、化身して民衆の悩みを説くんだよ。昨日言ったやつだ」
「どういうこと?」
「説明していなかったか。この寺院の巫女は神の化身とうたわれているんだよ。カンニャーと呼ばれている。本名は別にあるらしいけど俺も知らない。
みんなは敬意を込めてシュリーカンニャーと呼んでいるから、君もそう呼ぶと良い」
「シュリーカンニャー??」
「カンヤーでもカニヤーでもカンニャーでも良い。カタカナだと正確には発音できないし、好きなように呼べ良いさ」
「なんでそんな名前になってるの? 仙道かすみじゃないの?」
「さぁ、俺も詳しくは知らない。この国の明日花だと仙道かすみはシュリーカンニャーという名前になっているんだ。名前は違っても見た目は仙道かすみだから安心しろ。仙道かすみの生き写しと言っても良い。二次元がそのまま三次元に降りてきたみたいだよ。見たら度肝を抜かずぜ」
カイは息を荒くして興奮気味に話す。
一方で僕は距離を置いて冷静に状況を考えていた。
なるほど。コスプレみたいなものか。僕はレイヤーとくっついて同人から離れて行った知り合いを何人も見ているから、コスプレイヤー自体が若干トラウマになっている。
とはいえ、日本から遠く離れたこの場所で仙道かすみが見られることには興味を抱かずにはいられない。
そう。コスプレを賞賛することは良い。でもレイヤー自体に目を奪われて背後にある原作への敬意は忘れちゃダメだ。
謁見の間と称された部屋に行くと既に信者と思しき色黒のカトゥー人が列を成して座っている。老若男女を問わず、様々な階層の人がいたことに僕は違和感を感じていた。日本にいた頃、明日花のイベントに来た人、即売会で本を買う人は、ほとんど男しかいなかった。女はほとんど数える程しか見かけたことがない。にも関わらずこの部屋には女もいる。老人も子供もいる。
それはこの人たちが趣味や道楽で明日花を讃えているのではないことを何となく感じさせた。
僕の外見が珍しいのか、年老いた女性が興味ありげな目を向けながら話しかけて来る。
しかし、聞こえて来るのは聞きなれない言葉。おそらくはカトゥー語なのだろう。僕にはカトゥー語は全くわからない。
英語なら多少話せるので、キャンユースピークイングリッシュ? などと返してみるも、帰ってくるのはいぶかしげな表情のみ。
英語が通じないのか。
空港では土産物屋の店員、飲食店のウェイターが流暢に話していたから、この国の英語普及率は高いのだと思っていた。
しかし、それは空港だったからだろう。郊外に出てしまえばこのように通じない人も多いのだ。
言葉が通じないことがわかると、老いた女性は残念そうに引き下がった。
後ろを振り返ると、席を立っていたカイがいつの間にか戻って来ていた。
「おい、通訳してくれないか」
そう尋ねるや否や、突然辺りに琴の音らしき旋律が響き渡った。
カイに目を向けると、前を向けとでも言うかのように軽くあごをしゃくった。
それまで顔をあげていた周りの信者らしき人たちも、恭しく頭を下げ始める。
これは……、さっきカイが言ってた巫女が来ると言う合図なんだろうか。
疑問を浮かべながらも、同じように僕は頭を下げた。
頭上に足音がかすかに鳴り響いた。
来たのだ。
巫女が。
その姿をお目にかかりたいと言う欲求を殺しながら、横目で他の信徒たちの様子をうかがい、顔を上げるべき時を待った。
巫女とは一体どんな人物なのか。
日本人ではないとすれば、この建物にいる信徒たちと似たような風貌なのだろう。
色が浅黒く、瞳が大きい。
癖のある濃い黒色の髪。
カイは巫女が仙道かすみそのものだと言っていたけど、カトゥー人の特徴から考えたら、どうもそれを想像することはできない。
巫女のものと思しき声が辺りに響き渡った。
静まり帰ったこの場所に高く響いたその声は、僕の心を震わせた。
語られた言葉は明らかに日本語ではない。言葉は違っていても、その声は仙道かすみに似ていた。
辺りに布の擦れるような音が聞こえた。ふと横に目を見やると、信徒は顔をあげている。
それを確認して僕も顔を上げた。
目の前に浮かんでいた光景は激しく僕の心を揺らした。
なんだあれは?? 仙道かすみそのものじゃないか。
その巫女はまるでテレビに映っていたものと瓜二つの容貌だった。まるで、画面の中から飛び出して来たかのようだった。
僕はしばらく目を奪われた。
肌は雪のように白く、アニメキャラのように綺麗に束になった髪の毛。
口は小さく半月を描き、目はこれまでに見たどの人よりも大きかった。
日本から遠く離れた地でこんなものを目にすることができるなんて……。
彼女は僕に視線を向けると、にっこりと微笑んだ。それだけで僕の胸は感激であふれそうになった。
ふと、傍の男が僕に手のひらを向けながら、何かを話す。
僕が新参者であるということを説明しているのだろうか。
「巫女様の前に出ろ。
カイがそう耳打ちをしてくる。
僕は恭しく進んで巫女の前にひれ伏す。
巫女は何やら赤い粉が入った容器に指を入れると、僕のひたいにそれを付け、何かお経のような言葉を唱え始めた。
これで終わったのか、イマイチ判然としなかったが、僕は何となく終わりなのだと察して、元の席へむかった。
戻ってからも、僕は巫女のことを凝視していた。生まれてから女の子のことをこれほど見たのは初めてだろうと思えるくらいに。
巫女は信徒たちの話を聞き、何か言葉を返す。その言葉に感激したかのように、信徒たちは恭しく合掌して、頭を下げている。
そうした様子が何度か続くと巫女は奥の間へと去っていった。
僕の心はたとえようもない充実感に満ちている。
巫女が去った後、信徒たちは立ち上がって部屋を後にした。
カイは後ろの方で別の信徒らしき女性と話している。言葉が通じない僕はただ為すこともなくじっと座っていた。
巫女の余韻が薄らいで来た頃、ふと、さっきの起こったことに対する疑問が脳裏に浮かんだ。
僕が巫女の前に出た時、ひたいに付けてくれた印はなんだろうか。
明日花にこういうものがあったとは思えないし。
巫女の姿をよく見ていると、彼女の服装には明日花の仙道かすみとは少し違うところがあった。
衣装を作る技術が拙いのかとも思ったけどそうではない。
あれは意図的に変えているのだと思う。
やっぱり日本から遠く離れたこの場所では明日花も多少アレンジされているのだろうか?
仙道かすみは確かにアニメ六話あたりから、人々の悩みを聞いて解決する、いわば頼れるお姉さん的な存在になるのだが、この寺院の巫女はそれを踏襲しているように見えなくもない。
尤も、アニメの仙道かすみのように神通力を使って解決するわけじゃあなくて、何か解決の糸口になるような言葉をかけているようだろうけれど。
カトゥー語のわからない僕にはそれが何かわからないけれど、巫女の語りかける言葉に逐一感動して頭を下げる信徒たちの様子を見る限り、それは明らかだった。
「……!!」
背後から大きな声が聞こえた。
男の声だ。この広間の誰かに向かって怒鳴っている。
カトゥー語なので何を言っているのかは僕にはわからない。
男は、僕の二つ隣にいた初老の女性の腕を引っ張ろうとした。
言葉はわからなくても連れ帰ろうとしているのはわかった。
しかし、その理由がわからない。
言葉の意味を後ろに座っていたカイに聞いてみた。
「カイ、なんて言っているの?」
「どうやらあの男は、シーターさんの旦那のようだな。彼女が寺院ばかりにいて、家にいないから怒っているんだろうな。『俺と神さま、どっちが大事なんだ!?』とか『神さまに決まってるでしょ!』なんて言い合いが続いているよ。すごいな」
俺と神さま、どっちが大事なんだ! か。
何と強烈な言葉だ。日本にいたら絶対に聞けない言葉に違いない。
「でも、このままにはしておけないな。ちょっと待っててくれ」
カイは僕のわからない言葉で騒ぎの原因である二人に話しかけた。
カイが手の平を巫女シュリーカンニャーの方に向けると、
二人は巫女に目を向けて腰掛けた。
巫女が恭しく何かを告げると、女は大げさにわなないて頭を床に付けた。
傍から見ると異様な光景に見える。
巫女は何を言ったのだろうか。
考えている内に、女は再び立ってお辞儀をした後、広間を出ていった。
カイに後で尋ねたところによると、
まずカイは二人のいざこざを仲裁するために、巫女様のご意見を聞けと助言したらしい。
そこでシュリーカンニャーである巫女はこう言ったのだ。
「私既に皆から愛されている。
貴方からの愛も嬉しいが、貴方が愛さなければその男は愛に飢えてしまう事になる。
それは私の望むところではない。
家庭を慈しみ、伴侶を愛しなさい。
そうする事が神への祝福にもつながるでしょう」と。
年端も行かない少女にどうしてこんな事が言えるのか。驚くほどの雄弁さだ。
誰かが入れ知恵しているのだろうか。
普通なら子供の女の子にあんな事を言われてしまったら腹を立ててしまいそうなものだけれど、
やっぱり本当に神さまとして尊敬されているんだな。
幼い女の子にお叱りを受ける、というのはなかなか稀有なしゅちゅえーしょんではあるけど、
それに僕が歓んでしまうのは、単に僕の性癖が倒錯しているからで、あの女の人の喜びとは別種のものだろう……。
「陸、この後、食事がふるまわれるんだ。食べていかないか?」
少し衛生状態が気になったけれど、それを指摘するのは失礼だろう。
「良いよ。いくら?」
「もちろん無料だ。この寺院では、貧しい人たちにご飯を振舞っているんだ。もっとも、ずっと食べて行くならなんらかの手伝いをしてもらうことになるけど」
「手伝いって?」
「皿洗いとか、調理とか洗濯みたいな家事が多いかな。後は、寺院で売っている香や写真の販売に協力するってのもあるかな。でも陸ははじめてだし、何もしなくても大丈夫だ」
「そう? まぁ、僕は貧しい人じゃあないから、少しくらいお布施するよ」
「そうか? じゃあ祭壇のところに置いていってもらえると助かる」
ご飯の準備ができるまで、謁見の間と呼ばれた広間で座って待っている。
しかし、これは素晴らしい。
宗教というからお布施を要求されたり、胡散臭い儀式に巻き込まれたりするのかと思っていたけど、今のところそんな様子はない。それどころか、貧民に分け前を与えている。
おまけに仙道かすみの化身と呼ばれているシュリーカンニャーは、かすみの生き写しとも言うべきほどの美少女だった。
彼女の姿を見るだけで毎日幸せに暮らせそうだ。しばらくはここにいても良いだろう。
この国の物価はどうも安いみたいだから、二ヶ月くらいは居られるかも知れない。
いや待てよ。寺院の前の屋台で売られていた明日花のキャラのブロマイド。
この場所の慣例に従って言うと、女神たちのブロマイド。あれを僕が描いて売れば少しのお金になるんじゃあないか? もしかしたら、日々暮らしていけるくらいのお金が稼げるかも知れない。そうと決まれば……。
僕は意を決して、カバンの中から、鉛筆と紙を取り出し、おもむろに絵を描きはじめた。もちろん描いているのは明日花の仙道かすみだ。
二十冊近く明日花の同人誌を描いていた僕は最早何も見なくても、仙道かすみの髪飾りの模様まで鮮明に描くことができた。
僕が鉛筆をなぞりはじめると、近くにいた信徒らしき少女が覗き込んでくる。描いている途中を見られるというのは、それも僕よりも一回り若そうな女の子に見られるのは少し緊張するけれど、なんとかいつもと変わらない筆使いで絵を書き上げていく。
少女は何か話しかけてきたけれど、その意味は僕にはわからない。
手の平を上に向けたり、首をかたむけたりして、わからないという仕草を見せる。
すると、彼女は、「何を描いているの?」と英語で語りかけてきた。
英語であれば簡単な会話ができる僕は、「まあみてて」と思わせぶりな言葉を口にして、そのまま筆を走らせ続けた。
描かれたものが何かを察した時、少女は両手で口を押さえながら「あ」と感嘆の声をあげた。その様子に気づいたあたりの人たちは僕の周りに集まりはじめる。
時を追うごとに完成度を上げていく仙道かすみの造形に人々はため息をついた。
それが良い意味でのため息であったことは鈍感な僕にも察することができた。
そして、人だかりの中にはいつの間にか竜胆カイもいた。
「上手いなあ。流石だ」
カイから発せられたその言葉に僕は得意げな笑みを浮かべた。
すると先ほどの少女が、
「彼と同じね。彼も絵を描くのよ」
と、カイの方に手のひらを向けながら言った。
それは初耳だった。
驚きの表情を浮かべていると、カイは語り始める。
「そう言えば言い忘れてたな。これが俺の描いた絵だよ」
そう言うと彼は携帯端末の画面を僕に向けてきた。
そこには、明日花のヒロイン三人の姿が描かれている。
そしてその絵柄はどこかで見覚えがあった。
「あ! もしかして……」
僕が驚くと、今度はカイの方が得意げな顔をしている。
「カイ、もしかして五年前くらいに明日花の同人誌を描いていたあのカイか!」
りんどうとは竜胆と書くのだったのか。
「やっと気づいたか。つれないじゃあないか。同じ明日花を愛した同志と言うのに名前を忘れられているなんて」
「漢字の読み方が分からなかったんだよ。僕はずっとりゅうだんカイだと思っていたよ」
竜胆カイ、それは確かに五年ほど前までコミマに明日花の同人誌出してた絵師の名前だった。当時はまだいくつかあった明日花サークルのよしみとして僕も毎回同人誌を買いにいったものであったが、五年前から即売会から姿を消していた。それが日本から遠く離れたこんなところにいただなんて。全く予想もしていなかった。
日本語の分からない少女は当惑した表情を浮かべて、僕に説明を求めていた。
「僕は、この人は昔の知り合いだったんだよ。今気付いた」と説明した。
もっとも即売会ですれ違うだけの関係だったから知り合いと言って良いのかは分からない。けれどもお互いに存在を意識していたには違いないのだから知り合いでも間違いはない。
「いつから僕の事を気付いていた?」
僕はカイに疑問をぶつけた。
「そりゃあ公衆の面前で同人誌をぶちまけた時からさ。この絵柄は知っているって思ったんだ。でも君は俺の名前に反応しなかった。それが少しさみしかったのだけれど、じゃあせめて俺の絵を見せれば思い出すんじゃあないかと思っていたのさ」
「成る程……。確かにその絵は知っている。竜胆カイ」
「そう。俺はここで絵を描いて生計を立てている。日本のオタクにとって、明日花は一過性のブームに過ぎなかったけれど、ここに人たちは神として信仰しているんだ。勿論、宗教にも廃れ流行りはあるだろうけれど、1年2年で変わるようなものじゃあない。多分僕が生きている間くらいはここに人たちは明日花を奉じ続けると思うよ」
「じゃあこの宗教団体はカイが作ったの?」
「それは違うよ。僕が来た時にはこの組織はもう存在していた。六年前ほどにカトゥーでも明日花が放送されたんだ。それがどういうわけか、土着の民間信仰と混ざって明日花のキャラクターが信奉される形になったらしい。いや、まさか僕もこんなことになっているとは思いもよらなかった。
そして、いつの間にか歴史が捏造されていて、どうやらここの人たちの中では明日花は千年前から語り継がれてきた物語だという事になっている」
一千年前……。
なんともむちゃくちゃな話だ。
明日花は正真正銘日本で十年前に放送されたアニメだ。
千年前なんてあるはずがない。
それを最初に言い出した人は正気なのか?
うーん、頭が痛くなってきた。
安全そうな場所だと思っていたけれど、まだまだマユツバな話が多い。
「千年前というのは根拠のない数字というわけではなくて、明日花教の前身の宗教はどうやらそれくらい前から続いているらしいんだ。もっとも詳しいことはよくわからないけどね」
「二次元化した宗教ね……」
僕はぼそりとつぶやいた。
「いや違うな。偶像がダメな宗教もあるけど、ほとんど宗教というのは元々二次元なんだ。色んな場所で色んな神様が奉じられているけど、神様の写真がある場所なんてどこにもないだろ? つまり絵、二次元なんだよ。宗教の信徒たちは世界でもっとも二次元に傾倒した人たちと言える。もっともこんなこと彼らの前で言ったら袋叩きにされてしまうけどね。はははは」
そう言ってカイは高笑いをした。
どうやらカイはこの宗教自体を信奉しているわけじゃあなく、単に自分の明日花熱をぶつける場所と考えているみたいだ。
愛の方向性は違うけど、愛がある点では同じだから共存しているという感じか。
ふと、周りの人たちが訝しげに僕たちを観ていることが分かった。彼らには日本語が分からないのだろう。
カイはカトゥー語と思しき言葉で何か説明を始めた。すると、何を言ったのか、彼らは合掌して頭を僕に下げ始めた。
「何を言ったんだ?」
「あぁ、君が古代語を話せるということを説明したんだよ。
「古代語?」
「僕は明日花の日本語版のDVDを彼らに見せたことがある。こっちの方が良いだろうなんつってね。ところが彼らには日本語が分からない。明日花は元々日本で作られたものなんだ、なんて僕が言ってしまうと彼らのいう千年前云々という話と矛盾してしまう。だから僕は弱った挙句にこう言ったんだ。これは千年ほど前にこの地で語られていた言語なんだと」
日本語が古代語だって?? こんなにあっさりと嘘を広めてしまって良いのだろうか。そしてどうしてこの人たちはそんなことを信じるのか。葛藤が頭の中で渦を巻いて回り出す。
「はぁ、どうしてそんな嘘を……」
「いや、僕もとっさにいってしまった言葉なんだけど、彼らも信じてしまったから後には引けなくなったというか……。
それに長老がその通り、この言語こそ古代語だなんて言い出すもんだから今では完全に定着してしまっているよ」
「長老って?」
「それも言い忘れていたな。
この団体で一番偉い……いや、表向きは神の化身であるシュリーカンニャーが偉いということなのだけれど、
資金の管理だと、祭りをいつ行うべきかだの政治的な事を執り行っている人物がいる。
僕は長老と呼んでいるんだけれど、その呼び名の通り、髭がへそまで届きそうなくらい長い、いかにも仙人然としたじいさんだよ」
「その長老って人が、日本語が古代語であると認めた……?」
「そうなるね」
だとすると長老と呼ばれる人物は嘘に加担していることになる。どうして、彼はそんなことをするのだろう。意図が読めない。
「ここの長老はなんというか、ただものではなさそうだよ。俺もそんなに話したことあるわけじゃないけど。見た目はあまりカトゥー人っぽくないというか、日本人とかに近いかもね」
「そうだ。カトゥー人っぽくないといえば、あの巫女さんもカトゥー人っぽくないね。日本人っぽいわけでもないけど。あんなに肌が白いなんて」
「この国は多民族国家だからね。色の浅黒いカトゥー人が確かに多いけれど、我々日本人に近いパーリ人なんかも少なくない。シュリーカンニャーがどの民族かは分からないけれど。俺の知らない少数民族かもしれない」
「カイでもまだわからないことがあるんだな」
「そりゃあそうさ。たかが三年だからな。しかし、どうだ? シュリーカンニャー様の姿を見たらもう少しこの寺院にいても良いという気がしてこないか?」
「確かに……」
「毎週通ってみようと言う気になったか?」
「毎週? 毎日じゃなくて?」
「いや、その、シュリーカンニャー様が衆人の前に出て来るのは金曜と火曜だけだ。それ以外は寺院の隔離された部屋に閉じこもっているよ。たまに見かけることはあるけれど。後は祭りの時くらいだな。見られるのは」
「ずっと隔離されているってこと?」
「はっは、そうだよ。明日花の仙道かすみもそうだっただろう?」
確かにそうだ。明日花の仙道かすみは寺院に隔離された生活を苦しいと感じていたから自分以外の神様が生まれることを好ましく思っていなかったんだ。
しかし、それはアニメの話だ。現実の人間を隔離するなんて倫理的にどうなんだろうか。
カイは笑っているけれども……。
「一日中隔離されているなんて退屈じゃないのかな」
「隔離された部屋にはちゃんと同年代の女の子もいるみたいだぜ。だから退屈はしない。彼女らは日本とは違う価値観で生きているんだ。それに神として生きるってのは名誉のことなんだ。俺はシュリーカンニャーが泣き事を言ったり嫌がる素振りを見せたのは一度も見た事がない。この国にはこの国の生き方があるんだと思う」
カイはそんな風に言っていたけれど、僕は納得しきれていなかった。長くこの寺院にいればカイのような考え方になるんだろうか。
「陸。そろそろご飯ができたようだぜ」
「じゃあご馳走になっていこうかな」
ふるまわれたご飯はなかなか美味しいものだった。チャパティと呼ばれるパン生地をカレーのような液体に付けて食べる料理。少し辛味が気になるものの、レストランに出されてもおかしくない味だ。
どうやら味の方は杞憂に終わったようだ。衛生状態についてはこれから体調の様子を見ないとわからないけれど。
「陸。今日はここに泊まるんだろう?」
ご飯をたいらげた後、カイが僕に声をかける。
「いや、荷物は置いてきてあるし、ホテルのチェックインもしてあるから、戻らないと……」
昨日は、絶対に泊まるまいと思っていたのに、今日は心が少し揺らいでいるのが我ながら不思議だった。
「そうか。明日こそは泊まっていけよ」
そう言って僕は寺院を後にした。
けたたましいクラクションと、砂埃にまみれた街道を通って僕はホテルへ向かった。
渋滞がすさまじく、誰も譲ろうとしないもんだからわずか3キロほどの距離なのに四十分もかかってしまった。
それだけ排気ガスの匂いもすさまじく、タクシーには窓が付いていないもんだから音も匂いもよくわかる。異様に疲れた体をベッドに横たえて、僕は眠りについた。
次の日、朝ごはんを食べて寺院に向かった。時間は九時を指していた。
「おぅ。遅いな」
寺院の前の屋台にカイはいた。明日花キャラの、もとい女神たちのブロマイドを売っている。
その中にはカイの絵柄と思しきものもあったが、カトゥー様式で描かれたものとは絵柄を異にするその絵は周りから浮いている。
「ここで絵を売っているんだな」
「そう。でも、旧勢力が強くてね。僕の新しい絵柄はダメだと圧力をかけて来るんだ。だから仲間が欲しかったところだ。俺と君で力を合わせてともに、二次元美少女絵をこのカトゥーの地で広めていこうではないか!」
カイは大手を広げてそんなことを口にした。
それは僕が昨日、密かに考えていたことだった。この国で絵を売って生計を立てる。挑戦してみようという意欲が心に沸いた。
「いやね。覚えているかは分からないが、僕が明日花の同人誌を描いていた頃、僕は片桐本を出していただろう? 勿論仙道かすみも好きなんだが、一番の推しは片桐みおなんだ。でもここでは仙道かすみがもっとも需要があるからその絵ばかりを描かなくちゃあいけない。でもたまには僕も片桐絵を描きたいわけだ。君は最初から仙道かすみ推しだろう? だから、しばらくの間仙道絵は君に描いてもらって僕は片桐絵を描こうかなあなんて思ってるんだ。良いよね?」
「それはもちろん構わないよ。仙道かすみの絵ならもう何千回と描いてきたし、今更飽きるなんてこともないよ」
「それを聞いて安心した。頼んだぞ。相棒!」
それから僕は二次元萌え絵を描いて売る仕事に回った。カトゥー国の物価は日本と比べるとかなり安い。食べ物の値段は五分の一くらいで買えるし、公共交通機関は十分の一くらいだ。それを考えると絵の単価も必然的に安くなってしまうのが痛い。絵のブロマイドは大体一枚20キトナで売れる。日本円にすると22円くらいだ。それでも3つくらい売れば一食賄える分くらいの利益は出る。日本と同じように儲けようと思わなければ、十分食べていけるだけの稼ぎは出せそうだった。ただ、ホテル暮らしである以上どうしても赤字になってしまうけれど。
昨日僕に声をかけてきた少女が通りかかり、目があった。
僕が日本人らしくお辞儀をすると、彼女は両手を合わせて合掌した。カトゥーの挨拶では合掌をするようだった。
「まあ、あなたここで、働くことになったのね」
「うん。僕の絵はまだ少ないけれど。これからどんどん描いていこうと思うよ」
「それが良いわ。貴方の絵、とっても素敵だもの。また新しく描いたら見せて頂戴ね」
そう言って彼女はにっこりと笑った。
かわいい。
素直な感想だった。
年は一回り若そうだけれど、年齢を聞くと僕も答えないといけない気がして、なんとなく気が引けた。
年の差に一歩引かれてしまうんじゃないかという過剰なまでの危機意識があった。
「貴方のお名前はなんて言うの? そう言えば聞いてなかった気がして」
そうだった。
年齢よりも聞くべきことがあっただろうと、自戒した。
「僕は陸だよ」
「リコー?」
「いや、陸だよ。リ・ク」
「上手く言うのがむずかしそう」
そう言って彼女はクスリと微笑んだ。
「君は?」
「私はカーシィよ」
「カーシィ。呼びやすくて良い名前だね」
言っておいて、シの発音が上手くできていないような気もした。日本語のシとは違う発音だ。でも彼女はそれを指摘することなしに、ありがとう、とつぶやいた。
「じゃあリクジーまたね。後でまたお話ししましょう」
彼女は合掌をして別れの挨拶をする。
しかし、呼びかけた僕の名前には聞き覚えの無い語尾が付いている。
「リクジー? 僕の名前はリクだよ」
「わかってるわよ。ジーというのはカトゥーでの敬称なの。英語で言うと、ミスターとかミセスって言う言葉ね」
なるほど。日本語で言う、さん、みたいなものか。
「そうなんだ。知らなかったよ。じゃあね、カーシィジー」
僕が挨拶を返すと、
彼女はにっこり微笑んで再び合掌し、寺院の中に入って言った。
彼女もまた寺院で働いているんだろうか。
どんな仕事だろう。
後で聞いてみよう。
しばらく店番を続けていると、何人か神様グッズを買いに来る人たちがいた。言葉が通じなかったのでメモに書いたりして、値段を伝えた。
そういえばこの屋台には値札というものがないみたいだ。店員は全て覚えているんだろうか。
「値札? 日本じゃああるのが当たり前だろうけど、この国じゃあ無いのが普通だよ。
世間知らずの旅行者が来たらふっかけることもできるしな。多く買ってくれる人には割引するし。何事も交渉次第だよ」
後で値札のことをカイに話すと、彼はそんな風に言った。
「ぼったくられるってことか」
「そうそう。君だってもう洗礼を受けたんじゃ無いのかい? この町のタクシーは特に旅行者の足元を見るからな」
「そうなの? 昨日乗ったタクシーはホテルまで300キトナだったけれど。高い?」
「300キトナ? 高すぎる。 あのホテルまでは精々4キロくらいだろ。現地の人なら50キトナで行くだろうよ」
「50?? 六倍も違うじゃ無いか」
「それくらいふっかけるのは当たり前だよ。
値引き交渉しなきゃだめだめ。一分あれば二分の一まで値下げできるさ」
なんてこった。
単に旅行しているならまだしも、住んで暮らして行くことを視野に入れるなら、節約はしていかないといけないというのに。
「そういえば陸、ここにしばらく暮らす決心は付いたのかい?」
「うん……どんなところか見ても良い?」
「あぁ……案内するよ」
カイは僕を連れて回廊を歩き始めた。
「ここが寝室だよ」
カイが指を指した場所は、硬い床に茣蓙がいくつも敷かれた空間だった。
枕もない。毛布もない。
「え……、ここで寝るの?」
「あぁ。俺だって毎日ここで寝てるぜ。女はもちろん別の部屋で寝ているけど」
「うーん……これだけだと寒くない?」
「ガントックは一年中気候が穏やかだからな。特に死ぬことはないよ」
「死ぬ死なないの問題ではないと思うのだけれど……」
「時々サソリが出るから気をつけろよ。寝る前にはみんなで点検するんだ」
「……」
この時点で僕は大分泊まる気を無くしていた。
「……ちなみにお風呂は?」
「風呂は無いが、水浴びできる場所ならある。付いて来るんだ」
そう言ってカイは寺院の中庭らしい場所に出た。
いやな予感がする。
「ここが水浴び場だ。ここの井戸から水を汲んで体を洗うんだ。これから夏になって暑くなるからな。気持ち良いぞ」
「……やっぱりホテルに行きます」
「ちょっと待てぃ! 何故だ!」
「何故だ! じゃない! こんなの無理だ。僕は文明が好きなんだ」
「貴様!
「いやだ! かえる! ホテルならシャワーもあるし、あったかいベッドがあるんだ」
「あ、待て!」
僕はカイの制止を振り切って寺院を飛び出した。
300冊の同人誌が入ったスーツケースを持って。
通りに出てタクシーを呼び止める。
そういえば、カイがこの国のタクシーは不当な料金を請求してくるとか言ってたな。
ぼったくられていると分かった瞬間、タクシーの運転手の顔が悪辣に見えてきた。
「レイクサイドホテルまで行って欲しい」
「300キトナだ」
案の定、正規の値段の五倍ほどの料金を提示して来た。
「300キトナ?? そんなんじゃあ乗れないよ」
大げさな身振り付きで説明する。
しかし、運転手も譲る気はなさそうだ。
ここでカイから授かった秘策を使う。
「じゃあいい。他のタクシーを探すよ」
そう言って、その場を去る仕草をする。勿論フェイクだ。
すると、その直後運転手は、
「分かった。250キトナでどうだ?」
とあっさり値段を下げてきた。しかしまだ高い。
カイの話によると、適正値段はその5分の1程度のはずなのだ。
「50でどう?」
こちら側の要求を伝える。相手側の5分の1の値段を要求するなど、普通なら呆れられて話を打ち切られてしまいそうなものだが、この国ではそうではない。
僕だって、外国人旅行者まるだしの自分が、現地民と同じ値段で乗れるとは思っていない。
これは駆け引きなのだ。
自分は適正値段を知っているぞ、という駆け引き。
そう言うと、タクシードライバーは観念したかのように言った。
「わかった。しょうがない。220キトナだ」
何がわかったのだろうか。30キトナしか下がってないじゃないか。
全然わかってない。
「ノーノー。全然そんなんじゃ駄目。せめて100キトナだ」
こちらも少し譲歩して値段を上げる。
タクシーの運ちゃんは、しかめっ面をして悩むフリをする。
「仕方ない。200キトナでどうだ?」
ようやく100キトナ値切ることができた。
しかしまだまだ高い。
せめて150キトナにしようと粘りを続ける。
しかし、この運ちゃん、だんだん値切らなくなってきた。
3分ほど交渉を続けて、
「しょうがないな。今日だけのスペシャルプライスだ。170キトナ」
「正規の値段より三倍も高いのに何がスペシャルなんだ」
と言ってやったものの
「いやいや、これは相当安い方だよ」
などと言って聞かない。
仕方ないので、170キトナで乗ることにした。
降り際に
「お釣りをくれ」
と言って、100キトナ札二枚を渡すと、
お札を受け取った後、
「今お釣りはないんだ」
と言って、それきりすまそうとした。
「170キトナって言ったじゃないか。お釣りをくれ」
と粘ってみたものの
「無いんだからしょうがないじゃないか」
の一点張り。
結局200キトナ払わされることになってしまった。
なかなか手ごわい。
ため息を付きながらホテルへと帰った。
「3分粘っただけじゃあ値切れないよ。現地人と同じくらいの値段で乗りたきゃあ30分くらい粘らなきゃ」
翌日、カイにタクシーの話をするとそんな事を言われた。
「交渉に30分って……。それだったら歩いて帰る方がましだよ」
「もっと早くするんだったら、みすぼらしい格好をすることだな。君の服はダサいけれど、よれよれでもしわくちゃでもなく、小綺麗な新品に見える。もっと汗とホコリにまみれて、髭も伸ばして弊衣破帽な格好をしなくちゃ。そうすればモンゴロイド系のカトゥー人に見えなくもない」
ダサい、という言葉が少し癇に障ったけれど、あえて僕はそれを無視して返答する。
「僕は身だしなみはあまり気にしていない方だけれど、流石にボロボロの格好をしているのは寺院に務めるものとして、不適切じゃないか?」
「わかってないな。それは日本やヨーロッパの文化だよ。この国じゃあ、聖者って言ったら擦り切れた服を身にまとい、裸足で暮らし、胸の位置まで髭を伸ばしているんだよ。日本の尺度で物事を図っちゃーだめだよ」
カイはそんなことを言った。
けれど、僕は昨日話したカーシィという女の子の笑顔を思い起こすと、あまり汚い格好をしたくないという見栄を張りたくなっていたのだ。
「……」
「まぁ後は、カトゥー語を覚えるとかすると、ふっかけられなくなるよ。俺もそうだったし」
「それが一番大きいんじゃあ」
「そうかもしれないけど、言語を覚えるのは大変だぜ。俺はもう三年カトゥーにいるけど、それでもそんなに喋られるわけじゃあないからな。買い物には不便しないけど」
「カトゥー語を習う……か」
そう言いながら僕は頭にカーシィの事を思い浮かべていた。
「カイは誰にカトゥー語を習ったの?」
「カピラっていうおんちゃんだよ」
カイがカトゥー語を習ったのが、カーシィで無かった事に、僕は心のどこかで安堵していた。
その様子を悟られたのか、カイの瞳の奥が微かに光ったような気がして、僕は動揺した。
「俺はそんなに英語が得意なわけでもないからカトゥー語を教えてもらうのは大変だったよ。今でもまだカトゥー語の本は読めないし。絵本くらいだったら読めるけどな」
「アニメは? あの……明日花のアニメがカトゥーでもやってるって聞いたけど」
「あぁ。あれは3,4割はわかる。と言っても、日本のアニメの台詞を大体覚えていて3、4割だから、カトゥー語のアニメの3、4割を聞き取れるってわけじゃあないぞ」
3、4割。その数値が果たして大きいのか小さいのか、僕には即断できなかった。
でも僕はきっと英語でも、テレビ番組は3、4割しか理解できないだろう事を考えると、すごい数値のように思えた。
「とりあえず簡単な会話については俺が教えてやるよ」
カイはそんな事を言い始めたけれど、僕が教えて欲しいと思ったのはカーシィだった。
でも、口下手な僕はあえて断るような理由も思いつかなかったので、とりあえず
「あぁ……。ありがとう」
と、覇気の無い返事をした。
「とりあえず、値引き交渉の仕方をカトゥー語で教えるよ。これができるだけで、英語ができる時よりも半分の値段でタクシーに乗れるぜ」
「だったら、昨日の時点で教えてくれよ」
「いやいや、覚えるのだって一朝一夕にはできないんだ。それに定型句を覚えたとしても、その返事は定型句じゃないんだぜ。タクシーの運転手が早口で難しい返事をしてきたらどうするんだ? 何も反応できないだろう?」
「う……。確かに」
「中途半端に現地語を話せるような素振りを見せると、相手が早口でまくし立ててくるからな。それなりに鍛錬が必要だよ」
「仰るとおりです。はい」
カイの正論の前に僕はあえなく屈した。
その日の夕方、再びタクシーを呼んで覚えたてのカトゥー語を試そうとした。
自信に満ちた僕の顔は、タクシードライバーの顔を見た瞬間に崩された。
そのドライバーは昨日と同じドライバーだったのである。
このドライバーには、自分が現地在住者であるなどという言い分は通じない。
「また、ホテルに行くのか? 昨日と同じ値段で良いな。200キトナだ」
昨日は170キトナだったという合意を得ていたはずなのに、いつの間にか200キトナだったということにされている。
粘ってみたものの昨日と同じ値段、の一点張りで全く譲ろうとしない。
なかなか手ごわい運ちゃんだ。
まぁいい。他にタクシーはいくらでもある。
じゃあいい。乗らないよ。という素振りを見せて、その場を去ろうとした。
もしかしたら、安くなるかもしれないと期待して。
しかし、その運転手は何も言い返さず、追いかけることもしなかった。
他のタクシーを探そうとその通りで待ってみるものの、全く通る気配はない。
5分待ったが全く来ない。
その間、さっきの他オクシーはずっと傍らで僕が乗る気になるのをじっと待っている。
僕と目が合うと、にやりと笑みを浮かべた。
ちくしょう。屈してなるものか。
僕は意地でも乗らないという気になって、ホテルまでの道を歩き始めた。
街は入り組んでいて、方向自体はわかっているものの、なかなかその方向に向かうこと自体ができない。
ホテルは歩くと1kmくらいの距離だったので、それほど遠くはないと思っていたものの、途中迷ってしまったことと、交通が混沌としていたこともあり、距離以上に疲弊してしまった。
それにしてもカトゥーの交通事情はすさまじい。
信号が一切ない上に、常にカトゥー人が自己主張をして、我先にと進もうとする。
渋滞でずっと車が止まっている時にも大量のクラクションが鳴り響く。
横断歩道もなく、ひっきりなしに車とバイクがやってくるため、道路の前で立ち往生してしまった。
タクシー代をケチって、歩いて来たものの、それで怪我をしてしまっては全くコストに見合わない。次からはやっぱり車に乗ろうかな。などと思ったりもした。
僕が新たに変えたホテルは星1つ程度の安宿だったけれど、インターネットには繋がった。一泊千円もしないこの宿で繋がるのだから儲けもんだ。
もっと安いホテルもあるのだが、流石にシャワーが漏電したり、排水溝やトイレに虫が湧き出るホテルに泊まる勇気はまだなかった。
翌日寺院を再訪するもカイの姿はなかった。
広間を覗くとカーシィがいる。
「カーシィ、おはよう」
「ええ、おはよう」
互いに挨拶を交わす。
カーシィは、はたきを片手に掃除をしているようだ。
他に手伝う者はいない。
話すきっかけを作ろうと、僕はあることを言って見た。
「カーシィ、広いから大変でしょ? 手伝おうか?」
「手伝う? 何を?」
「何をって……、掃除をだよ」
すると、カーシィは僕がとんでもないことを言ったかのように目を見開いて驚いた。
「掃除を? 貴方は男の子なのに?」
カーシィからはそんな言葉が返ってきた。
「掃除をするのに男も女も関係無いと思うのだけれど」
僕がそう言うと、カーシィはさらに意外そうな顔をした。
「驚いた。貴方の国ではそうなの?」
「うん」
「珍しい国もあるものね。掃除は女の仕事、そう決まっているでしょ」
その言葉に、僕は大きな衝撃を受けた。
今時日本でこういう事を言う人は見た事がなかった。
いや違う。ある。確かおばあちゃんが同じことを言っていたような。その時は昔の人だからそう思う人もいるんだろうね、って簡単に流してしまったけれど、僕より年下の女の子からそんな台詞を耳にするとは。
「そう。僕の国では男が掃除するのは普通なんだ。だからやらせて欲しい」
そう言って手を貸そうとするも、カーシィは止まったまま動かない。
「そうしてくれたら助かるけど、他の人が見てたらなんて言うか……」
「なんて言うの?」
「きっと貴方を馬鹿にしたりする」
「掃除しただけで馬鹿にされるだって? 本当?」
「本当よ。そんなに意外なこと?」
意外だ。意外に決まっている。どうやらこの国では本当に男女分業の思想が根付いているらしい。
人権団体に抗議されそうな事案だ。でもここではそれが普通なんだろう。国それぞれに文化があるのだから批判すべきじゃ無い、なんて言うけどこういう男女差別的な文化はどうなのだろうか。文化の保持より差別を批判すべきじゃないのだろうか。
「じゃあ、僕が代わりに掃除したらカーシィはどう思う?」
「うーん、手伝ってくれるのは助かるけど、あんまりよくは思わないかな……」
カーシィは苦笑いの顔でそういった。またしても衝撃の発言だ。掃除を手伝うなんて言ったら喜ぶのが普通じゃないのか。日本で例えると、これは女子トイレの掃除に立候補するようなものなのだろうか。
「大丈夫よ。もうすぐ終わるんだから」
カーシィの手伝いをしたいけれど、かと言って彼女の印象も悪くしたくない僕はすべき行動を決めかねていた。
そのままカーシィは窓の縁をあらかた吹き続けると、
「はい。終わり」
と笑顔で言った。
何か他に手伝えることはないんだろうか。
「あら、もうすぐ朝ご飯の時間ね。準備をしなくちゃ」
ご飯か。僕は料理を作るのは割と得意だ。流石にカトゥー料理を作ったことはないけれど、包丁があるなら切ったりする手伝いはできる。配膳も大変だろうし。
「ご飯作るの? 僕も手伝うよ」
「えぇっ!? 貴方が?」
またしてもカーシィは驚きの声を上げる。そんなに僕がご飯を作ることが意外なのだろうか?
そして、彼女は再び同じ言葉を口にした。
「料理を作るのは女の仕事だから……」
どうやらカーシィは遠慮してそう言っているのではなく、本気でそう思っているようだ。
こういう時、僕はどうしたら良いんだろうか。
彼女の制止を振り切って手伝うのか、それとも嫌がられる事は止めるべきなのか……。
ちょっとの間逡巡した後、僕はカーシィに再度提言した。
「カーシィ、やっぱり手伝うよ。僕は今する事ないし、カーシィだけにやらせるのは悪いからさ……」
「うー、他に人がいなければね……」
カーシィは渋々承諾してくれた。
人に見られるというのはそんなにまずい事なのだろうか?
寺院の傍らに付設してある、台所、と呼ぶには不衛生な場所に移動する。
厨房に入ると、カーシィはレモンの入った水で手を洗った。
レモンの意味が僕にはよくわからなかった。殺菌効果でもあるのだろうか?
そのままカーシィはいくつかの野菜に手をかけ次々に切り出していく。
そう、野菜だ。何と言う野菜なのかはわからないが、小ぶりのナスや、寸胴のきゅうりのようなものがまな板の上に並べられていく。名称がわかったのはトマトくらいだ。
最初の内は、僕も名前を聞いていたのだけれど、あまりにわからないものが多くて途中で聞くのを止めてしまった。
カーシィの手を止めてしまうのも気が引ける。
カーシィの様子を眺めていると、彼女は錆びたナイフで手際よく野菜を切り刻んでいく。
僕もそれを真似しようとしたのだけれど、切れ味がとても悪く、どうも思うようにいかない。
どうしてカーシィがこれほど速く切れるのか不思議だ。
その見事とも思える手さばきに見惚れている中、ミスは起きた。
カーシィは、切った野菜を次々に鍋に放り込んで行くさなか、はずみで一つの欠片を床に落としてしまったのだ。
「あら……」
カーシィはそれを拾って台所の傍らに置いた。
「落としてしまったものは汚いでしょ。だから今から神さまにお祈りを捧げるのよ」
カーシィはそう言うと、目を閉じて合掌し、お経のような言葉を唱え始めた。
「アグナイェー。スヴァーハー」
僕は戸惑いながらその言葉を聞いていた。
まさかカーシィは、「神さまにお祈りを捧げたからもう大丈夫よ」などと言い出さないだろうか。
落としたものを食べさせられては病気になってしまう。
それは止めなければならない。
しかし、それを止めるとなると、同時に彼女の信義も否定しなければいけない気がするのだ。
様子を見ていると、カーシィは落としたものを水に漬けて汚れを払うと、再び鍋に入れて火にかけた。
「今のは、火の神さまにお祈りを捧げていたのよ。火の神さまのおかげでわたしたちは安全にご飯が食べられるの」
カーシィは言葉に僕は安堵した。
どうやら魔法のようなものを信じているわけじゃあなくて、現実的な現象を、神さまのおかげだとみなして感謝の言葉を捧げていたようだ。
それなら納得が行く。
何かに感謝するというのは良い習慣だと思う。
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それから彼女は香辛料とおぼしき赤やら茶色やらの粉を取り出してフライパンで煮た。
燃料はガスではない。炭を焼いている。
恐らくガスは通っていないのだろう。
カーシィは、火を点ける前に、お経のようなものを唱えはじめた。
「アグナイェー。スヴァーハー」
「今のは何?」
「火の神さまアグニにお祈りをしているのよ。今日も安全においしくご飯が食べられるのは貴方さまのおかげですって」
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火を点ける時にお祈り……、そういえば似たようなシーンは明日花でも見たことがある。
仙道かすみは食事の際、いつも天に感謝の言葉を言っていた。
それを思い出し、僕も同じ言葉を口にした。
「今の言葉は?」
「お祈りだよ」
「もしかして古代語?」
……日本語を古代語と呼ぶ設定はまだ生きていたのか。
しかし、今更否定もしづらいので、このまま行くしかない。
「うん、そうなんだ」
「へぇ〜、もう1回言ってみて」
「え……?」
なんだろう。アニメの台詞なので、言ってみてと言われると気恥ずかしさを感じる。
さっきは自分から言っていたのに。不思議だ。
羞恥心を振り切ってもう一度同じ言葉をつぶやいた。
「なんだか不思議な響きね」
そう言って微笑むカーシィのかわいらしさを見て、僕はある事を思いついた。
「カーシィ、僕の言う事を真似してみて」
カーシィは戸惑いながらも、僕の言葉を後に続けた。
か、かわいい。
カーシィの喋る日本語はひどくカタコトで、それが却ってかわいらしさを増幅していた。
カーシィに、日本語のお経だと称して、明日花の台詞を言わせる。
これは使えるぞ。なんだか騙している気がして若干後ろめたくもあるけれど。
本当はシュリーカンニャー様にも言ってもらいたいのだけれど……。
僕はカトゥー語が話せないのだ。意思疎通ができない。
いや、そうでなくてもシュリーカンニャー様は普段から寺院の奥に篭っていて末端の成員である僕とはあまり話す機会が無いのだ。
カーシィが鍋で水を煮る音が聞こえる。
鍋に入れる水も野菜を洗う水も水道水を使っているようだ。
これは大丈夫なんだろうか……。
カトゥーで水道水を飲むとお腹壊すって言うし……。
カーシィと同じように野菜を切っていると、
「人が来たわ。出ていって」
と合図を出したので、
僕はそのまま調理場から追い出される形となってしまった。
……、あまり手伝いできなかったな。
手伝いをしようとしたのが結局良かったのかどうか。
朝ごはんの時間になると、そこそこ人が増えてきた。
自分で食べ物を調達できないような貧しい人が来ているようだ。
食事が終わると、カーシィは片付けを始めた。
この時は人も多かったので、僕も片付けるよ、とは言い出しにくかった。
カーシィも僕の方を見ようとはしない。
手伝って欲しいと思っていないのはどうやら本当のようだ。
僕としては親切をしたかったので少し残念な気持ちになる。
寺院の広間で絵を描いていると、背後から声がかかる。
「陸、さっきはありがとう」
「え……? さっきって?」
咄嗟のお礼に反応できずに戸惑ってしまった僕はそんな言葉を発した。
カーシィは辺りを見回した後、小声で
「調理を手伝ってくれた事よ」
と言った。他の人に聞こえないように配慮しているんだろう。
「あぁ、そんな。ほとんど手伝えなかったし、それに気を使わせちゃったかなって」
対して僕は、困惑から大きな声で返答してしまった。
「それより陸。貴方、英語しかしゃべれないでしょ。このお寺にいるんだったらカトゥー語も話せないと駄目よ」
不意に、カーシィはそう言った。それはカイにも言われていた事だったので耳が痛い。
「それはわかってるよ……」
カイが教えてくれるって言ってたんだ、その言葉を告げようとする前に、カーシィが言葉を発した。
「私が教えてあげましょうか? お礼もある事だし」
「えっ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「カトゥー語、話せるようになりたいでしょう?」
「う、うん」
カイに教えてもらうという約束は頭から一掃されてしまった。
カーシィに教えてもらえるというなら願ったりかなったりだ。
かわいいし。やさしいし。
勿論英語で教えてもらうよりは、日本語で教えてもらう方が効率は良いのだろうけど。
そんな事は最早どうでもいい。
カーシィは僕の隣に座ると、カトゥー語のいろはを語り始めた。
「英語だと、ofとかatみたいな言葉は名詞の前にくるでしょう? でも、カトゥー語では後に来るの。名詞 of みたいに。ofはカトゥー語でセーと言うのだけれど……」
カーシィの口から出てきたのは語学の文法用語だった。
貧しい人の多い国だから、文法知識なんて知っている人はいないのだろうと思いこんでいた僕にとってはこれは意外な事だった。
「カーシィ、どうしてそんなに専門用語を知っているの?」
「学校で教えてくれたのよ。先生が教えてくれるの」
「何ていう学校?」
「ガントック高校よ」
聞いてみたけれど、僕の知っている学校ではない。当たり前だ。僕はカトゥーの学校は一つもしらない。
それでも首都の名前が冠された高校だ。きっと優秀なんだろう。
「優秀なんだね」
「そんなことないわよ」
僕の褒め言葉に対し、カーシィは、照れくさそうに肩をすくめた。
「高校を出たらどうするの? 働くの?」
「いえ、大学に行こうと思っているの」
「大学?」
「ええ、そうよ。カトゥー大学に」
またもや僕の知らない大学だけれど、国の名前が付けられた大学だ。
大したことがないとは言えまい。
「カトゥー大学から補助金をもらえることになったのよ」
「補助金? すごいじゃないか。やっぱり優秀なんでしょ」
僕が再度褒めると、カーシィは今度は否定せずにただ照れくさそうに微笑んだ。
「大学では何の勉強を?」
「カトゥー文学を専攻しようと思っているわ。カトゥーには2000年ほどの歴史があって、文献も沢山残っているのだけれど、外国にはほとんど知られていないの。だから、それを訳して、カトゥーの良さを伝えていけたら良いって思うわ」
「立派な志だね。文学部……、だから文法に詳しいのか」
「大学に行ったらシュリーカンニャーにまつわる伝承も研究してみるつもりでいるわ」
カーシィはそんな事を口にした。
いや……、しかしそれは危ういのではないだろうか。
仮にカーシィがまともに文学を勉強して、この寺院の伝承が、元々は日本のアニメだという事に気付いてしまったら……。
この寺院は崩壊してしまうかも知れない……。
かと言って研究するなとも言えないし……、どうすれば良いんだろうか。
でも、カーシィが大学に入るのは半年も先の事だ。
その時まで僕がいるって事はないだろう。
大学に入るのは半年後だけれど、もう入学が決まっているので、今は寺院の手伝いに専念しているみたいだ。
寺院の小部屋に二人で篭って勉強。こんなシチュエーション今までにあっただろうか。
カトゥーは良い国だ。カトゥー最高。
勉強が終わって部屋の外に出た。寝室は二階にある。勉強道具をそこに置いてこようと一旦階段へ向かう。
先に階段を登り始めて、数段上がったところで後ろを振り返る。カーシィはスカート、いや正確にはスカートではない民族衣裳なのだろうけれど、それが足に引っかかってうまく登れていないようだった。
手を引いてあげるべきか逡巡する。それが優しさというべきものなのだろうけど、女性に対してかなり奥手な僕はどうも踏ん切りをつけられずにいた。
結局カーシィは自力で階段を登り始めた。その間に、にっこりと笑って、
「大丈夫」
と呟いた。
その時の笑顔がやけに眩しく見えて……、手を伸ばしておけばよかったという後悔が浮かんだ。
夕食時、寺院で暮らす信徒たちが楽しそうに談笑する。こんな風に寺院で暮らす信徒たちは長机を並べて一緒に食事を取る。
最初は言葉が通じなくて緊張したけど、誰に英語が通じるかが分かってくると食事が楽しみになってくる。
それにカトゥー語も徐々に覚えてきたので単語レベルなら聞き取れないこともない。こうした談笑の場は言葉を覚える訓練の場所になっているのも良い。
隣の初老の男性が話で盛り上がっている。名前は確かテージャスだ。
しかし、僕には会話の意味がわからない。
「カーシィ、彼らはなんて話しているの?」
「娘さんが見知らぬ男に手を引かれているのを、見かけたらしいの。それでテージャスさんは怒っちゃってそのまま殴り飛ばしちゃったらしいのよ」
「えぇ、それって盛り上がって話すようなことなの?」
「そうね。カトゥーでは未婚の女性の肌に触れるのは禁忌とされているの。勿論手を引いたりするのもダメ。テージャスさんは娘を守れたことを誇りに思っているのかもね」
カトゥーでは未婚女性の手を引いたら殴られる……だって?
ゾッとする。
もし、あの時カーシィの手を握っていたら、立ち上がれないくらいに殴られていたかもしれない。
そして、それがカーシィの父親に伝われば更に殴られるに違いない。
……。
「新聞が読めるのか?」
朝、ホテルのレストランで、テーブルに置かれた新聞を手に取っていると、隣の人で声をかけてきた。
何を言っているかはわからない。おそらくはカトゥー語だろう。
「英語でお願い」
「新聞が読めるのか、と聞いたんだ」
「いや読めないよ。ただ、記事の写真を見ていただけ。何か暴動みたいなものがあったの?」
「なんだ、読めないのか。ムスラマーとシャイヴァの間で衝突があったんだよ。
ムスラマーのやつらは偶像を嫌うからな。反対に、シャイヴァは肉食を嫌う。
同じ地域に暮らすもの同士、我慢がならなかったんだろう。
ある日、柵から抜け出した神聖な猿をムスラマーの少年が殺してしまったんだ。
それを見ていきりたったシャイヴァの若者が、よってたかって殴りかかって、ついに死なせてしまったんだよ。
そうしたら、ムスラマーの連中がデモを起こし始めて、ついに衝突が起きたってわけだ。
幸い死者は5人くらいで済んだようだけど」
「5人って……多いじゃないか」
「この手の暴動ならもっと被害が大きくなることもありうるからな」
「……」
半ばあきらめたような口調で語る男の言葉に僕は圧倒されていた。
5人も死ぬような暴動が頻繁に起きているかのような口調に……。
「で、どうやって我々の萌え絵をこの国に浸透させるかだが」
寺院前の屋台でいつものように女神様ブロマイドを売っていると、カイがそんなことを口走る。
「たまには、出張販売をしよう。前にやっていた時は、正統派のカトゥー教徒から異端扱いされて、撤退せざるを得なかったが」
「え、それやばくない!? 異端扱いって何をされたの?」
「いや、何もされてない。単にそんなものは神を侮辱だのなんだのと言われただけだよ」
「それ怖くない? いやだよそんなことをするのは」
僕は今朝新聞で読んだ、死者の出た宗教徒の暴動を思い返していた。
「いやいや、宗教徒は確かに暴動を起こすけど、別に宗教徒でない人たちも起こすでしょう。割合としちゃあそんなに変わんないよ。君は宗教に慣れていないから、何か得体の知れなさを感じているんだろう。彼らも町に普通に暮らしている人間さ、暴力に訴えることなんて滅多にないよ。別に我々は日本で殺人が起きても明日自分が殺されるなんて思わないだろ? でも何故か海外で殺人が起こると、そこに行けば自分も殺されるかもなんて思うのさ。それはただ、海外のことをよく知らないから過剰に心配してしまうんだよ」
カイはそんな風に言った。本当だろうか。
カイの言う通り、日本でも殺人事件は起こっている。
でもその事件を聞いて自分が死ぬだなんて思うだろうか? いや、思わない。
多少心配だったけれど、ひとまずやってみることにした。駅前でシュリーカンヤーの写真や、仙道かすみのブロマイドを配ったり売ったりするのだ。そして、写真に写る者が女神仙道かすみの化身であり、預言と信託によって遍く迷える人々の悩みを解決する存在なのだということを。
「あ、どーぞ」
僕は控えめに苦笑いをしながら、チラシを配った。カトゥー人は愛想笑いをすることは一切ない。だから、僕もすることはないんだろうと思うけれど、なんとなく癖でそうしてしまう。
異国で、二次元萌え絵を配ることへの後ろめたさもあるのだが。
自分は一体何をやっているのだろうか。日本だってこんなことはできない。自分の描いた萌え絵のチラシをそこら中に歩いている人に配るなんて。いや、日本だからこそできないのかも知れない。日本人と違う顔の人たちに白い目で見られる方が精神的ダメージは少ないかなと。
ええい、ままよ。
「この女の子かわいいね。女優か何か?」
ある通行人は、シュリーカンニャーの写真を指差してそう聞いてきた。
「ノーノー。アヴァターラスヤデーヴィー」
僕は女神の化身だということを伝える言葉だけカトゥー語を使った。それ以外は英語で。
自分でもなんだか変な感じがしたけど、なんというか、現地語で言った方が箔がつく気がした。布教しようとしている僕が現地語を話せないのだから、箔も何も無いのだが。
僕がそう言うと、その男は合掌してお辞儀をした。
お、もしかして興味を持ってくれてるのかと思うと、男はチラシを一枚取ってその場を去ってしまった。
……まぁチラシを取ってくれただけでも良しとするか。
ふとカイの方に目をむけると、僕の聴き慣れぬ言葉でカイが三人の若い男に熱弁をふるっていた。
恐らくカトゥー語を。
それがどのくらいの流暢さなのか僕には判断が難しかったけれど、ところどころつっかえているようにも聞こえた。
しかし、聞いている男たちが納得顔で頷いているあたり、意味は通じているのだろう。
すると、カイがこちらを振り向いて、
「おい、この人たち寺院を見学したいと言っているぞ。俺が案内するけど、お前も来るか?」
と述べた。
「え、すごいね。カイ。行くよ。行く」
まさか本当に釣れるとは。
萌え絵の良さを一目で理解するとは、このカトゥー人レベルが高い。
二次元絵に見慣れている日本人でも萌え絵には引くことが多いのに。
もっとも、冷やかしなのかも知れないけど。
全部で五人になるから、二台のタクシーを使うのかと思ったら、なんと一台に無理やり入った。
しかも、日本にある普通のタクシーじゃなくて、二人かせいぜい三人乗りの、小さな三輪タクシーだ。
僕は空気を読まずに一番に乗り込んでしまったが、一番外側のカトゥー人たちがドアの外側にしがみついていた。
せっかく来てくれるお客なのに悪いな、と思ったけれど、当のカトゥー人にそれを気にするそぶりはない。
むしろ楽しんでいる風でもあるけど、すれ違う対向車にぶつからないか心配になってしまう。
「カイ、やっぱり二台にしておいた方が良かったんじゃあ」
「大丈夫だよ。それにこの方が安くあがるだろ? それにこれくらいはこの国じゃあ普通なんだぜ。ほら、あれなんか見てみろよ」
カイは傍に視界に入った別のタクシーを指差す。それには、五人どころか七人ほどの大人数が乗り込んでいた。
……たくましいなこの国の人たちは。
寺院に着くと、カイが誘ったカトゥー人三人は一様に眉をひそめた。
何かまずいことがあったのだろうか。
その内の一人が口を開く。
「ここに置いてある像、このチラシの絵と違くない?」
と意外にもそんなことを指摘して来た。
その指摘は正しい。
この像は外注なのだ。
絵についてはカイと僕の二人が描いているので日本の萌え絵らしいものができるのだが、僕らは石像はおろか、フィギュアすら作ったことがない。作り方も知らない。
この寺院にもそれができる人はいないので、外注せざるをえないのだが、作っているのがカトゥー人なので、カトゥーらしい像ができるのだ。
勿論カトゥー様式の像も意匠を凝らした歴史ある造形なのだが、僕らの描く絵とは合っていない。
「痛いところをついて来るね」
カイは口をへの字に曲げてそう言った。
「陸の友達に原型師とかいないの?」
「いないよ。いたとしても遠いカトゥーまでやってくる物好きなんてなかなかいないだろ」
「うーむ」
「このチラシに書いてある女神はどこにおられるんだ?」
カトゥー人が、カイに声をかける。
「今はいないよ。毎週金曜日に信者たちの悩みを聞いてくれる集会があるんだ。シュリーカンニャーにまみえたいならその時に来てくれ」
すると、質問したカトゥー人は同行した他のカトゥー人二人と目を合わせた後、
「わかった。何時に来れば良い?」
と聞いて来た。
「夕方十六時と朝の九時だ」
そうカイが返すと、わかったと言ったきり寺院を後にした。
「あの人たち、金曜日にも来るかな?」
僕がそう尋ねると、
「わからないけどあの感じだとこなさそうだな」
カイはそう答えた。
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