張り子の女神
みづはし
第1話 枯れた花
1.枯れた花
「明日咲く花」。
10年前にはブームにもなったこのアニメ。
今ではもう誰も見向きもしていない。
同人誌即売会でジャンルコードになっていたのは遥か昔。
今では、自分が出さなければ1サークルも無いという有様だ。
再起を図って300部刷った同人誌は15部しか売れなかった。
その内10人くらいは顔見知りで、残りの5人は
「へぇ〜、これオリジナルですか? え? 10年前のアニメ? 知らないけど絵が可愛いから買っていきます」
などと言ってくる人たちだ。
あぁ、最早このアニメは過去の遺物となってしまったのか。
どうにかして、「明日咲く花」の人気を再燃させる事は出来ないのだろうか。
そんな中、一人の友人が耳寄りな情報を持ってきた。
噂によると、ある場所ではこのアニメがブームになっているという。
インターネットのとあるサイトで、街の往来に明日花のポスターが貼られている写真が上がっていたのだ。
そしてその場所というのは日本ではない。
海を隔てた外国だったのだ。
日本から南西の方角にある、山脈に囲われた盆地。
国名をカトゥーという。
日本人の旅行者も多少はいるようだが、貧しい国であるが故に、治安や衛生面では良い噂を聞かない。
僕にその情報を伝えてくれた友人は、日本どころか関東から出た事の無い人物で、とても行く気にはなれないと言っていた。
その割にその友人は
「陸、昔外国に住んでいただろ? 気が向いたら行ってみるのもどうだ?」
なんて事を言ってきた。
確かに僕は小学校の頃外国に住んでいた事があるが、それ以来海外に行った事はほとんどない。ましてや、治安面で不安のある国に一人で行くなど……。
少しの間躊躇したが、机の隣に山積みにされた同人誌、その表紙に描かれた「明日咲く花」のヒロイン、仙道かすみの表情を見ると、胸が締め付けられる思いがした。
僕はもっとこの作品の、この子の素晴らしさを世に広めていくべきじゃないか?
それを理解してくれる場所が、外国にあるなら、当然行ってみるべきではないのか?
そうと決めた時、僕は航空券を購入していた。
即売会で大量に売れ残った同人誌をスーツケースに詰めて、旅立った。
目指すはカトゥーの首都、ガントック。
しかし焦った。
税関の通過の際、ポルノ関連の書物は持ち込み禁止とはっきり書かれていたのだ。
僕の持ってきた同人誌は18禁ではないもののきわどい描写が多くある。
もしかしたら全て没収されてしまうんじゃあないかって、戦々恐々としていたのだ。
せっかく、同人誌を布教して、カトゥー人から神絵師扱いされようと思ったのに、空港で没収されてしまっては元も子もない。
検査場を通過する時、僕の心臓の半径は二分の一ほどに縮んでいたと思う。
幸いだったのは、検査官が非常にいい加減だったという事だ。
検査官は僕の番になるなりこう言った。
「ん〜、麻薬、ポルノ? 生物? 入ってない? よし、通っていいよ」
(なんていい加減なんだ……)
そう思ったけれど、僕の前にいた髭の濃いアラブ系の人は鞄の中身を詮索され、厳しく詰問されていた。
僕が楽に通過できたのは日本人だったからかもしれない。
日本のパスポートに密かに感謝しながら、空港のロビーへと向かった。
インターネットで調べたところによると、六年ほど前、この国では確かに明日花が放送されていたようだ。
そして街のある通りには明日花のポスターが貼られていた。
その証拠となる写真画像を何度も見ている。
ただ、その画像は外国のサイトから転載されたもので、実際にそこに行ってみたという報告は聞かない。
最近は増えて来たものの、過去に内戦があった関係からか、外国人の観光客は多くない。
おまけに行きやすいわけでもない。
日本から行こうとなると、隣国のバラタで一度乗り換えなければならないのだから。
わざわざアニメのために訪れようなどという酔狂な人はいない。
そう、僕くらいのものだ。
ともかく、明日花のポスターが映っている写真の場所に行かなくてはならない。
事前調査によるとその場所はマヘンドラチョークと呼ばれる通りだ。
「ヘイ、フレンド! どこへ行くんだ?」
空港を出ると、髭の生えた陽気そうなタクシーの運転手が話しかけてくる。
どうやら、ガイドブックに載っていたとおり、英語は通じるようだ。
英国の植民地になっていた歴史も関係していそうだけれど……。
「マヘンドラチョークに行きたいんだ」
僕はなるべく快活そうに返答をする。
「良いぜ! 1000キトナだ」
キトナというのはカトゥーのお金の単位で、大体1キトナ1.1円くらいだ。
空港からマヘンドラチョークのある市街地まで20kmはあるだろうから、そこに千円ちょっとで行ける計算だ。安い。
「おーけー。連れて行って」
僕はタクシーの運転手の提案を呑んだ。
カトゥーの首都ガントックは標高1500メートル程の高地にある。
世界最高峰の山脈ヒマラヤの中腹にある、霧の深い町だ。
インターネットに上がっている写真を見る限りでは、色彩豊かな4、5階ほどの中層木造ビルと、豊かな緑が立ち並ぶ、のどかな町。
しかし、実際に来てみると、予想と違った実態が浮き彫りになってきた。
まず、交通が無法状態だ。信号なんてものはないし、二車線のはずの道路に4台くらいの車が並走している。
おまけに住人が投げ捨てるせいか、道端にゴミが多い。
空気がそれほど悪くないのが救いだけれど、誰も道を譲らないもんだから一旦交通渋滞ができると全く進まなくなる。
こんな調子で目的に着けるんだろうか……。
「着いたぜ」
僕の心配をよそに、タクシーの運転手は唐突に言った。
まだ空港を出てから20分ほどしか経っていない。
途中、途轍もない渋滞に巻き込まれて3、40分かかると覚悟していたので意外だった。
「ここがマヘンドラチョークなの?」
「そうだぜ」
僕が聞くと、運転手はそう返答した。
お金を渡して、街に出る。
とにかく最初はホテルに行こう。
調査を簡単にするためにマヘンドラチョークのホテルを予約してあるのだ。
「インドラロッジ」という名のホテルである。
ホームページで外観も確認してあるから、見れば分かるはずだ。
しかし、通りを見渡す限り、それらしい建物はない。
通りに面している雑貨屋に尋ねてみることにした。
「この辺にインドラロッジってホテルはない?」
「インドラロッジ? 聞いたことないなぁ」
聞いたことないだって? 嫌な予感がする。
まさか架空のホテルを予約してしまったのだろうか。
いや、しかしまだ料金を支払っていない。
架空サイトなんて作ったとしても全く利益にならない。そんなはずはない。
「ここってマヘンドラチョークなんだよね?」
「マヘンドラチョーク? 何を言っている。ここはカリカマーグだぞ。マヘンドラチョークはもっと西だよ」
「なんだって?? ここはマヘンドラチョークじゃない?」
「違うとも」
「え、じゃあここからマヘンドラチョークまではどれくらいあるの?」
「ふむ。歩いたら40分くらいはかかるんじゃないのか?」
なんてことだ。タクシーの運転手が間違えたのだろうか?
いや、そんなはずはない。ちゃんと、マヘンドラチョークで合意を得ていたはずだ。
「ははぁ。もしやお前、タクシードライバーに騙されたんじゃないのか?」
雑貨屋のおじさんは苦笑交じりの顔でそう告げた。
「騙されただって?」
「そうだ。マヘンドラチョークまで行くと遠くて時間がかかると思って途中で降ろされたんだろう。ちゃんと降りる時に確認しないと駄目だぞ。この辺は詐欺タクシーが多いんだ」
「なんだって!?」
おぉ、なんということだろう。出鼻から詐欺タクシーに捕まっていたとは。
目的地のマヘンドラチョークまで歩いて40分の距離というではないか。
またタクシーを探さないといけない。
……いや、待て。
今タクシーに騙されたんならまた騙される可能性があるんじゃないのか?
しかし、スーツケースを持ってこの混沌とした街中を40分も歩く気は到底しない。
まだ空は明るいんだし、タクシーを探すしかないな。
クラクションの鳴り響く通りを進んでいく。
早くもカトゥーの洗礼によって僕の心は不安げにしぼみ始めていた。
タクシーを探しているととんでも無い男に遭遇した。
それは、日本人のような風貌をしていて、明らかに即売会で見るようなオタク然とした格好をしている。
長髪で小太り。
そして極めつけは、アニメキャラが描かれたTシャツだ。
しかもそのアニメキャラというのが……、「明日咲く花」の仙道かすみじゃないか。
こんなに早く同志を見つけるとは……!
この男ならカトゥーの「明日花」事情を知っているに違いない。
そう思った僕は意を決して話しかける事にした。
「あのー。日本人の方ですか?」
「はい。そうですが」
男は少し驚いたような表情を浮かべていて、それが僕を若干不安にさせた。
「そのTシャツ、仙道かすみちゃんのですよね」
僕がそう声をかけた瞬間、男はカッと目を見開いた。
「同志!!」
そう言って男は僕の両手をがっしりと握ったまま上下に大きく振り始めた。
「君は明日花を知っているのか! カトゥーに来るのは初めて?」
「ええ、そうです。なんでもこの国では、明日花が有名になっているって聞いて……。僕、明日花の同人誌を書いているんですけど、日本じゃもう全然売れなくて……、この国の人たちには分かってくれるかなぁって思って来たんですけど……」
「正しい! 正しいぞ! この国では明日花への熱気がまだ残っているんだ。そういえばまだ君の名前はなんて言うんだ? 僕は<竜胆カイ>だ」
竜胆カイ……、ハンドルネームっぽい名前だが、本名なのだろうか……?
「僕は陸といいます。片根陸です」
僕がそう言うと、カイと名乗る男は一瞬失望したかのように目を曇らせた。
何かいけない事を言っただろうか?
「片根陸……。うん、本名みたいだね。良い名前だ」
「いや……、本名なんですが」
「何っ!? 本名!? そーかそーか」
そう言うってことは竜胆カイというのは本名ではないのだろうか。
竜胆カイは、僕が本名を名乗っても自分の本名を名乗ろうとはしなかった。
あえて詮索するような事でもないと思った僕は、それ以上の追求を避けた。
「そうだ。僕の同人誌、これなんです」
そう言ってバッグから一冊の同人誌を取り出そうとした。
しかし、はずみでファスナーが開き、その中から、10、20冊ほどの同人誌がこぼれ落ちてしまった。
「おっとっと。まずいまずい。街中でこんなオタクグッズを見せびらかしちゃあね」
僕は半分ふざけたような口調で、同人誌を拾おうとした。
オタクTシャツを着ているカイにとっては、この程度、慌てるような事でもないのだろう。
そう思ってカイの方を振り返ると、彼は血の気を失った顔つきで、ぷるぷると震えていた。
「馬鹿っ!! 早くしまえ」
そう叫んだ彼は余程慌てたような手つきでこぼれ落ちた同人誌を拾って僕のバッグに押し込んだ。
「何もそんな慌てる事ないんじゃあ……。そんなにオタクグッズを見せびらかすのがまずいんですか」
僕はカイを皮肉るために、彼のTシャツに目線を向けながら言った。
「馬鹿、そういうんじゃない。この同人誌、警察に連れて行かれるぞ!」
「え……、どういうことなんです?」
「見ろ、この表紙を。尻がほとんど見えそうじゃないか。この国では女性が人前で脚を見せる事は禁忌とされているんだ。胸の形も強調されているようだし、いや全くまずいよこういうのは」
なんてことだ。
僕は売れ残った同人誌を売るためにこの国にやってきたというのに、過激すぎて売れないというのか。
「君は俺のTシャツの事を言っているんだろうけど、このTシャツをよく見てみろ。脚もちゃんと隠れているし。胸の形もうっすらとしか分からない。このくらいなら問題はないんだ」
なるほど言われてみればその通りであった。
オタクらしい絵柄かどうかという事に気を取られていて、それ以外の事には気が回らなかったのだ。
「もし君がこの国に、長く滞在しようというなら、悪い事は言わない。その同人誌は処分した方が良い」
「処分!? そんなことできるわけ……」
データさえあれば何度も印刷できるとは言え、自分が心血を注いで作り上げた本なのだ。
「処分なんてとてもじゃないけどできる気分ではない。僕が作った大事な本なんだ」
「信者に見つかったら大変なことになるぞ!」
カイは血相を変えて僕に訴える。
それが何とも大げさなようで僕に不快感を与えた。
「折角作って持ってきた同人誌を着いて早々処分なんてできないよ。大体その信者ってなんなんだ」
「お前は分かっていな……、おい! 逃げるぞ!」
話の途中で、突然男が僕の手を取って走り始めた。
一体なんなんだ全く。
転がせるとはいえ、300冊近い同人誌が入ったスーツケースを運んでそんなに速く動けるわけが……。
ふと、後ろを振り返ると、制服らしき姿に身をつつんだ男と、その背後に怒りの形相を浮かべた中年の女性が僕らを指差していた。
制服の男は警官のようにも見えた。
色は緑色で、日本の警察の制服とは見た目が違っていたものの、その堅苦しい様相は、民というより官の組織に属している人間に見えた。
ということは僕は警察に追われている?
何故? 何故? 何故?
どうして着いて早々警察に追われなければならないんだ。
ひょっとして、追われているのは僕じゃなくてカイという男なんじゃあないだろうか?
そうすると、わざわざ僕も逃げる必要は無い。
手を振り切ってその場に留まろうとした時、カイが説明を始めた。
「君、さっき同人誌をぶちまけただろ? あれを見ていた人がいて、きっと警察に訴えたんだろう。この男が公衆の面前で猥褻物を披瀝しているってな」
「何だって!?」
まさか一瞬かばんの中身をこぼしてしまっただけで、警察に追われるハメになるとは。
僕はカイを疑った自分自身を恥じながらも、走る速度を上げようとするも、重い荷物を持ったままでは速く走れない。
「貸せ!」
見かねたカイが僕の手から、スーツケースを奪うと、猛烈な勢いで走り始めた。
あんな重いものを持って、走れるなんて……。
僕は見かけによらないカイの強靭な体力に関心しつつも、細い路地を縦横無尽に駆け巡るカイの後を追うのに必死だった。
入り組んだ道に入ったのが功を奏したのか、背後に警察の姿は見えない。
なんとか振り切ったようだ。
「早く、タクシーを捕まえよう。この辺の市街地なら僕らのような東アジア人も多い。警官だって一瞬見た僕らの顔を覚えてはいないだろうし、上手く撒くことができるだろう」
僕はただ無言でカイの言う通りにした。
タクシーが発進して通りを離れるのを確認すると、漸く僕は安堵のため息を付いた。
「いや参ったね。着いて早々警察に追われることになるなんて」
「この国はポルノには厳しいんだよ」
「えーと……、カイさんはカトゥーには詳しいの?」
「まあかれこれ3年になるかな。来てから」
「3年! すごいね。就労ビザを取ってるの?」
「取ってない」
「え……、どうやってじゃあこの国に来てるの?」
「まぁ、不法滞在だな」
「不法滞在って……」
という事はこの男は日本にはもう帰れないのだろうか。
あるいは帰ろうとすれば何らかの法的な罰を受ける可能性があるってことではないか。
「あの通りで何してたの?」
「闇両替だよ。たむろしている旅行者に話しかけて、正規の金額より安く両替してやるんだ。もっとも最近じゃあ取締が厳しくなってきたがね。旅行者に話しかけようとしても冷たくあしらわれることも多いしな」
冷たくあしらわれるのは、あなたがアニメキャラTシャツを着ているからでは……。
そう言いかけて僕は言葉を飲み込んだ。
「まぁ警察に目を付けられちまったからなぁ。暫く行きづらくなる」
「あの……すみません。僕のせいで」
「良いってことよ……。同じ明日花信者のよしみってことで」
信者……。その言葉は忘れかけていた僕の疑問を再浮上させた。
「さっき信者に何かされるって言ってたけど……、この国のアニメファンはそんなに物騒な人たちなの?」
「アニメファン……ね。いや、この国と日本じゃあ信者の意味合いが違うってことだよ。信者ってのは元々宗教に使う言葉だろう? 俺が言っているのは元々の意味での信者だ。つまり、この国、カトゥーじゃあ明日花は宗教になっちまっているっていうことだ」
「なんだって?」
宗教……? 思いもよらない言葉が返ってきた。
「そう。そして明日花のメインヒロインである仙道かすみは女神として崇められているんだ。女神って言っても日本のアイドルみたいなのを想像しちゃあ駄目だぞ。本当の女神、ガチ女神だ」
「ガチ女神……」
女神……? 宗教……? いきなりそんなことを言われてもわからない。
なんかとんでもないところに来てしまった気がする。
やっぱり外国なんて来ずに家に引きこもっていた方が良かったかなぁ……。
「戸惑うのもわかる。俺も最初に見た時は驚いたものだ。日本人には宗教や神なんてものは馴染みがないからなぁ。でも俺は彼らと交流する内にわかってきた事があるんだよ。俺は日本に居たときから、オタク達の煮えきらなさに嫌気がさしていた。例えば、俺の知り合いでも大勢いたのが、恋人ができた瞬間にオタクを止めるやつらだよ。やつらはその途端毒気が抜かれたかのように、二次元に対する興味を失ってしまう。お前にとって二次元とは恋人の代わり程度のものだったのかと言いたくなった。オタク趣味に走っていた時には、何々にいくら使っただとか四六時中何々の事を考えているだのアピールする割には、一度飽きてしまえば非常に冷淡だ。結局彼らは、周りの注目を浴びたかっただけで、コンテンツに対する愛に欠けていたんだよ。君も経験した事あるだろう?」
「ええ……、それは確かに」
カイの言う通りだった。昔は散々語りあった仲の良かった友達も歳を取るにつれてアニメから離れていった。
そう、一番仲の良かったあいつでさえも……。
にわかに僕の脳裏にトラウマが蘇ってきた。
東雲高耶。高校以来、オタク友達として仲の良かった男。
一緒にアニメショップで同人誌を見て回っては、金が無いと嘆いていたり、
お互いのホームページの掲示板に書き込みあった仲だった。
明日花のアニメもあいつは絶賛していたし、あいつの勧めるアニメは信用して良いものばかりだった。
大学では別の大学に別れたけれど、それでも時々連絡を取り合ったり、イベントで同人誌を出した時には挨拶に行く仲だった。
転機が訪れたのは大学を卒業して数年経った頃。
久々に会って話をしていた時のことだ。
「いや〜、この前の同人イベントが仕事の繁忙期と重なっちゃってさ〜。かなり修羅場だったよ。
終わった後体壊しちゃったしさ〜」
いつも通り、笑い飛ばしてくれるかと思いきや、高耶は冷ややかな目で僕を見ていた。
「いつまでもそんな無茶するなよ。もう学生じゃないんだから体壊すよ。無理するなよ。
たかがアニメなんだからさ」
たかがアニメ……。この言葉は僕の心に深く突き刺さった。
そしてやつに問い詰めたくなった。
だったらどうして最初からそんなものに大量のお金と時間を費やしていたのかと。
あれは一時期の暇つぶしのようなもので、ただの若気の至りだったのかと。
だったら最初から熱中しなければ良いじゃないか。
一時の気の迷いなどと打ち捨ててしまうようなものには……。
その後、高耶とは疎遠になった。
聞くところによると、やつは結婚したらしい。
僕は結婚式には呼ばれなかった。
高校の同級生にその事を指摘されてようやく知ったのだ。
それを聞いても僕はもう大して気落ちする事はなかった。
あいつにはとっくに失望していたのだから。
でも、時々思い出して、心臓を圧迫されたかのような気持ちになる事はある。
あの時のあいつの言葉。「たかがアニメ」という言葉には……。
「ああぁぁーーーーっ!! うわああああぁぁ!!」
「何だ? どうしたんだ? いきなり頭をかかえて呻きだして……」
カイが僕の突然の奇行に動揺の色を見せた。
確かに今の僕の行動は異常であったけれど、外国で平気にオタクTシャツを着ているこの男でも他人の奇行に動揺する事があるんだな。
そう思って、僕は謎の安心を感じていた。
「あぁ、ごめん。トラウマを思い出してしまっていてね」
「そうか。大方、昔オタク友達だったやつがリア充化されて裏切られたとかだろう」
「う……、そうなんだけれど」
「そうだろう? だから彼ら、つまり明日花教の信者たちの様子を見ておくことは俺たち日本のオタクがいかに中途半端だったかを再認識する良い機会になるぜ。別に入信を勧めているわけじゃあないんだ。俺だって一応団体には入っているが信仰しているわけじゃあない。部外者に対しても彼らは寛容なんだよ」
この男、カイの言っている事は理屈上は正しいのだけれど、風貌や喋り方が全て胡散臭かった。
常人の神経をしていれば決して付いて行こうなどとは思わないだろう。
でも、同人誌が売れずに半ば自棄になっていた僕は、何でも良いからとりあえず非日常に足を突っ込みたいと思うようになっていた。
「良いよ。行こう」
僕は軽い返事で快諾した。
それがとんでもない騒動に巻き込まれる事になることも知らずに。
「ここが明日花寺院だけど、不用意な発言は止めろよ」
「え、でもさっきは寛容だって」
「寛容ってのは大人しくしてればって事で、彼らの信条に背くような事は言っちゃダメだ。例えばエロは禁止だ。仙道かすみは女神なんだから、それを汚すような発言をしたら君はもうこの寺院には入れないだろう。あるいは一生出られないか、だ」
「怖い事言うなよ。行くの止めようかな」
「大丈夫大丈夫。そうだ。信者の大半は英語も日本語も話せない。君はカトゥー語を話せないだろう? だから君の発言が直接彼らに理解される事は無い。とは言っても一部は英語を話せたりはするから、君が不用意な発言を英語でその人にしなければ大丈夫だ」
「しないよ。そんな初めて会う外国人にシモネタの話なんて」
「それなら良い。後空港で撒き散らした同人誌は彼らには見せない方が良い。後でちゃんと処分しておくんだぞ」
「処分って……どうやって……」
「人がいない場所で燃やすとか」
「燃やすだって……? そんな事できるもんか」
ふざけて言っているのかと思ったけど、この男にはふざけている様子はなかった。でも、それに従うつもりも僕はなかった。
スーツケースにずっと入れておけばバレないだろう。
寺院の前に立つと、門やら屋根やら柱には、人の形をした像が大量に置かれていた。
頭に乗せられた蓮の花の髪飾り、花びらを模したスカートの造形は見覚えのある何かに似ていた。
そう、それは明日花の仙道かすみのシンボルだったのだ。
「これ、仙道かすみ……?」
「そう。でもそれだけじゃないぜ。見ろ」
カイの指差す方に目を向けると、そこには仙道かすみだけではなく、木花さくや、片桐みおなどの、明日花関連のフィギュアが所狭しと置かれていた。フィギュアと言うよりは鋳像であったけれど。
中には大きな像もあった。それは日本で発売していないものだということはその造形の拙さから見て取れた。
恐らくは現地の「信者」と呼ばれている人達が作ったのだと思う。
見たところプラスチック等ではなく、石や金属で作られている。
そして、フィギュアだけではなく、ブロマイドやポスターもそこら中に貼られていた。
それはところどころ色褪せていたり、剥がれていたりした。
女神として崇められているならもう少し丁重に扱って欲しいものだ。
そして寺院の横に併設された屋台では、神さまグッズと称した明日花グッズが販売されていた。ほとんどが海賊版のようであったが、ふと通りかかる間にも2、3人買っている人が散見された。
なんだ。あの程度の質でも売れるのか?
だとすると僕が絵を描いて印刷すれば莫大な利益が出るじゃないか。
そんな邪な算段をし始める。
と思ったところで考えを改めた。
この国の物価はとてつもなく安いのだ。
さっき空港から寺院まで20kmほどタクシーで移動したのに1000円ちょっとしかかかっていない。
安い。安すぎる。
この分では、絵の値段もかなり安いと見るべきだ。
本当に利益をあげられるだろうか……。
いや、それでも日本よりはましに違いない。
何せ300部刷って、15部しか売れない……。
儲かるどころか大赤字である。
いくらこの国の物価が安いと言っても、絵を売って赤字になることはないだろう……。
「明日花のブロマイドが気になるのか?」
僕の様子を見ていたカイが声をかけた。
「あぁ、でも日本とは絵柄が全然違うね」
「日本と似た絵柄のやつもあるよ。今は売り切れてしまっているようだけど。後で見せてやるよ」
「それは楽しみだね」
会話をしながら回廊を歩いて行くとなんだか不気味なお経のような音が聞こえてきた。
それも一人や二人から発せられているものじゃあない。五、六人が発している音だ。
「何? この声?」
僕は自分から説明しようとしないカイに尋ねてみた。
「気付かないのか? もうちょっとよく聞いてみればわかるよ」
「このお経みたいなのを僕が知ってるって?」
歩を進めるごとにお経の唱える音はますます大きくなっていく。
そして、僕はそのお経がある聞き覚えのある音律を奏でている事に気付いた。
「あれ……、これ……、まさか、明日花のメインテーマじゃない??」
「そうだよ。やっと気付いた?」
そう告げるカイは随分得意げな顔をしていた。
知っている曲が、唱えられているのに気付いて嬉しくなると予想しているかのような笑みを浮かべていた。
でも僕は素直に喜べなかった。
元は明るく朗らかな曲だったのに、こうまで低い声で歌われると、陰鬱な曲に聞こえる。
僕がお経みたいと言ったのも的外れではない。
何も知らない日本人をここに連れてきたらこれをカトゥーのお経だと思うことだろう。
それくらい単調で、低く沈んでいくような音だった。
確かに旋律は明日花のメインテーマに似ている。
けれども、なんというか、それを低い声で集団で口ずさまれると、この上なく怪しい。
それで得意げになっているカイの存在も何となく不愉快だ。
「そこの間で歌ってるんだ。角を曲がったらすぐだ」
カイが指差した部屋の入り口を覗き込むと、そこでは40代くらいの男女がこぞってお経を唱えている。
彼らが向いている先を覗いてみると、そこには明日花のメインヒロイン、仙道かすみのポスターがでかでかと貼られていた。
カイが持ってきたのかは知らないが、あれは確か7,8年くらい前のアニメ雑誌に付いてきた特典ポスターだ。
信者らしき人たちは鬼気迫るような表情で必死にポスターに拝んでいる。
「オゲエェェー! マヘーピトリアーシスワッハ〜」
聞いているこっちが辛くなるような喉を絞った声が響く。
「オゲエェェー! マヘーピトリアーシスワッ……ごほっごほっ」
「……」
純朴なアニメファンの気持ちで寺院に訪れた僕は、ただただ気圧されてしまった。というか、引いてしまった。
日本のオタクが部屋中をアニメグッズで埋め尽くし、偏執的な愛を見せつける様子は動画サイトでいくらでも観られる。
でもあれは元々滑稽さを笑うためのものだし、そういう風に扱われている。
だけど、今ここでアニメポスターを崇めている人たちはとても笑って良い雰囲気ではない。
皆大真面目だ。
ガタイの良い坑夫風の男や、仙人のように髭の長い男、40代くらいの主婦らしき人が娘と一緒に拝礼を行っている。
明日花は僕自身が大好きなアニメのはずだった。それを賛美する事に躊躇った事などない。
けれども、ここの人たちに混じって行こうとは到底思えなかった。
僕がいぶかしげな表情を浮かべている間、カイは得意げな笑みを崩さない。
「さ、陸もやったらどうだ?」
「この状況を見て、どうしてそんな発言が出て来るのか理解不能だよ」
「照れるなって……。まぁいきなりあれをやるのはハードルが高かったか」
「照れるとかそう言う問題じゃあ……」
「ふふ、どうだ? すごいだろう。老若男女問わず、アニメ・キャラのポスターに拝んでいるんだぜ。感動的な光景だろう?」
果たしてそうなんだろうか。僕は全く同意できずにいる。
「今日は若い人はあんまりいないようだけどな。休日だったら今よりも全然多い」
カイは僕に構わず話を進める。
「彼らは日本のオタクとは全く真剣味が違う。まさに信者なんだ。日本人がいくら金をコンテンツにつぎ込もうとも、明日寝る食う事に困るなんて事はありえない。
ここの人たちは違う。家賃を払う金が無くても、明日食べるものが無くても、明日花のブロマイドを買っていき、それを拝んでいるんだ。
三日間飲まず食わずで拝み続けて、遂に卒倒したなんて話も聞く」
「どうしてそこまでするんだ。たかがアニ……」
そう言いかけて僕は口をつぐんだ。
たかがアニメ。もしかして、今自分はそんな言葉を言おうとしたのか?
それは僕が過去に言われて最も傷付けられた言葉だったはずなのに。
この僕がそんな言葉を口にするなんて……。
おかしい……。そんなことはあってはならない。
そうだ。身を削って明日花に投資するなんて称えるべきことじゃないか。
それがオタクの本来あるべき姿なんだから。
「どうした?」
錯乱しかけている僕を見て、カイはようやくにやけるのを止めて、不安げな表情を浮かべた。
「いや、大丈夫だ。確かにここの人たちは素晴らしい」
「だろ! いやぁ〜君なら分かってくれると思っていたよ」
そうカイは言うと僕の両手を握って強く振り始めた。
自分が発した言葉のショックについカイに同意してしまったけれど、やっぱり何かおかしい。
「ほら、君も彼らと同じことをしてみたらどうだ。すぐに馴染むだろうよ」
「いや……、僕は良いよ」
「どうしてだ! これが君が望んでいた世界じゃないのか」
ガチすぎて引く。そんな言葉が頭に浮かんだけれど、僕はオタクとしてのプライドから、それを脳裏から消し去った。
ダメだ。それは僕が否定した考え方じゃないか。そんなことを考えてはいけない。ましてや口にするなんて。
「えっと、なんか僕の求めていたものと違う気がして……」
僕はなるべくトゲのない言葉を選んで言った。
「何!? どう違うんだ?」
カイは矢継ぎ早に質問を浴びせる。
どう違うのか。それは僕自身にもよくわかっていなかった。
「なんだろうか。僕はアニメとしての明日花を愛しているのであって、それを現実と思うのはなんかちょっと違うような……」
「そんなことはない! アニメの設定を現実と考える者と、フィクションと思う者、どちらがアニメにのめり込んでいるかは明白だろう?」
確かにカイの言葉には反論ができないのだけれど、どうも感覚として腑に落ちない。
アニメを現実と見る者の方が、作品にのめり込んでいる。それはそうだろう。
でも、現実と見る者の方が作品を愛している、とは必ずしも言えないのではないか。
いや、言えるのか……?
自分でもよくわからなくなってきた。
ただ確かなのは、この寺院で信者と呼ばれている人たちに混ざりたいかというと、そうではないということだ。
何故か、と言われてもうまく説明できないけれど。
「わかった。君はアニメを見ながら騒ぐタイプというよりも、難しい顔をして考察を述べるタイプのオタクだろう。確かにそのタイプならアニメの世界観にのめり込む喜びを知らないのも理解できなくはない」
カイは観念したかのようにそう言った。次に何を言い出すのか、僕はどきどきしながら聞いている。
「だが、色あせたポスターやできそこないの鋳像ではない本物を見れば気が変わるだろう。
この寺院にはな、明日花の仙道かすみそっくりの巫女様がいるんだよ。
巫女様が出てくれば明日花ファンは皆、明日花の世界が現実に具現化したかのような衝撃を受ける。
巫女様は空間を変える力を持っている。
巫女様を見れば、現実世界から、明日花の世界に迷い込んだかのような錯覚に陥るはずだ」
「巫女?? 仙道かすみのコスプレイヤーってこと?」
「その言い方は正しくないな。少なくともこの寺院にいる人たちは巫女様をコスプレイヤーなんだとは思っていない。そもそも、カトゥーにはコスプレなんて概念は無いんだ。信者たちはこう考えている。神さまになった仙道かすみがこの世に化身した姿が巫女様なんだと」
いよいよ胡散臭い新興宗教じみてきた。いくら美人であっても、コスプレイヤーが二次元美少女にそっくりなんてことがありえるものか。騙して入信させようとしているんじゃあないだろうか。
「その目は疑っているな。まぁ論より証拠だ。君は明日寺院に赴くだけで良い。どうせ他にする事もないんだろう?」
どうせする事もない。確かにその通りなのだが面と向かって言われると腹が立つ。
「明日。午前九時頃だ。来いよ。絶対来る価値はあるから」
カイは得意げな口調で誘い文句を繰り返した。
「あぁ、行くよ。多分」
「何なら今日泊まっていっても良いんだぜ。ここに宿泊する場所はある」
カイはそんな提案をしてきた。
冗談じゃない。今日会ったばかりの人に宗教施設に連れて行かれて泊まるなんて、よほどの酔狂でもない限り無理だ。
「いや、もうホテルは取ってるからね」
「そうか。じゃあ明日以降考えておいてくれ」
カイの言葉に僕は返事をせずに寺院を後にした。
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