眠れない夜が明けるのは長い

あやぺん

眠れない夜が明けるのは長い

 癖っ毛の髪がくすぐったい。そろりと指でどかしてみたら、彼は「うーん」と殆ど吐息といえる小さな声をこぼした。抱きしめられているのは嬉しいが重い。意外に筋肉質で太い腕。ビクともしない。


 こんなに緊張して動悸がするのに、隣のこの人は一体何故ぐっすりと眠ってるいるのだろう。今日は色々と疲れた。それでも私は眠くない。正直に言えば眠いけれどそれどころではない。肌が触れ合う温もり。彼の細い癖っ毛のせいでちくちく痒い気がするおでこ。ずっしりと重たい腕。器用に繋がれている手。こんな状況ですやすや眠れるほど図太い神経はしていない。女は度胸と言うけれどそれとこれとは別だ。


 ふかふかの布団の中とはいえ眠いよりも胸がギュッと締まって、ドキドキ鳴って、息をするのもおっかなびっくり。だから私はちっとも眠れそうにない。なのに彼は寝ている。隣の彼はぐっすり眠っている。何故なのか?まるで子供みたいなあどけない顔をしているのが不思議。


「今夜は一緒にいて欲しい」


 そう言って握った手を離さなかった彼の目は、知らない人だった。獲物を罠にかける狩人と同じような光を帯びた視線。逃げないのに逃すかと迫るような気迫。雰囲気とは真逆の柔らかく優しい微笑みをたたえて、いつもより低い声で甘えるように囁かれた。


「離れたくないな……」


 あの彼は一体どこに消えてしまったのだろうというくらい、静かな寝息を立てている彼は幼く見える。変な人。男の人ってみんなこうなのだろうか。動けなくて体が少し痛い。でもちっとも嫌ではない。幸せと安心感と緊張が混じり合った今までにない感情。これに名前を付けるのは難しい。えいっと彼の唇に自分の唇を押し付けてみた。反応はなくて返事もない。


 一人なら今すぐ手足をバタバタさせて悶えたい。こんな事をするのを許されるのは自分だけだという満足感と、触れた唇に込み上げる熱さでジッとしていられない。でも重たい腕と握られた手に捕まえられて動けなかった。勝手にキスした罪悪感と気がついてもらえない寂しさ。彼の目が覚めたら昨夜のように何度もキスしてくれる。きつく抱きしめられるだろう。起きてくれれば良いのにと考えてまた恥ずかしくなった。


 昨日の夜は空が美しかった。瞬く星も月も綺麗だった。広がる夜空に瞬く光より、それよりも更に輝きを放つ月よりも、彼の微笑みが眩しかった。重ねられた唇のあまりの熱さに燃えてしまいそうだった。それでも良い。燃やされて炭になりたい。抱き締められた体が折れてしまっても構わないから、もっときつく抱いて離さないで欲しいと願った。


 穏やかな風に乗る潮の匂い、手を伸ばせば届きそうな星空、磨かれた宝石みたいな月。あの夜を永遠に忘れない。いや忘れられない。まだ胸に灯る感動が私の目を冴えさせていた。


 なのに……


「起きないのね……」


 彼の顔を見つめながら小さく口にしたけれど、やはり起きなかった。私は感激で胸が一杯なのにすやすやと眠る彼にほんの少し苛立ちが湧く。目を覚まされたらどんな恥ずかしい事が起こるのかぼんやりと想像出来るので、このまま寝ていて欲しい。でも余韻とかそういうものは無いのだろうか?眠れないくらいの感動は彼には無かったのか?部屋に入るなり手を繋いだまますぐ寝てしまったというのはどうにも不服。それなりの覚悟はしていたのに不満だ。


 不服?不満?声にならない声を出して私は顔を伏せた。何て事を考えたのだろう。起きてまた沢山キスして抱きしめて欲しい。髪を撫でて頬に手を当ててもらいたい。想像だけで恥ずかしくて堪らないのにもっと色々として欲しい。彼は変だが私も変だ。体が熱くて仕方がない。こんなんじゃちっとも眠れない。なのに彼は眠っている。


「もうっ……」


 私はこんなにあれこれ考えて眠れないのに、彼はどうして深く眠りに沈んでいるのだろう。起きろ、起きるな、起きろ、起きるな、起きろ、起きるなと交互に念じながら彼の胸に頭を寄せた。目を瞑って彼の心臓の音に耳をすます。ゆっくりとした規則的な鼓動を数えてみる。意味もなく呼吸を揃えてみる。


 眠いかも……。


 うつらうつら、ようやく眠れるなと安堵していたのに彼の腕が少し動いて私の体は跳ねた。肩を覆っていた彼の腕が少し下がり指が腰にまとわりつく。そーっと上目遣いで確認してみたけど彼は寝ているようだ。寝相なのかさわさわと指が背中と腰の間をさすった。こんなことされたら恥ずかしくて熱くて眠れない。折角眠れそうだったのに。


「もうっ」


 いっそ起こしてしまえと、また彼の唇を襲撃した。無反応。ねえねえ女性からここまでしたのだから目覚めても良いのではないですか?おーい。起きろ。念じてみても身じろぎ一つない。でも大きく身体を揺さぶってみたり、声を上げて彼を起こす勇気はない。思わずため息が漏れた。


「今起きないと次は逃げるわよ……」


 ぽそりと呟いてみたがまた無反応。私はもう一度「もうっ」と呟いた。やはり腕は重いし、吐息はくすぐったいし、額に当たる癖っ毛は痒い。ドキドキよりも腹が立ってきた。


 女は誰もがこんな眠れなくて長い夜を過ごすのだろうか。身がもたない。しばらくは私に触れないで欲しい。でも彼の知らない人みたいな激情のこもった目線や、宝物みたいに私を触る掌や指から逃げられるかというと自信が無い。彼の寝顔は子供を通り過ぎて赤ん坊みたいだ。可笑しくて私はクスクスと体を震わせる。


 それでもやっぱり彼は起きない。


 眠れない夜が中々終わらない……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

眠れない夜が明けるのは長い あやぺん @crowdear32

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ