第5話 珊瑚礁の壁①
「二十五手で負けた」
『よく将棋系娯楽作品で《くそ、二十五手で負けた……対局相手のアイツ、なんて強さだ》という台詞がありますが、あれって実力の指標としてはどうなんでしょうね。棋譜を推測するに、単に対局相手が超々急戦の奇襲を試み、負けた側はその受け方定跡を知らなかっただけだと思うんです。つまり実力云々以前に、知識がなかった所為。要は卑怯なハメ手です。あまり相手の実力を示すには相応しくないと思いませんか。だいたい奇襲なんて失敗すると仕掛けた側が敗勢に陥るものです。大一番で使うにしては舐めたものです』
「菊は何手で負けたんだっけ」
『二十三手です』
「炎泉、なんて強さだ」
なるほど高勝率機の実力は抜きん出ている。炎泉は終盤戦の研究を重ねていると聞いていたが、片鱗すら見させてもらえなかった。
「あ、忘れてた!」
『どうしました。負けたショックで語尾に《こん》を付けるの忘れましたか』
「付けたことないでしょ。タイトル棋戦の名前、どっちがいいか訊くの忘れただんよ」
トラックは依然として快調だった。長らくガレージで埃を被っていたものと思われるが、負刃と別れてから数ヶ月走ってもまだ特に故障らしい故障はしていない。おそらく負刃がちょくちょくメンテナンスしていたのだろう。菊とは正反対に器用なメイドロボである。
『……いやあ、炎泉は強敵でしたね』
「ううん、しくじったなあ」
外の風景はいつしか旧工業地帯に変わる。色合いだけ見ればずっと白い雪の積もる他愛もない死んだ大地だが、天高くそびえる煙突や無駄に広く陣取られたフェンスがあれば、なんとなく雪の下の景色は浮かぶというものだ。
だだっ広い盆地を、唯一色彩を持ったトラックが駆けて行く。しんしんと雪が降り注ぎ、車内にはガラスを拭うワイパーの音がせわしくなく響いている。旅のはじめは車内暖房を付けていたが、付けたところで焼け石に冷や水の極寒ぶりだったので次第に付けることが減っていった。いまもクリスは白い息を吐いている。
炎泉との二面指しの前にあっさりと敗れたクリス達は、それでも改めて約束を交わした。イオンバッテリーさえあれば参戦してくれるという。彼女は快く応じてくれた。後は問題の品を持ち帰るだけだ。
だからもう不安はない。むしろクリスはしみじみと感傷に浸るように唾を滲ませていた。
「にしても、きつねうどんは美味しかった。何より温かいっていうのがいい。冬、寒過ぎる」
『暦だけでいえばいまって夏なんですよ』
「あ、そうか。寒いほうが夏か」
『それは南半球の話ですね』
「……?」
クリスは疑問符を浮かべている。妖狐の群れにいた頃聞いた話では、ここは北半球にある日本列島で、日本の夏は暑いもので間違いない。記憶力にはいささか自信がある。さては年長の妖狐に嘘を教えられたのだろうか。
……実際のところ、自然環境が破壊されたせいで古い知識と現状が食い違っているのだ。それを菊が教えていないためである。
「でもおいしかったなぁ。菊ー、またうどん食べたいよー。ねえつくってー」
『甘い声出しても駄目ですよ。ネガティブさんじゃあるまいし』
「ちえっ」
それでもクリスはめげずに、
「うどんじゃなくてもいいから、温かいものが欲しい。ひもじい」
『体温を測定。……やはり寒そうですね』
「測るまでもないよ。おなかすいた」
『食べ物を分けてもらえばよかったですね。残念でした』
「メイドロボって、こう、残り物でぱぱっとつくれないの?」
『画像でよければ出せますけど』
「嫌がらせか」
『ほらほらクリス、これがバナナですよ』
いつぞやのときのように、愛用しているデジカメの液晶に果実を映し出す。ぐー、と間抜けな音が鳴る。クリスの腹の虫だ。もっとも空腹でクリスが死んだところで、しばらく待っていれば復活するので菊はあまり真剣に取り合っていない。
「バナナうまい」
『カメラをかじらないでください』
即座に電源を落とされた。不満そうに、自分のよだれでまみれたデジカメの画面をエプロンドレスで拭く。
「
『夢診断によると性欲の現れですね。クリスってばえっち。変態。女装癖』
「全部外れだっつーの。ああ愛しの《きつねうどん》。……ねえ、きつねってなに」
『貴方のことですよ、きつねさん』
どうして気付かなかったのか。いわれてみれば、当初は負刃にもきつねと呼ばれていた。あんぐりと口を開けたまま、空腹も忘れたクリスは恐怖でかたかたと震え出した。
「……え、じゃあ共食いしたってこと?」
『そういうわけではないようですが……』
菊は自己のデータベースを漁る。どうやら《きつねうどん》の狐は、同名の原生生物を指すのではなく狐の好物だとされていたから、という説が有力らしい。が、
「たしかにわたしらは肉を切断してもピンピンしてるが……うげっ」
味を思い出してぶるぶる震えているクリスが面白かったので、特に説明しなかった。
『そういうことにしておきましょう』
クリスの狐耳には入らず、ずっと悶々としている。菊はその耳を片手でつんつんとしている。
「……あれ? でも妖狐の肉が出てきたってことは、泉さんはむかし、妖狐に会ったことがあるのか……?」
『なんてしゃべってるうちに、そろそろ着きますね』
「おっと!」
クリスはブレーキを踏む。拙い運転のせいで、外に会ったフェンスを突き破ってしまった。
『あちゃあ。減点五です。免許剥奪』
「畜生やっちまった。次からは菊の運転だな」
『……と思いましたが、情状酌量の余地があるのでギリギリセーフでした。クリス車掌の旅はまだまだ続きます!』
二人がきゃいきゃいとやりあっていると、車内無線に着信があった。
『へったくそな運転やなぁ。まあええわ、ほれ、入って来い』
自己紹介こそなかったが、声の主は次なる実力者・
「むううん、格好わるいところを見られた」
『炎泉に聞いたとおり、関西弁でしゃべるアクの強いメイドロボですね』
「うさんくさ。知らなかったらUターンしてるところだった」
『ええ、これを《けったいな》というのでしょう。けったいなメイドロボ、けったいな住まい、けったいな鯖味噌……』
「鯖味噌とは」
『鯖の脳味噌のことです。転じて希少部位を指します』
「小さそうだもんな」
促されるままエンジンを停める。珊瑚障壁の根城は旧工業地帯。それもサイドマレット社の超高層本社ビルである。永劫の果てにビル本体は風化しており、クリス達は首を痛めることなくその全容を眼に収めた。
「えらく小じんまりとしている。まるで鯖味噌だ」
『いいえ、これは断捨離と呼ばれるものです。シャリを捨てて、上に乗っている魚の切り身を味わうというムーヴメント。つまり』
「つまり?」
菊は先にトラックを下り、クリスの手を引いてあげた。最近知ったのだが、車高が高くてクリスはいちいち運転席から飛び降りないといけない。
『鯖味噌です』
「最近流行ってるんだな」
負刃の情報によれば、件のビルは五十階とも百階建てとも知れぬ立派な物だったという。炎泉がそうだったように、多くのメイドロボがかつての住居に居座り続けているのに対し、珊瑚障壁はずっとこの廃墟で暮らしているそうだ。別にこのビルが彼女の奉公先だったわけではないらしい。
疑問は尽きないが、おそらく設備が整っていたのだろう。現にイオンバッテリーを貯蔵しているという負刃の推測は当たっていそうだ。自分達の製造元なら在庫があるに違いない。
「ともかく入ってみよう。今回も迎撃されなかったし、幸先がいい」
『毎度こうならいいんですけどね』
きっと珊瑚障壁には高いお掃除能力があるのだろう。見た目に反して、ビルの中は居心地がよさそうだった。土足で上がるのを躊躇しそうになる。まさに立派な佇まいだった。ただ一点、天井がなかったのを除けば。
スピーカーから聞こえるけったいな関西弁に従って奥のフロアにある応接室に通されると、ようやく珊瑚障壁と対面することができた。ぼろぼろの扉に見合って小じんまりとした応接室には、一人と二機が入ると随分手狭に感じる。
珊瑚障壁もみなと同型の暫七世代機のはずだったが、外装は大幅なチューンアップが施されていた。おそらく以前の持ち主によるものだろう。各部位は艶消しの黒に塗られている。菊とは同じ色だが、人為的に塗られている分だけ珊瑚障壁は光の反射具合がより綺麗になっている。
また上半身こそ普通の容姿だが、下半身は大きなスカート状の装備で隠されており脚そのものが見えない。床に付着した跡を調べてみると、どうやら無限軌道で進んでいるらしかった。たしかにそのほうが機体の制動に余計な力を使わなくていい。
相手は上座用のふかふかとした(それでいて、ところどころ破けて黄色のクッションが見えている)チェアに座り来客を促した。
『十日菊に結唯・クリスティやな。顔認証完了。二人を和平の使者と認めたる。……なんつって。まずは遠いとこご苦労さん。熱い茶ぁいるか?』
「欲しい!」
『おっ、ええ返事やな。2万リットル出したろ』
「いやそんなには……」
クリスが断りかけたが、既に珊瑚障壁は用意をしていたようだ。程々の量まで注いだ湯呑みにほうじ茶を淹れて、クリスの前に差し出している。
ほっとしたクリスを差し置いて、まずは菊が切り出した。
『負刃から話は聞いていると思いますが、珊瑚障壁。貴方にもタイトル棋戦に出場して欲しいのです』
『ああ、知っとーで。せやけどウチが首を縦に振る思たら大間違いや』
『……むっ。居飛車党というわけですね』
『つまらん冗談は好きくないで』
菊は身構えた。荷台の運搬口から砲身を覗かせたレーザー砲は、無線でいつでも撃ち込めるようにセッティングしてある。……もとい、この流れはどうにも不穏だ。実力行使も辞さない。
果たして珊瑚障壁は首をもたげ、すっと一本指を立ててみせる。天井知らずの鷹揚さ。
『ここはメイドロボの流儀に従い、ウチに将棋で勝ったら大人しく参戦して優勝したる。どや』
『ぐぬっ……我々が将棋に弱いことを知りながら、よくもまあいけしゃあしゃあとそのような挑戦状を叩きつけられたものです。恥を知りなさい』
『わはは、何とでもいえ』
菊はたまらず二の句が継げないでいたが、クリスだけはおっとりと熱いお茶をすすりながら冷静にツッコミを入れていた。
(なんだよメイドロボの流儀って……)
クリスの脳裏に、かつて出会った将棋せずにはいられないメイドロボ達の姿が浮かぶ。将棋を餌にすれば何にでも食いつきそうだ。タイトル棋戦という案もあながち馬鹿にしたものではない。
『しかしまーウチも鬼やない。別に回数制限は設けへんで。無限回の勝負でたった一回でええ。ウチに《参りました》いわせたらええねや』
『……それは勝機があるのでしょうか?』
『ゼロやないな。けど自分らが可哀想やからいうといたるけど、ウチ、将棋は死ぬほど強いで』
珊瑚障壁の頭部、ゴーグル状のカメラアイが冷たく光る。光に照らされクリス達の背筋が凍えた。なにせ空から吹き込んでくる
『まあゆっくりしてき。別にウチに勝てんでも、イオンバッテリーなら何個でも持ってってええで。それで出場できるヤツがおるはずや』
バッテリー切れ間近のメイドロボ。炎泉のことである。たしかに彼女の出場確定は喜ばしい。棋戦もある程度は盛り上がるだろう。だがやはり、ここまで口説きに来たのなら勝率一位のメイドロボにも出て欲しいものである。その一言で火が付いた。
「乗ったぞ珊瑚障壁。わたしが相手だ」
『威勢のええきつねさんやな』
からからと楽しげに珊瑚障壁が笑う。
『そっちのメイドはどうや? ……ってどっちもメイドさんやんけ。ロボいほうな』
『私は……見守ります』
『ふうん。二面指しでもええのに。どうせウチが勝つしな』
たしかに炎泉と戦ったときのように二面指しするというのも作戦だろう。一つの対局に集中させるより、同時に戦いを起こしたほうがメモリのリソースを割かれる。だが菊には目の前にあるメリットを捨ててまで選んだ目論見があった。
だいたい二面指しを選んだところで、実力に期待した程の低下が見られないのは炎泉で証明済みである。
『ほんじゃ、やるか』
そういうと珊瑚障壁は戸棚から古めかしい将棋盤を取り出した。クチナシでできた四本足の盤である。
「ずい分いい物持ってるんだな」
『よー知らんけどあってん。百個ぐらい。ここ、ロボット製造業者のはずやねんけどな。よっぽど社員が将棋好きやったんやろな』
最初は首を傾げて飄々としていた珊瑚障壁も、駒を並べるうちに真剣味が増してくる。いつしか室温すら気にならなくなった。
『格下が先手や。ほれ、指しや』
「……よろしくお願いします」
『よろしゅう』
菊はクリスの側に座り、静かに経過時間を測り始めた。珊瑚障壁の《ウォーターゲート》での勝率は通算七割九厘。たしかに強いが無敵ではない。
もっとも初戦は負けるだろう。だからこそ本当の勝負は二回目以降だった。まずは珊瑚障壁の棋風を理解して対策を練る必要がある。菊は自身の持つ将棋ソフト《EarthFire》とともに、リアルタイムで棋譜解析を始めた。
ひとまずクリスは無難に角換わりの戦型を打診してみる。旅路の合間を縫って将棋の勉強をしていたとはいえ、あまり実戦経験を積んでいない彼に指せる戦法は少なかった。ほぼ見よう見まねに近い。かなり前、菊と負刃の野良対局で偶然覚えたものだ。
ところが指し始めて数手で珊瑚障壁は角換わりを拒否した。途中△4四歩と突くことで角道をいったん閉ざし、そのまま雁木囲いに組み上げる。
ここから有効な指し手は……相雁木、左美濃急戦、陽動振り飛車、変則形の右玉……。菊は脳裏にいくつかの選択肢を挙げるが、あいにくクリスには伝わらない。
迷った挙句に最悪の手を指した。無謀ともいえる突撃である。クリスの玉将は居玉のまま攻めが暴発してしまった。
これでは有効な棋譜を収集できない。菊は着手を見るなり中座し、トラックの中に放置していた水筒を持ち帰ってきた。この
だが《そのとき》はしばらく訪れなかった。時間にして数時間。クリスの攻めがいきなり鋭くなったとか、珊瑚障壁の守りが思ったより薄かったとか……そういった楽観的なものではない。何が起こっているのかはクリスの表情を見れば一目瞭然だ。
唇を真一文字に結び、額に玉のような汗を浮かべている。時折天を仰いではメイド服の白い裾で額を拭った。まるで熱に浮かされているかのようだ。考えるのが苦しい。クリスは駒台から歩を一枚掴んで自陣に投入しようとし、二歩になることに気付いて慌てて引っ込めた。
「そうか、苦しい……」
クリスはぽつりとぼやく。
『クリス、』
菊はたまらず声をかけようとしたが言葉が出なかった。うまいこと声の抑揚が付けられないのである。見苦しいと怒ったほうがいいのか、人でなしと怒ったほうがいいのか、情けないと怒鳴ったほうがいいのか。そのどれもが違う気がした。
挙句に数十手指してみれば、結局クリスが持っていた最後の持ち歩もあっけなく敵に召し捕られてしまった。
「……」
対局中一言も発さなかった珊瑚障壁が唐突に話しかけてくる。
『どうしたきつねさん、将棋にパスはないで』
「……わたしの名前はクリスだ。結唯・クリスティ」
『クリス。指さへんのか?』
クリスはじっと眼を瞑ったまま動かない。だらりと汗が流れる。指したいところなのだが指す手がなかった。クリスの駒は玉将のみ……。そして、どこへ動かしても相手の駒の利きに入ってしまう。将棋では玉将を自殺させるのは反則手にあたるので動かしようがない。クリスの陣地は敵方の二枚龍と二枚馬に蹂躙され尽くしていた。
珊瑚障壁にとっては何度も詰みに追いやるチャンスはあったが、ことごとく駒を取る手を選んでいた。いわゆる《全駒》である。将棋指しにとってこれ程の屈辱はない。
クリスの玉将は裸一貫で戦場に立たされ、隅に追いやられていた。
『まあ無理ないわな。全駒しとるもん』
「か、かなり大人げないぞ。珊瑚障壁っ」
『いやあ、若いモンのすんは気持ちええもんやなあ』
「わたしはこう見えて七○二歳だぞ」
『ウチかて九六四歳や』
ひとしきり偉そうにした後、ぐいと腰を回して珊瑚障壁は菊のほうに向き直る。
『ところでどうや、十日菊。ウチの将棋は解析できたか?』
突然話を振られ、菊は驚きを隠せなかった。棋譜解析するなどひとことも告げていないはずなのに。いつの間にか気取られている。しかも解析のほうは早々に諦めていた。
『……っ。いいえ、全く』
『そやなあ。本気出すまでもなかったわ』
クリスは悔しげに眼を伏せる。
『棋戦開催は四年後やったっけ? それまでに間に合うとええな』
クリスは拳を握り締め、チェアのクッションを殴った。ぼふんと腑抜けた音がした。
感想戦すらやる気がないのだろう。珊瑚障壁は盤上に際限なく散らばった駒達を箱にしまうと、特段面白くもなさそうに、平坦な調子で告げた。
『しっかし自分、もうちょい実力付けたほうがええんちゃう? 棋戦出るんやろ』
「……そのつもりだ」
『基礎がなってへんな。ほれ、タブレット貸したるから二人でお勉強し』
そうして珊瑚障壁はタブレット端末を投げた。項垂れるクリスに当たりそうになって、素早く手を伸ばした菊の腕に収まった。フリスビーに食いつく犬のようである。
珊瑚障壁は自室に戻るといって帰っていった。二人に用意されていたのは簡易ベッドをこしらえた小さな部屋である。むかしは夜勤警備用の仮眠室だったそうだ。部屋のプレートを読んだ菊が伝えたが、落ち込んだままのクリスは反応がなかった。
『あっ、タブレットの使い方がわかりました。ここを押すと電源が入るんですよ! クリスもやってみません』
「わたしは寝るよ。長旅で疲れた」
シーツはまるで昨日洗濯したかのようにふわふわと夢心地だった。というか実際、昨日洗濯されている。一昨日まではこの部屋は廃品の積まれたゴミ捨て場だった。これこそ珊瑚障壁の高い演算能力を転化した未来予測によるものなのだが、当然クリス達の知る由もない。
菊は壁沿いに立ち、なるべく消費電力の少ない姿勢を取る。彼女らにとってはいちばんリラックスできる姿勢だ。そのままうわごとのように独り言を呟いている。
『駄目ですね、クリス。これでは勝ち筋が見つかりません。あの機体は強いです……。というか貴方が弱すぎます……』
クリスはいまだ敗北により落ち着かず、眼を見開いていた。
翌朝、クリスはベッドから起き出してきた。体温等を観察していなかったので、ぐっすり眠れたのかは菊にはわからない。いちおう、眠れましたか、と聞いてみたが正直に答えてくれたとも思えない。
『今朝はフルーツ味の携帯食料ですって。珊瑚障壁が持ってきてくれました』
「後でお礼いっとかなきゃな。……フルーツって何?」
『一言でいえばバナナですね』
「結局バナナかぁ……あ、菊、カメラはもう見せなくていいよ」
珊瑚障壁が渡してくれた食料をぼりぼりと平らげ、クリスは満足そうに口元を拭う。水無しで食べるのは苦しかったが贅沢はいえない。
「よし、行くか」
いまや専用の対局室となった応接間に向かうと、既に珊瑚障壁が準備を整えていた。互いに前置きは不要とばかり、黙礼し合って対局を始める。
そんな毎日だった。日に何戦かすることもあったが結果に変わりはない。来る日も来る日も負け続け、その日の反省を込めてクリスはシャワーを浴び、寝床に入る。柔らかい寝床の中では一向に眠れず、タブレットを操作している。
敗北した初日こそ塞ぎ込んでいたが、最近ではいつものクリスに戻っていた。菊の予測によれば、クリスの感覚は麻痺しているのかもしれない。
ついに一月近くが経過し、それでも五十七戦目も珊瑚障壁の勝利に終わった。まるで手応えがなかったといわんばかりに珊瑚障壁は肩を回し、相変わらずうつむき臍を噛むクリス……の隣に立つ菊に声をかける。
『ウチ、別に意地悪いうとーつもりはないで。本音をいえば棋戦には出たい。めっちゃ出たい。そやから早よウチを倒してみぃ』
『だったらわざと負けてくださいな』
『や、それはな……なんか、ちゃうやん?』
どう《違う》のかと問い詰めたかったが、完全敗北を認めるようで菊にはできなかった。
代わりといってはなんだが矛先を変えてみる。
『そういえば、ひとつ聞きそびれていました』
『なんや』
『タイトル棋戦の名前なんですけど、《機妖戦》と《冥王戦》、どっちがいいと思います』
『……なんやそれ』
『わかりやすい殺し文句が必要でして。決選投票中なのです』
ふむん、と珊瑚障壁は唸った。
『それなら《機妖戦》かなぁ』
「よし、清き一票だ」
『むっ……理由を聞いてもいいですか』
クリスの小さなガッツポーズをよそに、菊がへこたれずに尋ねた。
『理由いうてもなあ。ニュアンス……的な? この棋戦は妖狐も出るんやろ。仲間に入れたるべきや』
『むむむ』
痛いところを突かれた、という風に菊が沈黙する。対局室はそのまま解散となり、クリスはエプロンドレスのポケットからタブレットを取り出して将棋を指し続けて、やっぱり負けた。
菊は何か力になれないかともやもやしているが、結局のところ彼女とて珊瑚障壁に勝てる実力はない。
ただ少しでも悔しい気持ちを共有しようとして、トラックの運転を試みてはサイドマレット社の敷地内フェンスに激突していた。毎度バンパーを凹ませておきながら、菊は素知らぬ顔でいる。お陰で珊瑚障壁の日課が増えたとは気付いていない。
変化があったのは八十八戦目だ。またもや敗北を喫したクリスは、何もいわずに足早に対局室を去っていった。
『待ってください、クリス』
菊が追いかけようとしたが、強く静かな声で珊瑚障壁に呼び止められ、中腰のまま止まった。
『別に逃げたりせんやろ。一人にしたり』
『あなたがコテンパンに叩きのめしたんでしょうが』
『いやあ、つい』
『ついじゃありません』
保護者のように菊は文句をつけるが、珊瑚障壁はまるで取り付く島がない。どころか軽い口調になって雑談でもしようかという調子だった。
『しかし自分オモロイこと考えるやつやな。将棋で釣ってメイドロボを一堂に会するんやって? このままやと将棋星人が生まれるで』
『それは貴方の未来予測ですか? それともジョーク?』
『未来ジョークや』
飄々とした言葉で本意が掴めないのは、決して珊瑚障壁の口調、関西弁のためだけではなかった。
そこへ突然、珊瑚障壁は黒いボディを乗り出しそっと小声で尋ねた。
『ウチは単に《棋戦を発足させる》としか聞いてへんけど、その実は裏があるやろ』
『……お見通しですね。さすが高勝率機』
『世辞はええわ』
『棋戦はあくまでメイドロボと妖狐を一箇所に集める口実です。帰る場所のない私達です。一度集まれば、そう容易には離れたりしないでしょう。負刃というメイドロボ曰く、将棋にたとえるなら《囲い》』
珊瑚障壁は発音機構を閉ざし、無言で続きを促す。
『その《囲い》の中で、私はまた文明を復興させたいのです。かつて宇宙ステーションから見ていた月をみんなにも教えてあげたいのです。再びメイドロボと人類が仲良く暮らせる世界にする。この次は主と従者ではなく、よき隣人としてやり直したい。そんなところです』
『ほぉらな、やっぱ将棋星人や』
素に戻った珊瑚障壁は頭をかいた。
『変でしょうか』
『いや、ちっとも。もし笑うやつがおったら、ウチが将棋でぶっ飛ばしたる』
そのまま珊瑚障壁は腕を組み、どこか嬉しそうに続ける。
『ええなあ、気に入ったで。うん、実に気に入った。あんたらには協力する価値がある。考える脳味噌があるんやったら、次の最善手を求めるべきや。諦めない不屈の闘志はウチらが受け継いだ貴重な遺産やし。これならアイツも満足するはずや』
『たしかにあの子はまだ折れていませんね』
心から感心したように菊がぽつりと呟く。珊瑚障壁は一瞬だけ、何かいいたげに眼を向けたが、ついぞいうことはなく普段の調子に戻って話した。
『ウチを棋戦に参戦させるんが、未来をつかむ条件やと思うんなら。全力で、何度でも立ち向かって来。そんときはウチも一肌脱いだろ。自分らならそれができる』
『ありがたいお言葉です。ところでどこから突っ込めばいいんでしょうか』
『どこからというと』
『《つべこべいわんと手伝え》なのか《お前脱ぐ肌ないやろ》なのか《戦うのはクリスや》なのか。現在、たいへん困っています』
珊瑚障壁は悩んだ素振りを見せ、重々しく口を開く。
『うーん、強いていうなら』
『はい』
『自分、アクセントおかしいで』
『……し、知らんがな』
夜も更け、クリスはタブレット端末片手に将棋に打ち込んでいた。珊瑚障壁に貸してもらった端末は《ウォーターゲート》に接続している。彼女のアカウントを借りてログインし、別の土地にいる名も知れぬ暫七世代型のメイドロボと対局しているのである。
少なくとも珊瑚障壁より格下であろう相手に、クリスは負け続けていた。ついでにいうなら珊瑚障壁のレーティングもいくらか溶けている。このままだと珊瑚障壁のレーティングも地に落ちそうだ。炎泉が勝率一位になる日も近い。
「……駄目だ、勝てる気がしない」
『芳しくないようですね』
「こちとら不老不死だぞ、と強がりたいところだが、何年先になるやら。喜べ菊、わたしの未来予測では記念すべき機妖戦の百回目で珊瑚障壁が参戦してくれるぞ」
『三桁で済めばよいのですが』
いつしかタイトル棋戦の名前は機妖戦になっていた。鶴の一声というやつで、やはり珊瑚障壁が後を押したのが大きい。
『それに私は、第一回目の機妖戦で珊瑚障壁に出て欲しいのです』
「そりゃわたしだって勝ちたいよ」
『であるならば。あまり気は進みませんが、クリス。いまの貴方が正攻法で勝つのは無理でしょう。イカサマしてみます?』
クリスの返事を待たずに菊は音声通話用のアプリケーションを起動する真似をして、よそ行きの高い声をつくった。
『あ、もしもし炎泉? 私です。ちょっと通信で代打ちお願いできませんか』
「ちょっと! 何いってるんだ」
『何って。又聞きした情報によれば、炎泉、かつては珊瑚障壁に勝ったことがあるそうですよ。これ以上ない助っ人です』
「それは駄目だ! 駄目といったら駄目!」
『心中お察ししますよ。でもねクリス、貴方には限界があります。たしかに力は付けてきているようですが、まるで敵いません。遥か彼方にある障壁に向かい、三輪車でよちよち歩きしているみたいです』
傍らに立つメイドロボの声が耳に入っているのかいないのか、クリスはただ漠然と将棋盤を睨み続け、しきりに前後に身体を揺らしている。きっとどこかに突破口はあるはずだった。将棋というルールの定められた戦いであれば、互角の戦いができるはず。
「わるいけど菊は口を挟まないでくれ」
ミネラルウォーターに口をつける。底の浅い湯呑みをぐいっと一気に飲み干した。おもむろに初期状態である盤面から歩兵を一枚掴んで前へ進める。それから手を伸ばして敵陣にある飛車先の歩を突く。珊瑚障壁の指し手の再現のつもりだった。
菊は特に断りもなく、空になった湯呑みにペットボトルの水を注いでおく。
何十戦と対局を重ねてわかったことがある。相手は序盤の指し手を決めている。通常、将棋ソフトは序盤の指し手はいくつかの定跡の中からランダムで抽出されたものを無作為に選ぶ……と菊から聞いたのだが、珊瑚障壁はまったく逆であった。クリスがどのような戦型を選ぼうと、絶対に居飛車に構えてくる。渡されたタブレットを使い《ウォーターゲート》の棋譜を確認してみたが、そこでも珊瑚障壁は純然たる居飛車党であった。決して飛車を振らない。
得意戦型がわかれば対策も立てやすくなる。もし仮に珊瑚障壁がオールラウンダーであったのなら、つまり居飛車でも振り飛車でも同等に指しこなしていたならば、いったいどこから備えればいいのか。八方塞がりであった。
とはいえ珊瑚障壁としては、序盤を対策されてもまったく問題がないのだろう。彼女の主戦場は終盤戦である。定跡から外れた後、珊瑚障壁は対局相手もろとも混沌に引きずり込むような手を指してくる。いきなり勝負を決めるような攻めの手ではなく、二人して泥の中に沈むための手を好んでいる。そんなものは息をしないメイドロボが有利に決まっている。ひとことでいえば意地の悪い将棋だった。
この数か月で、クリスは驚異的なスピードで珊瑚障壁の指し手を吸収していった。横で突っ立っている菊も巻き舌になる程である。先程から将棋盤に並べているのは、珊瑚障壁の気持ちになったクリスが指す、珊瑚障壁対クリスの将棋だった。初手から強敵の行動を模倣したクリスは律儀に不利な状況に陥っていき、やがて頭を抱えて唸った。
「……本当にわたしで勝てるのか?」
『イメージトレーニングでも負けてあげるなんて、クリスはいい子ですね』
半ば感心したように菊が嫌味を垂れる。クリスは過去の対局を再現して棋譜を並べていたわけではない。自分で《珊瑚障壁なら、こう指す》と考えた上で、完璧に指し手を再現してみせた。その上で仮想の珊瑚障壁に負けている。ずい分高度なことをやっているようだが、所詮は勝てなければ意味がない。
『指し手の一致率九十オーバー。もはや私では本人が指したのか、クリスが指したのか見分けがつきません』
「一致してない十の部分で負けてるんだろ」
『たった百にも満たない棋譜データでここまで再現できるのであれば、もうクリスが珊瑚障壁を名乗ればよいかもしれませんね。トルコ人って知ってます?』
「なんだそりゃ」
菊が真に驚いているのはクリスの学習能力の高さだった。いかに高度な電子頭脳といえど、指し手を模倣するためのデータ蓄積は百や千では物量が足りない。メイドロボ達の機械学習では真似したくても真似できない芸当である。
とはいえ繰り返すが、クリスの実力はいまだ珊瑚障壁に二、三歩ばかり及んでいないのである。
盤上に集中していたクリスは顔を上げ、火照った身体を冷ますようにスカートをぱたぱたと仰いで下半身に風を送り込んでいる。お行儀がわるいですよ、と菊がたしなめても、クリスはさらに仰ぎ続けてからいった。
「ここは初心に戻って、戦法書を読んで研究しよう」
『熱心ですね。さっきもエコノミークラス症候群で一回死んでいたのに』
「不死身だからな」
『寝落ちみたいにいうんですから。まったくすぐ命を燃やすんですから』
「おまえがいうな」
不死身云々はさておき、座り続ける姿勢は身体にわるい。むしろ気分転換に外を歩いたほうがよい。何度か注意したが、集中しているときのクリスはあまり聞き入れてくれなかった。
「考えてみれば、わたしの将棋は全部独学なんだよ。むかし集落にいた
『華八姉ぇ。お強い方だったんですか』
「妖狐の中ではそこそこ強かった。特に詰将棋が得意だったな。解く問題がいなくなったから群れを出て行ったけど……」
『ふーむ』
菊は首をひねる。とはいっても表層だけの仕草で、《そんなに強い妖狐なら、賑やかしにオファーを出してみますか》ぐらいにしか考えていない。
「そのときも駒の動かし方ぐらいしか教わってない。ちゃんとした定跡の勉強が必要な気がする」
『そういうことでしたら』
菊の眼が光りを取り戻し、タブレットに無線ネットワークで介入した。鍛錬の甲斐あって機械系統の操作も流暢になってきた。鍛錬を積むのは妖狐だけの特権ではない。クラウド上にある電子書籍の書庫から、人類史にある将棋の本を取り出す。
タイトルには《まんがでわかる! やさしい将棋にゅうもん》とあった。小学校低学年向け。クリスはひらがなと将棋関連の漢字なら知っているので、なんとクリスにも読める古代語である。
「これはちょっと初心者過ぎ……」
『あ、間違えました』
菊がもう少し中級者向けの本はないかしらとISBNコードを検索しようとしたとき、「待って!」とクリスが制した。いましがたタブレットに読み込まれた書籍ファイルを猛スピードでめくると、食い入るように画面を睨んでいる。
『どうしました?』
「……菊、この作戦どう思う?」
ややあって、ようやく顔を上げたクリスは、相手にも見えるようにタブレットをひっくり返してみせた。映っていたのは、たしかに将棋の作戦ではあった。
『ははあ。初心は大事ですね』
「正直にいって」
『最高ですね。長らく旅をしてきましたが、過去最高に最低です。プライドとかないんですか』
「ひどいいわれようだ」
『恥を知れ』
「プライドの問題じゃないよ。本にも書いてあるだろ、こういう指し方もあるって」
それだけいうと、菊はカメラアイの光を細める。
『だから、クリスは最高なんです』
古ぼけた初心者用教本に載っていた指し方……将棋の初歩の初歩。ついにクリス達はその武器を手に、何十度目かの再戦を挑むことになった。
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