聖女の恋
塔の鐘が鳴り響く。
群青の空が徐々に明るみを帯びる。暁の空を飛ぶ白鳩が、窓の向こうを翔けていく。
塔のふもと、精緻だが質素な石造りの祈りの間には、白髪の少女が神に祈りを捧げていた。
やがて祈りを終えた少女は顔を上げる。
大窓から朝日が差し込み、神の意匠が浮き上がる様は、とても神秘的だった。
「おはようございます、聖女さま。朝餉の用意が出来ています」
大扉が開かれ、尼僧が静かに声をかける。
「ありがとう」
聖女と呼ばれた少女は、幼さの残る顔で笑いかけた。少女はそのまま尼僧に伴われ、塔の上の自室へと戻って行く。
「朝のお勤め、ご苦労様でした。今日は昼、夜のお祈り以外の予定はございませんのでゆっくりとお過ごしください」
「分かりました」
部屋の扉が閉まり、塔の階段を降りていく足音が遠のく。
静寂の中、パンとスープだけの簡素な食事を摂りながら、少女は窓の外を見つめた。装飾の施された石窓からは、石造りの町並みと、それを取り囲む山々が見える。
(街は今どんな様子なのかしら)
まだ十代も半ばである少女は、幼い頃この教会の聖女として招かれ、それからずっと教会の塔の上で過ごしている。
(外に出たいと言えばそうだけれど、このお勤めも私だから出来てること)
しかし外の様子は気になるとばかりに、窓の外に目を凝らす。
「今日も山の小屋で火が焚かれてる。あれは木こりかしら」
遠くの山並みに小指の爪ほどようやく見える、木造りの小屋。そして黒い煙。毎日毎日、同じ時間に煙が上がる。少女はその煙を見て外の世界を夢想するのが日課だった。
「木こりは毎日木を切って、炭を作り、町に売りに行く。木こりの人は町に行ける。いいなぁ…」
ささやかな嫉妬心に頬を膨らます。
しかしすぐ首を振り、邪な感情を振り払うと、少女はぼんやり煙を眺めて夢想を続けた。
「どんな方かしら。昨日読んだ本に出てきたような、朴訥で優しい人かもしれない。きっとそうだわ。ずっと山を降りないで、森で暮らしているの」
勉強をさぼって読んだ、本の物語。
朴訥で優しい木こりは道に迷い、やがて国境沿いで怪我に倒れる隣国の若者に出会う。故国と隣国は敵対関係にあり、若者は木こりに剣を向けるが、木こりは手当を申し出た。若者はその申し出を受けるが、手当てをしたのち木こりを刺す。
死の淵を彷徨う木こりだったがその優しさに女神が感涙し、命を助ける……というお話。
少女はその物語を思い返す。
そうだったらいい。そうでなくとも、きっと誰かが住む小屋なのだ。
「…そうだ、手紙を書いてみよう。今日は予定もないもの」
少女は早々に食事を終え、物書き用の開き机に座り、羽ペンをインクに浸す。
そしてなにも知らない、いるかも分からない相手に手紙を書き始めた。自分がどんな暮らしをしているのか……そして小屋の生活が気になっている……そんな他愛もない内容だった。
手紙を書き終えた少女は満足げにそれを読み返すと、大切そうに封筒にしまい封蝋で閉じた。塔を降り、外へと続く大扉を守る兵士が外にいるのを確認し、一番近い窓から身を乗り出す。
「ねぇ門番の方、ちょっといいですか?」
「聖女様! そんなに身を乗り出しては危ないです、今そちらに行きます」
赤い制服をまとった兵士が、聖女の姿を見て、慌てて窓の下へ向かう。
「ありがとう、ところであの向こうの山の、小屋に行く予定などはないですか?」
なんのことかと、少女が指差す方向を見、そして考えを巡らす。
「あの向こうの? …ああ、あそこの…そうですね、当番があるので近いうちに行くことになるかと」
「そうなんですね! 良ければ黒い煙が立つ山小屋の木こりにこの手紙を渡してくれませんか?」
「木こり…? 分かりました。探して見ます。確約はできませんが…」
「大丈夫です。これは私の自己満足なので。でもどうかよろしくお願いします」
聖女は楽しげに塔へと戻っていった。
兵士は小首を傾げ、手紙をしげしげと見つめ、懐に入れた。
「小屋の…木こり?」
木が生い茂り、昼間だというのに薄暗い森の中を隊列を組み進みながら、兵士は懐から出した手紙を見つめた。宛名は木こりさま、となっている。
「なんだその手紙?」
隣を歩いていた同僚が手紙を覗き込む。
「いや、聖女様がこの山小屋の木こりに渡してほしい、と。黒い煙の小屋…あの塔から見えるのはここくらいなんだが…」
「なんだ?木こりなんざいないぞ。ほらさっさと行って仕事を終わらすぞ」
「おう」
ざくざくと足をふみ鳴らし、兵士は小屋にたどり着く。小さくも大きくもない小屋を見上げ、傍に空いた黒い煙を出す大穴を見つめた。
「ここは敵の死体を焼く穴しかないんだがなぁ」
ヒトの形をしたヒトだったモノを焼きながら、もうもうと、炎を巻いて黒煙が上がる。
その煙は、遠くにある教会の塔よりも高く、高く巻き上がっていった。
或る国にて。 霧乃 @okitsune-0w0
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