「戦闘」
不意に高い処から飛んできた小さな石礫がヌエの後頭部を撃つ。
給水塔の上に隠れていたかまいたちの長による奇襲により、隙をついて衛生長は難を逃れた。
なんと出来過ぎの部隊だ、これは後で勲章を与えなくてはならぬ。
リーダーは素早くヌエに駆け寄ると蹴りで右手の銃を落とす。
ヌエはそれでも小さな微笑みを見せ、逆に拳で反撃をしてきた。
こうなると実際はヌエの方がやや優勢なのはわかっている。その上、あの頃よりもスピードが上がっている事がわかる。
しかし負けるわけにはいかない。
何度も相手の拳を交わし、攻撃を返そうとするがなかなか的確に「ハマらない」故に苛立ちが増して来る。顔面に拳を入れ、なんとかヌエのしていた半面のガスマスクを外すのが限界であった。ヌエは鼻血を拭いながらもこちらへの攻撃を止めなかった。
もどかしい、しかし焦ってはいけない。
衛生長はかまいたちの長に助けられ、給水塔の裏に隠れるのが見えた。かまいたちの長がリーダーの顔を伺いながら助けに入るタイミングを伺っている。
ヌエの体に一発強く蹴りを入れたがその時反動でふらついた。そこを鮮やかに反撃され、倒れ込んだ隙にヌエに逃げられた。
ご丁寧にリーダーの腹部と頭を蹴りつけてからヌエは逃げた。
笑っていた、あいつ。
ヌエは軽々と破れたフェンスを抜け、器用に縄を投げて外に飛び降りた。丁度「赤い紐」の無い方向だ。
かまいたちの長がそれを素早く追い掛け、視界から消えていった。 更にそれをカラスが追った。
「リーダー、応急手当てする」
小さい声でごめんね私のために、と続けながら衛生長の目はリーダーの目を見ない。
時間がない。
衛生長は救急箱を背中に背負い、ガスマスクを装着し、右手に支給された六四式ライフルを持って走り回っていたのだ。背中の救急箱には小さな鳥籠が下げられている。その中のカナリアは毒ガス対策のために戦場に駆り出されたのである。
「最悪の場合にいつも備えてるんだよ」
彼女は荷物が多い割に身軽だった。踊るようにして廃墟のガレキの狭間を歩き回って二号をはじめとした仲間達を助けたのだ。
子供の頃に足を怪我したと言っていたことがあるが、生まれつき運動神経もバランス感覚も良い。
廃墟となった団地の屋上、二人で死角に身を潜める。
「大丈夫だよリーダー、あんたのことはあたしが絶対死なせない」
流石に衛生部隊たる牛御前のトップだ、応急処置が素早く的確である。
捻挫した左足首をテーピング固定、左腕と脇腹の止血。
「傷はかすり傷程度だから大丈夫、心配なのは捻挫の方だけどこんだけ固めておけばリーダー、あんたの筋力と体力ならなんとかなる」
衛生長はリーダーのガスマスクを一旦外すと口の中に薬のようなものをひとつだけ突っ込む。錠剤ではない。ならいつも彼女の持ち歩いている飴玉かと思いきや、この味はそれですらない。舌触りとしてはツルツルとしている。サプリのカプセルのように感じた。
「ねえリーダーお願い、しばらく、三分間だけこれを口に含んだまま静かにしてて。三分経って動けるなら動いていいから。痛み止め」
衛生長はリーダーの頬の傷をそっと味わうようにして舐める。
「これくらいの傷なら舐めておけば治るよ」と言いながら、その目は珍しく笑っていない。
いつもヘラヘラのらりくらりと修羅場を潜り抜けて来た衛生長のそんな顔は滅多に見られるものではなかった。
「ごめん、本当にごめんね」
そう言って彼女はリーダーの左手首に縄をかけると、給水塔の柱に結びつけた。
もう一度だけ小さな声でごめんね、と言うと、衛生長は床に置いていたライフルに触れようとした。しかし寸出のところで手を止める。衛生長の指は一瞬だけ迷った後、リーダーのカバンを掴む。そして勝手に手榴弾を取り出した。
これは攻撃用ではなく、敵を全員眠らせる物だがまだ試作品であり実戦では一度も使っていなかった。
そんなものを戦闘の素人の衛生長に扱わせたくない。まさか人の言う事を真に受けて本当に手榴弾の演習をしていたとでも言うのか。
止めろ
そう言おうとしたが口が動かない。 衛生長の腕を掴もうとした。しかし彼女はそれを振り払った。空を切った右手は行先を無くした。
ヌエとかまいたちの長が消えて行ったフェンスの穴。
それに衛生長が走って近付いて行くのをぼんやり眺める。彼女の声にならない叫びが遠くから聞こえる銃の音にかき消される。
どこかで他の誰かも戦っている。なのになんで自分は今、身動きが取れないのだろう。
ノイズの中でリーダーは意識が僅かに途切れた。ああ、頭がぐらぐらする。
この時、自分が衛生長に何を飲まされたのか悟った。
……夢を見た。
あの薬のせいか。意識の底でそれに気が付いていたが、動けない。 もう遅い。
夢の中で空はうねり風が強く流れていく。そして彼女が繋いでいた手を放す。そして私の手はがむしゃらに空を切ると地面へと落下していくのだ。落下と共に全ての感覚が消えていく。
欲しい物は夢の中でも手に入らないのか。
子供の頃からそうだ。母親も私が必死に伸ばした手を振り払った。
あの子もそうだ。いつだって私が伸ばした手を皆最初は優しい顔して握り返して来るけれど、最後は残酷に振り払う。あの瞬間の絶望を誰もわかってくれない。わかってほしかった。
子供の頃、住んでいた村で爆弾事件があった。その時にバラバラになりかけていた家族が本当にバラバラになってしまったのだ。大きな怪我をした私を親は見放した。手に負えない、そう言って祖父母に押し付けてどこかに消えてしまったのだった。元から子供の事を愛していなかったのはわかってる。望まれずに生まれた子供。日々の些細な生活の中でそれには薄々気付いていた。怪我をしたことはただのきっかけにしか過ぎなかったのだ。
私は愛が欲しい。それだけ。
はじけるように目を覚ますと衛生長と天狗の部下が三人、自分を見下ろしていた。もう夜であり、空には無限の星が瞬いていた。部下が非常用のランタンで仄かに屋上を照らしていた。
「終わったよ」
弱い光の中に見える衛生長の笑顔。彼女の手はリーダーの頬に触れていた。暖かい。人の目がある時なら必ず振り払うが、今はその力がなかったのでされるがままだ。
「状況は」
掠れた声で聞くと、天狗のひとりが緊張した声で続く。
「敵は一名だけ自害したとの報告を受けていますがほぼ生け捕りにされ、公安に引き渡されました。ヌエは別の場所で『かまいたち』により捕えられ現在東京に輸送中。公安に連絡はついています。我々はリーダーを含めて負傷者七名、死者はゼロです。奇跡的に」
リーダーはゆっくり上半身を起こす。
「今、迎えが来るのを待っているところです」と部下が手を握って来た。無理をしないでくれ、という意志表示だろう。
ドアの開く音が聞こえた。そこに笑いながらやって来たのは九尾であった。
薄暗がりの中でよく目を凝らしてみると、右手にニッパーを持っている。九尾は左手に何故かメガネを持っていて、それはいつも二号が掛けている伊達メガネであった。どこかに落ちていたのだろうか。近づいて来る九尾の声は明るかった。
「爆弾処理も終わりましたぁ、見つけるの簡単だった。よく探して見たら一本だけ青い紐があってそれがビンゴ。まあ時間はぎりぎりだったけど走ったら間に合った」
これは急な戦いであり、死者をほぼ出さずに任務が終えられるとは思ってもいなかった。
私達は運が良いのだ。そうとしか言えない。しかし毎回運だけで戦えるだろうか。それは無理な話で、まだまだ鍛錬が足りていない。
硝煙の匂いは苦手で未だに慣れない。ケミカルの匂い。目の前にいた隊員達には「よくやった」とねぎらいの言葉を投げたが、本当は咳き込みそうだった。
自分の手でヌエを捕獲出来なかった事が悔しくて仕方がない。あと一歩だったのに。まだまだ自分は弱い。そういうことだ。
………高い場所は本当はとても苦手だ。
自害した男を最後に追い込んだのは衛生長であった事を知ったのは翌日である。
代表とリーダーによる面談を行い、一号に全て入力させ、状況を全て記録に残す事になったがこれは秘匿資料として扱われる。 あの図書室にすら収納されない。代表の手に寄って保管される最上級の秘匿資料だ。すなわち官憲の物になる、という事だ。
「あの男は屋上でハッパをやってた。あんな非常時なのに煙草を吸ってると思って背後から近づいたら匂いがおかしかった。足音で気付かれそうになったから慌てて攻撃を仕掛けた。男が倒れた隙に動きを奪うつもりで麻酔を吸わせたらあの男の体質に合わなかったみたいで、突然発狂して走り出して飛び降りたんだ」
その時打った麻酔が本当に麻酔だったのかについては不問に処された。
衛生長は「そのつもりだったけど急いで準備して現場に向かったし、状況が状況だったからもしかしたら使う薬を間違えたかもしれない」と悪びれなく答えた。
本来どんな時でも衛生長はそんなミスはしない。何より死体を調べればわかる。だがしかし敢えて「調べない」という事で全ての機関の結論が合意した。
男が大麻、及び特殊な合成麻薬を所持していた事は事実である。
それだけでこちらからすれば法から逸脱した「危険人物」であり「まだ少女である」衛生長の攻撃は正当防衛という名の「必要な攻撃」とみなされた。
ただ衛生長は建前として三日間の奉仕作業を命じられ、とある機関の掃除婦としてタダ働きをさせられた。規律を破った罰としては三本の指に入る程嫌われている作業であった。
戻って来た時、とても不貞腐れた顔でリーダーに反省文を押し付けて来た。
「怒ってよ、私の事もっと怒っていいんだよ」と衛生長は言ったが、リーダーは屋上でのあの出来事を思うと何も言えなかった。少し甘い対応をしてしまったとは思ったけれど。
衛生長は自分の、仲間の命を守るためなら手段は選ばない。
それは誰が何を言っても変わらないだろう。その限界を感じてしまったのであった。そして自分は何故か彼女に強く出る事が出来ない。それを改めて知ってしまった。 上に立つ人間だというのに、自分の心に隙がある事に気が付いてしまったのだ。
リーダーは代表と共にヌエの収監されている施設に行った。
マジックミラー越しに取調室を覗く。ヌエは何故かあちら側からは見えるはずのないこちら側をじっと見つめて何も言わずに笑っているだけであった。
これからヌエが何を話すかはわからない。何も話さないかもしれない。そしてどのような罪が下されるかさえわからない。しかしどうせなら、永久にリーダーの与り知らぬ場所に消えて欲しいと思う。生きていようと死んでいようとどちらでもいい。
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