「ヌエ」

九尾は最後にヌエと交わした会話を思い出そうとしている。


その時ヌエは車を運転していた。

武器を運ぶためだ。

九尾はその頃は需品科の新米で、卒業した先輩について仕事を覚えろと言われて簡単な輸送に立ち会った。

あの時、ヌエが左手を負傷していたのはよく覚えている。

自分は助手席に乗っていたからヌエの左手ばかり見ていた。

実際はヌエレベルの人間ならその程度の怪我で他の隊員のフォローなど必要なかった。しかしそこは部隊の新人教育、という体面の問題があった。形だけの帯同だったのだ。

当時ヌエはもう前線は退いていた。

九尾は不思議に思って負傷の理由を聞いた。それなのにヌエはただ不適に笑うだけで何も教えてくれなかった。

あの日を最後にヌエは運転手を辞め、完全にこの傭兵部隊の管轄から消え去った。

九尾は自分が余計な質問をしたせいだろうか、と思った。しかし他の隊員のヌエに対する評価を聞いて、それは考え過ぎだと悟った。

新人のくだらない質問などに振り回されるようなタマではないのだ、あのヌエという女は。

特に毒学に通じていた故に嘗ては「死の天使」と呼ばれたというヌエ。

本人は「毒キノコみたいなあだ名つけないで欲しい」とどこ吹く風だった。

私達は生きている。表向きには存在しないけれど生きている。

望んで、理由があってこの森に、歴史の陰にいる。本当に妖怪みたいなもんだ。

それは意志を以て選んだ事だ。

だけどふと、目が覚める。幾千の星が生まれて死ぬ。その事を知ってしまう。自分はなんなのか。その疑問に胸を打たれた時、目の前の世界が違う物に見えてしまう。

お前、九尾とか言ったか。なんでこの部隊に入隊した?

本当に国を守りたい、人の役に立ちたいと思ってやってきたのか?

むしろ嫌な事から逃げ出すために、森の奥にやって来たんじゃないのか。

理由など言えない。しかし皆理由があってここに来ている。

表向きは全寮制の女子校。結局は問題児が集まる傭兵部隊。学費が安いカラクリはそれだ。

なあ、愛ってなんなのか知ってるか?

そんなもの世界を拒絶した十代の小娘にわかるはずがない。仮にわかるとしたらとても偏った愛だけ。

あの時ヌエは言った。

愛は鎖のような、紐のような物だと。


あの日、宿舎に戻ると衛生兵二人が洗濯機の前であやとりをしていた。その事を不意に思い出す。

九尾はなんとなくその二人に「愛は紐なんだって」という話をした。ひとりは全く意味がわからなかったようで首を傾げてきょとんとしていて、もうひとりは「わかる気がする」と答えた。そして何回も「わかるなあ」と繰り返していた。

その「わかる」と答えた方は後に衛生長となってリーダーの寵愛を受けた。


それを知るのは九尾を含む一部の隊員だけである。

心さえあれば、女の口に戸を立てる事も可能なのである。簡単な事ではないが。理由を言えるとしたらやはりこの傭兵部隊は世間から弾かれた変わり者の集団であるから、としか。

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