英雄

赤屋いつき

英雄

対と普の国境には山脈がある。険しい岩壁の途中に、大きな河が流れ込んでいて、人々はそれを通路のように使っていた。と言っても、対から普へ向かう者もその逆も少ない。同盟国ではないので当然である。聞く話によると、普にはよく賊が押し入るという。対ではほとんど聞かない話だ。そんなことを思いながらルオは欠伸をした。そもそも非同盟国の対と普の国境に入国検査役など必要なのだろうか。行商人や外国のお偉いさんが通ることはあるが、そんなのは年に三回あるかどうかという頻度だ。四代続く由緒正しいこの家業を、ルオはあまり好まなかった。

そんなある日のこと、ルオはいつものように国境の河の目の前に腰掛け、来るとも知らぬ客人を待っていた。岩肌剥き出しの山を越える命知らずがいない限りは、この場所で待っていれば入国者を見逃すことはない。四代続く老舗の入国検査役の知恵というものだ。

ところが次の瞬間、その知恵はまったくもって約立たずになってしまった。

いつものように静かな河辺に、突如大きな水音が響いたのだ。うたた寝をしていたルオは思わずひっくり返りそうになった。寸でのところで耐え、音のした方を見ると、穏やかな水面に何かが浮かんでいる。岩でも落ちたのか。面倒だが確認しないわけにもいかず、ルオは裾をまくって河に踏み込んだ。通路に使っているだけあってこの辺りは底が浅く、流れも遅い。冷たさに歯を食いしばりながら塊に一歩ずつ近づいていく。やがてその輪郭がじわじわと見えてきたころ、ルオはあっと声をあげた。人だ。途端に血の気が引いていくのを感じた。恐る恐る近づいてみると、うつ伏せの背格好が男のものであること、その頭から真っ赤なものが流れ出て、水を汚していることがわかった。死んでいる。ルオは後ずさり、水の冷たさから逃げるように岸へと戻った。


「大理寺に……!」


一番近いのは対の王都か。そう考えて、ルオはふと思いとどまった。河に浮かぶ死体をもう一度見る。距離をとると、ちょうど死体の右上の岩壁が崩れているのがわかった。つまりあそこから落ちたということになる。そうすると、おかしなことになりはしないか。

意を決してルオは再び河に入った。流れが遅いとはいえ、河の営みによって水の色はすっかり透明に戻っている。男は相変わらずうつ伏せたまま、静かに揺れていた。

問題は男の服装にあった。この大陸の四国は非常に緊迫した状況が続いていて、いつ戦争が起こってもおかしくないのが現状だ。そのため、あらぬ誤解を避けるために人々はみな自国の色を身につける。歌(か)は赤、蒼(そう)は青、普(ふ)は白、対(たい)は黄。しかしこの男はそのどれも身につけていないのだ。黒ずくめの格好は、まるで人の目を避けるかのようだ。

男が対の者ならば、岩山を登るような無茶をする必要はない。正規のルートである河を越えれば良いだけだ。そもそも対から普へ向かう必要性もないだろう。

男が別国の者ならば、考えられるのは密入国だ。どこの国かはわからないが、たとえば難民というやつなら蒼へ向かうはずだ。あそこは治安が良く栄えていると、行商人から聞いたことがある。わざわざ対に侵入する理由などひとつしかない。戦争の前の下調べだ。少なくともルオにはそう思えた。

そして同時に、この現場はルオにとって非常にまずいものに思われた。他国の人間が密入国をしようと岩山を登っていたところ、滑落し死亡した。正真正銘、事故でしかない。だがそんなストーリーを、果たして大理寺が信じてくれるだろうか。ルオならば信じない。入国検査でトラブルが起きたのでは、と邪推するだろう。仮に大理寺が信用したとしても、身元が判明次第、男の祖国には連絡が行く。そのとき、果たして事故だと信じてくれるだろうか。密入国しようとした人間が死んだとなれば、疑われるのは第一発見者であるルオだろう。

一触即発のこのご時世に、他国で人が死んだとあっては、どこの国も黙っていまい。いよいよ戦争が始まってしまうかもしれない。もしかしたらこの男の仇討ちに、ルオが狙われる未来もありうるのだ。

どれだけの時間が経ったのか。真上にあった太陽がすっかり西に傾いたころ、ようやくルオは息をついた。熟考の結果、死体を隠すことに決めてからは早かった。河から引き上げた死体を、仕事場兼自宅の床下に埋める。万が一にも蘇生しないように、首と胴と腕と脚を切り離すのも忘れない。ルオは生まれて初めて、この生業に感謝した。河の向かいのこの家は辺りを一望できる。人が近づけばすぐにわかるのだ。何より慣れない斧の作業音も、こびりついた血の跡も、すべて河の水が隠してくれた。当然、行商人も外国のお偉いさんも現れることはなかった。


それから数ヶ月後、普ではひそやかにある噂が流れるようになった。何度も普を襲った国賊、その親玉がある日を境に忽然と姿を消してしまったのだという。最後に目撃されたのは、昔から対に渡る国境、その山脈のふもとで、人々は「虎に食べられたのだ」「いや河童にさらわれたのだろう」と笑っていた。

かくして普は本日も平和であった。

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英雄 赤屋いつき @gracia13

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