[27]

 真壁は時どき、自分が空っぽだと感じることがある。それは周期的に訪れる気分というより、もっと切実な飢えのようなものだ。

 日々事件に追われ、1つの事件が終わると、また次の事件がくる。自分の頭に蓄えた情報をそっくり流して、また次の新たな情報を詰め込んでいく作業の繰り返し。そこから自分自身の血肉になるものを見出し、学んでいくというのは、真壁には仕事の延長としか思えなかった。その割にほとんど個人生活を持たないような生き方をしているのは現実に忙し過ぎることもあるが、どうやって個人を生きればいいのか分からないからだ。

 真壁は東都大学の法医学訪ねる。机の上に積まれた書類の山の向こうから開口一番、岡島から「お疲れのようですな」と言われた。

「何十冊もの週刊誌とにらめっこしてたんで」

 真壁は手狭な応接セットのソファに腰を下ろした。

「それで、結果は?」

 岡島は飄々と首を横に振る。真壁の向かいにソファに座り、検案書を差し出す。

「あの指環が凶器だとは、特定できないねえ」

「指輪のサイズと傷口の大きさは?」

「合ってますが、この指輪でなければ出来ない傷だとは言えません」

「そうですか・・・」

「はい、先生。コーヒー」

 カップを2人に手渡してきたのは、奈緒子だった。真壁はひとまず幼馴染の存在に驚いたが、気を取り直して「おまえ今、仕事中じゃないのか?」と言った。

「いいの、この時間は非番だから」

 奈緒子はソファの空いているところに座る。

「奈緒子ちゃんには、空いてる時間に秘書みたいなことをしてもらってまして」

「はあ」

「そうだ、お茶菓子はどうです?」

 岡島はテーブルの上に置いたのは、クッキーが入った缶だった。

「マーちゃんも食べる?」

 奈緒子がクッキーを一つ取って齧り出す。

「いや、いい」

 岡島は話を続けた。

「その指輪の持ち主が犯人だという証拠がもう1つぐらい挙がったら、指輪はたしかに凶器であったと言えるかもしれません」

 岡島の言葉は当を得てはいたが、その『もう1つの証拠』が容易ではなかった。

 指輪の持ち主である沢村は薬物使用、器物損壊などで取調を受けていたが、まともな供述は取れていなかった。取調を担当した所轄の刑事課長によると、1日の半分はクスリをやっているらしい沢村はその間、何も覚えていないと供述するばかりだという。指輪についても自分が購入したと言ったそばから、誰かからもらったと供述する始末だった。指輪を渡された相手を問い質しても、答えが判然としない。十係の主任2人は《こんな奴にいつまでもかかずらっていられない》とばかりに、釈放するしかないと言っていた。

「先生、どうして指輪が凶器だと特定できないの?血痕とかないの?」

「血痕はあるんだけどね。ヒトの血だと断定できるほど、サンプルがないのです」

「それじゃあ、証拠にならない・・・」

 真壁は唸るように呟いた。コーヒーをひと口ふくむ。思わず「うまいな」と呟いた。

「奈緒子ちゃんはインスタントでも、淹れるのがうまいんですよ」岡島が言った。

 奈緒子がしたり顔で、口許を緩めている。幼馴染にこんな特技があったのか。地元で過ごした遠い過去を思い返そうとして、真壁はジャケットに入れていた携帯端末が振動していることに気づいた。2人に断って電話に出る。

「真壁、悪く思うなよ」

 相手は組織犯罪対策課の猪俣だった。昨夜、池袋の《ニューワールド企画》で大穴を当てた代わりに、捜査一課の穴を潰した男の声は上機嫌だった。

「代わりに、証拠写真全部見せてやる。そうそう、スプーンも回収したぞ。写真もバッチシある。取りにこいよ」

「容疑者全員に会わせてください。そうじゃないと、釣り合いません。今から行きます」

 真壁が携帯端末を閉じる。奈緒子が「もう行っちゃうの?」と言った。真壁は黙ってうなづいて席を立つ。奈緒子も腰を上げる。

 ふいに奈緒子が自分の首元に手を伸ばしてくる。真壁は戸惑った。

「何だ?」

「ネクタイが曲がってるの」

 首元がきゅっと締まる。奈緒子に「ありがとう」と礼を言い、真壁は大学を出た。

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