[32]
十係からは杉村、桜井、真壁の3人がビーコンを点けた捜査車両に乗って、金城麻紀の変死体が見つかった現場に向かった。
長崎一丁目の交差点から600メートルほど離れた路地に入る。3階建ての小さなマンションを遠巻きして、報道陣や野次馬の人垣が出来ていた。十係の3人は封鎖された立入禁止区域に入り、三階の一室に上がる。日暮れの冷えた空気に混じって、玄関先からは猛烈な腐臭が漂ってきていた。刑事も鑑識も鼻をマスクやハンカチで押さえている。
2DKの部屋は乱雑きわまりなかった。キッチンは汚れた食器と生ゴミで溢れ、リビングはありったけの衣類や布団が散らばっている。それらの間にテーブルやソファやベッドが覗いている。絨毯はタバコの吸殻、割箸、注射器、血痕、チリ紙、ゴミ、埃の乱舞だ。ひと目見たとき、死体がどこにあるのか分からなかったほどだった。
死体はベッドに寝ていた。掛け布団に半裸の女が埋まっている。検死官の背中越しに、真壁は遺体を観察した。皮膚は腐敗で黒ずみ、生前の顔貌も定かではない。爪はマニキュアが剥がれ、無残に汚れていた。
「この顔で、どうやって分かったんですか・・・」真壁は言った。
生前の金城麻紀が写っている写真は1枚もなかった。沢村によると、麻紀は写真を撮られるのをいつも避けていたという。先に現場に入っていた杉村が三つ折りの便箋を投げてよこした。『麻紀ちゃんへ』という書出しで始まり、便箋一枚の終わりに『母さんより』と書いてある。封筒はない。
「これだけですか」
「今のところはな」
「死因は・・・」
「解剖してみなければ分からんが、見たところ中毒死だな」検死官が応えた。「死後約1週間から10日」
十係の3人は鑑識の邪魔にならないように、麻紀の部屋を探した。諸井の殺害に関係する証拠を探すためだったが、現場を見に来た九係長と遭遇して部屋を追い出された。
真壁は玄関口で三和土の左側に置かれた靴箱の上に眼が留まった。白い壁紙の表面に薄い茶色をした小さな跡が4つ、かすかに残っている。大きさから見て、女の指のようだった。真壁は鑑識を呼ぶ。
「血のようだ」鑑識が言う。「かなり古い」
「部外者はとっとと出てけ!」九係長が怒鳴っていた。
「はいはい、出ますよ」
桜井に促されて、真壁は部屋を出た。そこは十係。転んでもタダでは起きない桜井がひそかに部屋から持ち出したのは、男物の黒革のジャケット1点。生地に微かではあるが、何かの染みが付着しているのが確認できた。
池袋南署の捜査本部に目白東署から各種報告書がファックスで届いたのは、午後8時過ぎだった。会議はそれらを延々と読み聞かされることで終始した。
金城麻紀の死因は1グラム以上のコカインを一度に静脈注射したことによる中毒死。防犯カメラや周囲の聞き込みでも不審な人物は認められず、薬物の過剰摂取による自殺とみられる。
マンションの持ち主は麻紀ではなかった。いくつもの又貸しを重ねて、今はアメリカ国籍の元英語教師が住んでいることになっていたが、所在は不明。元英語教師については、沢村はその男とも交情があったと述べた。男2人と麻紀は《ニューワールド企画》でコカインを通じて知り合ったという。
鑑識の報告は決定的だった。靴箱の上の壁紙に付着した血痕が諸井の血液型と一致し、血痕の中にかすかに残された指紋が麻紀のものと一致したこと。マンションに残された麻紀のマニキュアの成分も、諸井の頭部にあった創傷内部で検出されたものと一致した。部屋の洗面所と風呂場からは、沢村の指紋も出た。
麻紀は諸井をひっかいたことを覚えておらず、誰かひっかいたという意識もなかったのだろう。玄関の狭い三和土で靴を脱ぐ時、麻紀は無意識に片手を壁に当てた。その結果、壁紙に血痕が残された。
麻紀の部屋で見つかった黒革のジャケットを沢村に見せると、自分の物だと認めた。事件当夜も、そのジャケットを着ていたという。生地に着いた染みが諸井の血痕である可能性は高かった。あいまいな供述に終始しているが、結果的に殴った相手が死亡したことについて、沢村はしきりに「申し訳ない」と改悛の情を示した。
あとは送致するだけとなり、池袋南署の捜査本部は会議室で10本の一升瓶を空けてささやかな打ち上げをした。祝杯を重ねる捜査員たちの中に、真壁と津田の姿はなかった。
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