第5章

[28]

 2月8日は季節外れの陽気だった。

 この日は、十係の全員が中野に駆り出された。昨夜、板橋で現行犯逮捕された窃盗犯が中野東署管内の強盗殺人を自供したためだった。容疑者の取調や証拠整理をどうにか済ませると、真壁は桜井の音頭で他の同僚ともども近くの居酒屋で一杯ひっかけた。

 真壁は一足先に、居酒屋を出た。大井町のマンションへ帰る前に、その夜は行かなければならないところがあったからだ。遅刻だなと思いながら駅へ走り、六本木に向かった。

 待ち合わせに指定された六本木四丁目のダイニングバーの前に来ると、路地に見覚えのあるビードルが停まっていた。真壁がBGMにフュージョンが流れる薄暗い照明の店内に入ると、立ち飲み用テーブルのひとつから富樫が手を振った。

「遅くなったな」真壁は言った。

 テーブルの上には、ワインの瓶が3本。つまみはバゲット1本とフレッシュチーズ。富樫はコルク栓を抜いてグラスに注ぎ、真壁に手渡した。

「いや、こっちはもう飲んでたから」

 2人で乾杯した。包装紙でラッピングされた1本は奥さんへのプレゼントだという。久方ぶりに飲んだフルボディの濃厚な赤は、真壁の喉をひどく焼いた。富樫はノンアルコールビールだった。

「ところで、知り合いに聞いたんだが」富樫が言った。「城之内建設は、公共工事で入札価格よりさらに低い価格で最終的な請求額を出すことがあるんだと」

「一種の裏取引だな」

「あと、静岡の方で一度、体育館の手抜き工事が指摘されて、問題になる前にやり直したことがあったそうだ。その時は現場の方で手抜きがあったみたいだ」

 裏取引に、手抜き工事。真壁の心象では、城之内建設は真っ黒だ。

「横浜のマンションの方は?週刊新陽に書かれてた工事の件だが」

「城之内の社員を何人かつかまえて聞いたんだけどね」

「そんなことまでしたのか?」真壁は眼を丸くする。

 富樫は口角を緩めた。富樫とは大学の山岳部からの付き合いだったが、神戸の芦屋に生まれた資産家の息子がどうして全国紙の新聞記者になったのか。真壁は未だにその理由が分からないが、存外にその水が本人に合ったのかもしれない。

「あのマンションの工事で手抜きがあったことは社内でも全然知らされてなくて、現場と上だけで処理したらしい。それが週刊新陽に記事が出て、上はだいぶ慌てたとか」

「漏らしたのは、現場か?」

「現場はひどいらしいよ。労基も真っ青になるって」

「専務の奥寺は?」

「交際費が取り放題だったって噂。毎晩、銀座や赤坂を飲み歩いていたらしい」

「気になるのは、奥寺と飲んでた相手だな」

「そうだね」

 順当な線で考えれば、暴力団の幹部だろうか。

「城之内建設が池袋の事件とどう関係あるんだ?」富樫が切り返して訊いてくる。「あれは行きずりの犯行なんだろ?通り魔のような?」

 真壁はタバコに火を点ける。黙ったまま、さらに思考を進めてみる。

諸井が身に着けていた高級腕時計。そうした時計をやり取りするような付き合いがある相手はおのずと限られてくる。真壁の感覚では、城之内建設には影がありすぎる。何か不都合なことを諸井に握られていたとしても想像に難くない。

 強請かと、真壁は思った。強請は表沙汰に出来ない事情に絡んで起こる。その事情が私生活の話にしろ、会社の話にしろ、金が絡んでいるのはまず間違いない。

「なぁ、分かってるだろうが・・・」

 富樫は真壁の肩を、やさしく3回たたいた。記事にはしないという富樫なりの合図だったが、真壁が考えている線は記事にしようにも出来ないような、あやふやな内容だった。諸井が城之内建設を強請っていたのではないかというのは、真壁個人の不健全な想像でしかなかったし、それと諸井の殺害との関係はなおさら不明である。

「なぁ、山、やってるか?」富樫が言った。

 真壁は首を横に振り、富樫の手をぴしゃりと叩いた。

「そういうお前こそ、何だこの手は?ほとんど真っ白じゃないか」

 大学の山岳部に入っていた頃は2人とも休みが取れれば、身体をいじめるように必ずどこかの山に登っていた。

「5月の連休に穂高へ行かないか。2人で・・・」

「穂高のどこへ?」

「北鎌尾根から槍ヶ岳・・・前穂の北尾根でもいいな」

「北鎌か・・・」

「4月の土日にでも、南アルプスで足馴らしをしよう。休み、必ず取れよ」

「ああ」

 真壁は頷きながら、タバコを灰皿に押しつぶした。こうした口約束を繰り返してはまた破ることになるだろうな。真壁は漠然と、胸の奥でそう思った。

 2人で割り勘して、会計を済ませて店を出る。富樫が「おつり」と言って、別れ際にメモ用紙を1枚、真壁の掌に小銭と一緒にねじ込んだ。メモの内容は見なくても分かっていた。週刊新陽でマンションの手抜き工事を書いた記者の住所。

「いつも悪いな」

「柄にでもないこと言って」富樫は笑った。

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