[25]

 2月4日の夜。

 午前2時を回ったころだった。双眼鏡を覗いていた津田がふいに「あの車・・・」と呟いた。真壁が津田の視線と同じ方向に双眼鏡を向けると、保健所の方から黒いヴァンが1台やってきて、ビルから少し離れた路上で停車した。

 真壁は、傍らにいる薬物捜査第三係の今夜の張り込み要員に眼をやる。2人はカメラを置いたまま、子どもを私学へ入れたものかどうかという話に夢中だった。

「車が1台、着ましたが」真壁は声をかける。

 三係の1人が「ああ、分かってる」と答えると、もう1人がカメラを構え、シャッターを押し始める。「どういうことです」と言いかけようとした口を閉じて、嫌な予感を抱えつつ、真壁は双眼鏡に眼を戻す。

 明治通りの方から、2人の男がビルへ歩いてくる。双眼鏡に入ってきた顔はラテン系の外人が1人、もう1人が角刈りの男。ひと目で筋者とわかる。外人の方は、真壁にも記憶があった。猪俣から、コロンビアから来るヤクの運び屋だと聞かされていた。

「筋者のほうは誰です?」

「誠龍会の幹部」1人が応えた。「一番の大物。あれを待ってたんだ」と言うなり、無線に口を当てて「入ったぞ、準備しろ」と誰かと連絡を始める。真壁は呆れて首を振った。どうやら黒いヴァンには仲間が待機しているらしい。

「ちょっと待ってください・・・踏み込むんですか?」

「当たり前だろ。何、考えてやがる」

「それは困ります。カモが逃げる」

「どのカモだ?分かってるんなら、あとで引き取りにこい。全員押さえるから」

《こちらは準備完了。あと1分で踏み込む》無線が応える。

 真壁は「やめろ」と怒号が喉元から出かけたが、三係の2人は交信と撮影に忙しく、もう聞いていなかった。津田が真壁の肩をつついた。

「1人、出てきました・・・」

 雑居ビルの入口から、革のジャンパーを着た男が独りふらふらと出てくる。2時間ほど前に、ビルに入った男だった。これまで何度かビルに入る姿が見られている。写真から身元は判明していた。氏名は沢村壮也。元バンタム級ボクサーだが、数年前に傷害事件を起こして逮捕されていた。現在は無職。

 数秒見ているうちに、道路へ歩き出した沢村は突然、道端に置かれたバイク1台を蹴り倒した。そこから数歩進み、今度はスナックの看板を殴りつけた。素手の拳に見えたが、ガンと響いた音の中に金属どうしがぶつかり合う音が混じっていた。もう一度、沢村は看板を殴った。金属質の音が耳を衝いた。

 真壁はふいに、諸井の死体検案書に記された一文が脳裏によみがえる。

『顔面の創傷は挫滅が著しいことから、人間の拳ではなく先端の尖った物体で殴られたことによる』

 気が付いた時には、真壁はもう腰を上げていた。屋上から見下ろすと、看板を3発ほど殴った沢村は、またふらふらと駅の方へ歩いていく。

 真壁が階段を急いで駆け降りると、津田があたふたとついてくる。ビルの裏口から駅の方向へ走り出す。沢村の後ろ姿が明治通りの信号で立ち止まっているのが見えた。

 真壁の耳に、看板を殴ったときの金属音が響いていた。沢村は手に何かを握っている。金属製の頑丈な指輪をしているか。

 20メートルほど一気に走り、沢村を両側から追い越して行く手をふさいだ。真壁と津田は飛び出してくる拳を警戒して素早く身構えた。

「おい、兄さん。ちょっと手を見せてくれるか」真壁は言った。

 沢村は垂れ下がる瞼の隙間から声のする方を凝視したが、眼の前にいる男ふたりの姿は像を結ばなかったようだ。そのまま前へ進み、突然、振りかざした手を真壁にがっしりとつかまれた。

 真壁がつかんだ右手首の先の拳に、直径1・5センチの金属の彫物が突き出した指輪が光っていた。

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