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「もう1軒だけ!もう1軒行こう!」

 岡島に連れられて、三次会で入った店はイタリアン・レストランだった。メニューを読ませるつもりのないような暗い照明の店内は相変わらず酔客だらけで、真壁は奈緒子にねだられて、ひとしきり大学生活の話をしていた。

 山岳部に入ったこと。夏の夜中に大学に入ろうとして、日焼けして真っ黒になった顔と学生証の写真が違うと言われて、警備員に泥棒と思われた話をすると、奈緒子は高い声で笑った。今は法学部で受けた授業のひとつを思い出しながら話し始めた。

「法医学の授業は苦手だったな」真壁が言った。

 奈緒子が「どうして?」と聞いてくる。

「オレの大学では法医学の授業が2限目にあって・・・2限目は昼の前だろ?授業でコロシやら火事やらで損傷した人体のえぐいスライドを散々見せられた後、食堂に行っても食欲が全然なくて。同じ授業を受けた後で、肉豆腐が喰える奴の神経がわからなかった」

「どうして、全然平気じゃん」

「いや、ナオ。看護師だからって・・・」

 岡島が2人の会話を聞いて、笑い出している。

「真壁さんは意外に、繊細なんですよ。奈緒子さん」

「ふーん、変なの」

 安い赤ワインをひと口含んで、奈緒子は話題を変える。

「アタシ、びっくりしたんだから。マーちゃんが刑事になったなんて。ねぇ、どうして?やっぱりお祖父さんに憧れて?」

「さあな」

 奈緒子は「むう」とふくれっ面だ。

「マーちゃんって、昔っからそうだよね」

「何が?」

「そうやって全部、隠してる」

「隠してるって・・・」真壁は苦笑を浮かべた。

 奈緒子の幼馴染は子どもの頃からひどく老成した口をきいたものだが、実の両親は分からず、知っている家族は祖父だけという複雑な生立ちを抱えている。その祖父についても、職業が警察官だったということぐらいしか分かっていない。それ故なのか、奈緒子には幼馴染がその本心を明かしたことはほとんど無いように思えた。

 真壁の口から欠伸が漏れ、眼に涙が滲む。時刻は午前一時半を回っている。

「あは、大あくび」

 奈緒子が笑う。からかわれた苦い思い出がありながらも長い付き合いがあったのは、奈緒子がよく笑うからだった。真壁自身がめったに笑わない人間だからこそ、どこかで波長が合うのかも知れない。

 閉店でレストランを追い出されると、酔客で賑わう通りも人けが絶えていた。終電は無くなり、三次会の参加者たちはタクシーを拾おうと、中原街道の交差点に立っていた。信号が変わり、岡島や学生たちが先に歩き出す。真壁に寄りかかって寝ていた奈緒子が背中から路上へ滑り落ちた。

「・・・ナオ、何やってんだぁ」

 真壁がその場に膝をつくと、奈緒子の腕に首を回して抱き起こす。

「ほら、起きろ。この酔っ払いめ・・・」

「マーちゃん」

「何だ?」

「どうして、刑事さんを続けてるの?」

 真壁はとっさに返事が出なかった。

「そうだな、何でだろうな・・・」

 時どき、真壁は自分が空っぽだと感じることがある。それは、周期的に訪れる気分の起伏というより、もっと切実な飢えのようなものだ。

 日々事件に追われ、ひとつの事件が終わると、また次の事件がくる。それは自分の頭に蓄えた情報をそっくり流して、また次の新たな情報を詰め込んでいく繰り返しだが、そこから自分自身の血肉になるものを見出し、学んでいくというのは、真壁には仕事の延長としか思えず、充足感などない。そのくせ、ほとんど個人生活を持たないような生き方をしているのは、現実に忙し過ぎるという理由ではなく、どうやって個人を生きればいいのか分からないからだ。

「マーちゃんにも、判ンないことがあるんだ」

 奈緒子が身体を斜めにして、真壁の顔を覗き込んだ。

「判らないことだらけさ・・・何もかもな」

 真壁は寂しそうな微笑を浮かべた。店の暖房に当てられた頬に寒さが滲み、傍らに立つ奈緒子の温もりがたまらなく愛おしく思えた。こんな時間も悪くないな。真壁は漠然とそう思った。

「オーイ、そこのカップル!そんなとこで何やってるんですか!」

 岡島の大声で、真壁は顔を上げる。岡島と学生たちが対岸の歩道でこちらに手を振っていた。真壁は奈緒子を起こし、信号が点滅する横断歩道を走り始めた。

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