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「なぁに、じろじろ見てるのよ」

 真壁の隣に座る女がそう言いながら、真壁のシャツを強く引っ張った。

 ジーンズの腰からシャツの裾がはみ出した。わざわざベルトを外してシャツをたくし込むのも面倒になり、ついでに全部をベルトの上に引っ張り出した。

 その仕草を見ていた女が快活な声を上げて賑やかに笑った。

 L字型のカウンターがあるだけの屋台は客が5人も入れば一杯になるほど手狭だった。防寒用の透明ビニールの内側はおでんの鍋から湯気が立ち込め、客が笑い声を上げている。騒然とした店の中で、真壁は声を張った。

「飲みすぎじゃないのか」

「何言ってるの?明日は非番なの。それより、こんな再会、乾杯しないでどうするの?ほら岡島先生、乾杯しましょ!カンパーイ!」

 岡島や一緒にいる学生も、女の音頭で「カンパーイ!」と声を上げる。もう何度目かの乾杯か数えるのも野暮のように思えた。木製のカウンターの上に空になった日本酒の熱燗が数本。岡島が酒臭い息を吐きながら、ニヤニヤ笑う。

「いやあ、まさか奈緒子ちゃんの幼馴染が真壁さんだったとはねえ」

 2人の関係は一般的に言えば幼馴染になるだろうが、真壁自身は腐れ縁だと思っていた。石崎奈緒子とは2人の地元、新潟で実家が隣同士だった。小学校から高校まで同じ学校に通い、周囲から許婚だと散々からかわれたのは苦い思い出だった。

 再会は偶然だった。真壁が大学の食堂に顔を出したとき、歓迎会はお開きになっていた。すでに酔いが回って赤い顔をした岡島が「本日のスペシャルゲスト」と言って、食堂にいた法医学教室の学生や大学の事務員、数名の看護師らに真壁を紹介した。看護師の1人が声を上げる。

「マーちゃんじゃない!」

 思わぬ声の主に、真壁は茫然とその場に立ち尽くした。岡島は真壁の驚いた表情を見て「これはもう二次会は決定だね」と満面の笑みを浮かべて言った。

 二次会の参加者たちは肩を並べて『旗の台東口通』と看板のかかる商店街に入った。パブや小料理屋がひしめく駅前のアーケードは明かりが輝きを増して見える。いま真壁たちが入っているのは、雑居ビルから張り出している屋台だった。

「何食べる?」奈緒子が言った。

 カウンターの隅に貼られた紙のメニューを見やり、真壁は「大根」とだけ答えた。奈緒子がカウンターの中にいる老店主に大根を注文する。奈緒子がお猪口を渡して日本酒を注ごうとしたが、真壁は「仕事中だから」と言って断る。

「ねえ、今どんな仕事してるの?こんな時間まで残業?」

「そんなとこだ」

「そんなこと言って。嘘が下手ですね」岡島が笑い出しながら言った。「こんな時間まで、事件の捜査だったんですか、真壁刑事」

「事件?捜査?」

「真壁さんは警視庁の刑事なんですよ」

 ひとしきり奈緒子が驚いた声を上げる。高い金属的な耳に障る声だった。また全員で乾杯を上げる。真壁は「静かに」と言う風に、口に指を1本当てた。

 奈緒子が興味津々に訊いてくる。

「この近くで起こったの?どんな事件?」

 真壁は苦笑を浮かべた。店主から大根の関東煮を受け取る。

「新聞読めば分かる」

 岡島が助け舟を出す。

「池袋のあの事件は・・・」

「池袋?あの、サラリーマンの人が殺されたって事件?マーちゃんが捜査してるの?」

「岡島先生・・・」真壁は低い声を出した。こんな屋台でも事件の話はご法度だが、酩酊した岡島にはどこ吹く風のようで、いつになく饒舌だった。

「犯人の目星はまだついてないでしょう?」

「ええ」

 充分に煮えて柔らかくなった大根を箸で切り分け、口に運ぶ。

「犯人が誰かわからなくとも、その行動はある程度まで予測することはできます。犯人は被害者にあれだけの傷を与えてるのだから、当然、返り血を浴びてるはずです」

 真壁は黙ったままうなづいた。頬がせわしなく動いている。口に入れた大根が熱くて答えられなかったようだ。

「犯人は血の付いた衣類をどうしたと思います?」

「着替えるしかないと思うけど」奈緒子が口をはさむ。

「そうです。じゃあ、どこで着替えますか?」

「駅やコンビニのトイレ、ホテル、ネカフェ・・・」

「知り合いの家か、アパートか」岡島が言った。

 岡島が言外に示したのは、犯人に協力した者がいたのではないかという点だった。犯人が血の付いた衣類を着たまま、人目につきやすい駅やコンビニなどのトイレに入って着替えたとは考えにくい。何者かが犯人に衣類を着替える場所を提供した。その何者かは血の付いた衣類を処分したかもしれない。

 これまでの捜査で考慮されていなかった点かもしれない。それを認めるのはやぶさかではなかった。冷えたウーロン茶で大根を喉に流し込んで、真壁は素直に岡島に頭を下げる。

「調べてみる価値はあると思います」

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