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 諸井の妻である絵里は、年齢が40ぐらい。色白の女で、目鼻立ちや口許は気の強そうな印象だった。くせ気のない髪を、肩へ下ろしている。身なりは普通だが、平凡な家庭生活でいつの間にか失せてしまっているはずの色香が、どこかに残っている。

 絵里は現れたときから顔をひきつらせていたが、年中冷房の効いた地下の安置室で、遺体を見るやいなや「いや!」と叫んで後ろを向き、床にしゃがみこんでしまった。恐怖か何かで眼を見開き、肩で息をしている。

 絵里の代わりに、被害者の父親が怖々とした態度で遺体の顔を覗いた。すぐに目を逸らせた後で、小声で「邦雄です」と答えた。

 父親の剛は齢70過ぎで、いかにも鈍そうだった。少し呆けているのか、そわそわと揉み手をしながら、床に座り込んだ嫁をいたわるでもなく、息子の変わりはてた姿に悲嘆するでもなく、ひたすら居心地悪そうにつっ立っているだけだ。

「どうも、ご苦労さまでした。外へどうぞ」

「あの・・・」父親が言った。「遺体の引き取りは、会社の方が手配をしてくれるはずなんですが」

「これから、大学の方で司法解剖しますので、それからです」

 真壁は2人をせき立てて安置室を出た。

 会議室の椅子に向かい合って座る。絵里はぶるぶる震えて強張っていた。すすり泣いていたと思うと、今度は目が据わり、「信じられません、信じられません」と繰り返した。絵里の隣で、老父の方は肩を落としてぼんやりしている。

 1メートル離れた別の机で、津田が備品のノートPCを広げている。キーボートに手を置き、黙々と待っていた。

 真壁は形式通りに結婚歴、家族構成、被害者の日常生活などについて尋ねたが、なかなか答えが返ってこない。

 遺族の感情にゆっくり付き合っている時間はないのだが、真壁は辛抱強く待った。

 机には、遺留品が番号のついたビニール袋に収められて、並んでいる。シェーバーやハンカチ、財布、ネクタイ、時計、携帯電話、ワイシャツ、コンドームなどだ。カバンは、傷や付着物の検査のために本庁の鑑識の方へ行ってしまっていた。

「中学生になる息子と娘がおりまして」老父がそんな話を呟く。

「はあ」真壁は相槌を打つ。

「子どもたちにはまだ言ってません。試験なんですよ、今・・・」

「はあ」

「邦雄は真面目しか取柄のない子でした。わし譲りのところがあって・・・真面目に今日までやってきたんですよ。不器用なんで、出世は遅い方でしたが、愚痴も言わず黙々と働いて、わたしの面倒まで見てくれてたんですよ。今どき、いい息子でした・・・」

 父親の眼には、コンドームは入らなかったのだろう。ともかく、いい息子だったかもしれないが、絵里にとっていい亭主だったかどうかは分からない。その絵里は肯定も否定もせず、「信じられません」と呟くだけだ。その語調が、少しずつ虚ろになってきている。

「あのう・・・」父親は言いにくそうに真壁の顔を窺った。「邦雄は殺されたということでしょうか?」

「それはまだ分かりません。殴られるか蹴られるかしたのは確かですが」

「しかし、あの子がそんな・・・」

「東京では、いろいろと物騒なことも起こりますので」

「お金を持ってるわけでもないし、人さまに恨まれるような子でもないし、なんで殺されたのでしょう・・・」

「はあ・・・全力で捜査はします。奥さんの方にお聞きしたいのですが、旦那さんが、おとついお出かけになるときの様子に、何か変わった点はありませんでしたか?」

 絵里は首だけ横に振った。

「クリーニングされたワイシャツとか、ネクタイは奥さんが用意なさったんですか?」

「あれはいつも自分でなんでもやってしまう子でした」老父が代わりに応える。「なにせ、絵里さんは勤めてますし、子ども2人は何かと手のかかる時期なもんで、邦雄は皿洗いも自分でするような、優しい子でした・・・」

 息子に老後の面倒を見てもらっている男の心境はこんなものなのか。真壁には分からなかった。教会が運営する孤児院で育った真壁は、本当の両親を知らない。6歳のときに自分を引き取ってくれた里親は新潟でしがない外勤警察官をしていた父が50代半ばで早世し、母もすでに亡いから、真壁には面倒を見る親はいない。

 さらに遺留品について尋ねると、携帯電話は現場に残されていた1台のみ。時計は半年ほど前、諸井自身が夏のボーナスで買った中古品ということだった。

「奥さん、立ち入ったことをお聞きして申し訳ないです。ご主人は東京出張を始めて10年以上ですが、東京に特定の女性がいるような感じを持たれたことはありますか」

 絵里はギクリとしたように目を見開き、老父と真壁を見やり、口許をひきつらせた。

「邦雄に限ってそんな・・・」老父が言った。

「すみません。奥さんにお聞きしてます」

「知りません」絵里は低く呟いた。

「出張から帰って来られたときに、出かける前と比べて変化はありませんでしたか」

「いいえ」

「女性からの手紙、電話などは」

 絵里は強く首を横に振り、「いいえ」と呟く。

「ご主人の机の引き出し、個人的な収納場所はありますか」

「いいえ。主人は、家と会社の往復だけの人生でした。お酒も少ししか飲めなかったし、タバコもゴルフもパチンコも麻雀もしませんでした」

「ご自宅の方で、週刊誌をお読みになることはありましたか」

 絵里と老父は揃って首を横に振った。普段、週刊誌を読まないガイ者が事件当夜に週刊誌をカバンに入れていたのは、注目すべき事項ではあった。

 津田がノートPCでタイプした供述調書を、真壁が淡々と読み上げて聞かせる。その後、絵里が調書に署名捺印し、聴取は1時間足らずで終わった。

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