[7]
真壁も津田も足元は革靴だったが、靴音はない。代わりに未だ明けない夜陰の物音が鋭敏に身体に伝わってくる。
「あの・・・」津田がおずおずと声をかける。
真壁は指一本、自分の口に当てて『静かに』と示した。
建物の静寂には、それなりの物音が必ずひそんでいる。建物に通っている電気のかすかな唸り。地下の下水道の音。それらを貫いて、彼方から届いてくる音もある。24時間絶えることのない都市の物音だ。車や電車の騒音は雪のせいでいくらか遠く聞こえる。人間の立てる喧騒は未だない。
空気と街の臭気は、今朝は雪に吸い込まれてしまったかのようだ。ガソリン、調理油、埃とゴミとコンクリート、濃厚な人間の体臭、整髪料、化粧品。早朝の一時、それらの臭気が薄れて、木と土の臭いがわずかに感じられた。
眠気が耐え難くなってきた。真壁は路傍のゴミ箱に腰を下ろす。眼を上げると、遠くにサンシャインシティの灯火が見えた。ジャケットからタバコを取り出し、箱を振って1本だけ口にくわえる。津田にタバコの箱を振って見せた。
「吸うか?」
「いえ、僕は吸わないです」
「そうか」と呟き、マッチで火を付ける。「この辺の地理、分かるか?」
津田は首を横に振る。
「適当に歩いてみるか」
ボタン雪に包まれたビルの谷間を、2人はゆっくりと歩を進めた。どちらの眼も休みなく四方へ走り続ける。頭の雪を手で払いながらの朝の散歩だった。
学習院の近くまで進む。出会った人間は1人。ベンチに坐っていたその男は真壁たちの姿を見るやいなや、やはり走り出した。また真壁が走る。
「止まれ!」
今度は逃げられた。夜目に顔貌までは定かではないが、足が長く腰が大きい体躯は日本人ではなかった。
また東口の前に来る。時刻は午前6時半。まだ暗い。電車の音が響いている。現場近くの道端で散らかったゴミを拾い、鑑識に回すべき資料かどうか確かめてから捨てる。真壁がプラスチック製の小さなスプーンを1つ拾った。津田はビニール袋を拾い、袋を開いて臭いをかぎ、ゴホゴホと咳き込んだ。
真壁はスプーン1つ、手にちょっと辺りを見回す。アイスかプリンの空き容器が落ちていないかと思ったが、容器らしき物は何も落ちていなかった。近くにはゴミ箱もない。スプーン1つどうということはないが、真壁はそれをハンカチに包んでポケットに入れた。
真壁と津田はさらに2時間歩いた。2回往復して午前7時半に現場に戻った。すでにどんよりと明けた空に、雪がかかって灰色だ。
通勤ラッシュが始まっている。現場にはチョークの跡が残っているだけで、立ち番の巡査が1人立っている。
真壁がコンビニで買ってきたパンと牛乳を西口交番の奥の休憩室で食べた。さっさとパン1つ食べてしまい、真壁はタバコを吸った。津田は食欲がないのか、小さな口でぼそぼそ食っている。
真壁の頭は未だ空っぽだった。千の死体には千の事情があるといっても、今の段階で考えることは何もなかった。あと半時間ほどで始まる初回の捜査会議でも、たぶん状況は変わらないだろう。解剖の結果が出て聞き込みの成果が少し上がってくる今夜には、少しは進展もあるだろう。
「おい、津田」年配の巡査が顔を覗かせる。「お前、署に戻れ」
「何でですか?」
「本部に人手が足らんらしい。しっかりやれよ」
津田が青い顔になる。真壁はタバコを灰皿に押し潰して尋ねた。
「巡査になったの、いつだ?」
「今年の春です」
壁にかけられた時計が午前8時を示していた。真壁は腰を上げた。
「署に戻ったら、制服は脱げよ」
第1回目の捜査会議は、まず本部長となる署長の訓示、もし出てくるなら本庁の捜査一課長の訓示が行われる。次に所轄の刑事課長か代行検視をした者による事件の概要報告、鑑識の報告と続き、本庁の係長が捜査員の頭数と経験をざっと見積もって、班分けを行って終了となる。
構成はカン(敷鑑)に2組。地どりに7、8組。ゾウ(贓品捜査)はゼロ。肩書の順位からしてカンを担当するはずの馬場が地どりに回った。そのお蔭で、真壁は津田と組んでカンに回された。
真壁は仏頂面を浮かべた。現場の状況は流しの犯行を示唆している。ならば、被害者の周辺を洗ったところで何も出てこないはずだ。馬場が誰かがやらなければならない無駄働きを自分に押しつけてきたのだ。
真壁は隣の席に座る津田を見た。真新しいスーツを着て、緊張で身体を固くしている。
「今夜、何か用事でもあるのか?」と真壁は声をかけた。
「はっ・・・いえ、特に何も・・・」
「なら、付き合え」
津田は怪訝そうな表情を浮かべた。残りは地どり。池袋界隈一帯の聞き込み。
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