[5]
午前4時56分、ビーコン付きのワンボックスカーが現場に到着した。鑑識の係員が3名降りてくる。鑑識の主任がぶつぶつ言いながら、現場の人垣をかきわけた。
「なんて夜だ。雪は降るわ、コロシは重なるわ、人はいないわ・・・さあ、みんなどけ、どけ!」
鑑識の係員がカメラのフラッシュをたき始める。
雪を頭と肩に載せたまま、トレンチコートを着た男がせかせかと交差点を渡って走ってくる。十係の2人目の主任、36歳の杉村哲平警部補。馬場から軽く説明を受ける。
「ガイ者が京都から来たサラリーマン?何も盗られてない?死後、何時間ぐらいだ?殴られて、ひっくり返ってそのままあの世行きか」
「あと、鼻が無い」
「くそ、世も末だぞ」
杉村はコートの裾を股にはさんで屈み込むやいなや、さっとシートをめくり、損傷が著しい遺体に眼を丸くした。それから手早くカバンの中身をあらためる。コンドームの袋をつまんで渋い表情を浮かべ、それを再びカバンに放り込む。
「それで?」
杉村は立ち上がった。
「それだけ」と真壁。
「まあ、流しだろうな」と馬場。
「そういうこと」と桜井は唾を吐く。
「足取りでも洗うか」と田淵。
「ああ、くそ。係長、遅いな」清宮が足踏みをしている。話し声はみな低い。
濡れた路面を這っている鑑識が「何もないぞ、この様子だと」とぼやいた。
「とにかく死ぬ理由のないサラリーマンひとり死んだんだ。まずは、解剖。どのみち傷害致死か殺人だ」杉村はそう言いつつ自ら大欠伸を洩らした後、すぐさま所轄の捜査幹部の方へ片手を挙げた。「地検と京都の家への連絡は?」
「これからだ」と刑事課長。
「解剖するから、許可状の手配を頼みます。遺体は、うちの係長が来たらすぐお宅の署へ移します。捜査本部作るから、会議室か講堂、空けといて下さい。本部は8時半招集」
「何人ぐらい出す?」
「うちが7人。機捜隊からは・・・」
「3人」真壁は言った。「あとは鑑識」
「まあ、そんなところだな。分かった」
池袋南署の幹部は連絡と称して、やれやれという顔で先に引き揚げていった。
階段の周辺で、地面に這いつくばっていた鑑識がぶつぶつ呟いていた。
「吸殻が10個に、紙クズがいっぱい。見事なもんだ」
「こっちは割箸1本に、プラスチックのスプーンが1つ」ともう1人の鑑識。「靴痕跡は無理だな」
「ガイシャの携帯、落ちてないですか?」真壁は尋ねた。
「ない」
「よく探してください」
「首の爪痕は女だな」杉村が口をはさんだ。「だが、男の顔をあれだけひどく殴ったのは、女だとは思えん。鼻を喰ったのもそうだ。男もいたんだろうよ」
「女が引っ掻く。男が殴る。宇宙人が鼻を喰う。よく出来てら」桜井が言った。「それにしても、よく降りやがるな、この雪・・・!」
桜井は低く唸って、雪雲に拳をひとつふたつ繰り出す身振りをした。
誰もが気落ち半分、苛立っていた。事件となれば、眠気も疲労もとりあえず関係ない。だが、今の気分は出足を挫かれたマラソンランナーのようなものだった。杉村が指折り数える。
「ともかく、ガイシャの足取り。次に昨夜から、この現場周辺にいた者の割り出し」
「あと、ガイシャの宿泊先も」真壁が言った。
「ラブホでも当たるか」清宮が欠伸交じりの声を出す。
「鼻を喰った奴だか犬を探さなきゃな」馬場が背伸びをする。「俺たちの仕事だ。ありがたく思おうぜ」
現場を見れば、これがほぼ行きずりの殺人に近いことは見当がついた。何らかの動機がある場合、手間をかけてこれだけ痛めつけるヒマがあれば、もっと有効な方法を取る。第一、警察署が眼と鼻の先にあるこんな場所は選ばない。金目当てでも同じだ。要するに、殺される理由のない男が殺す理由のない何者かと遭遇し、何かの拍子で衝突が起こり、加害者はそのままどこかへ消えてしまったのだ。現場に残されたのは、遺体1つ。
こういうのは、捜査する側には一番難渋するケースだった。怨恨その他のたどれる線がない。どこからか目撃者が現れるか、近くで同一犯による似たような事件が起こるか、犯人が自首してくるか。いずれの幸運でもないかぎり、今分かっているのは、延々と歩き回る日々がこれから何十日も続くだろうということだけだ。
「それにしても、静かだな」吉岡が呟いた。
たしかに、新聞記者ひとり現れない。見慣れたピンクのビードルも見えない。普通は殺人事件発生となれば、本庁から捜査一課長、管理官も現場へ姿を見せるはずだ。今日は夜中に春日の現場に出向いて、もうたくさんだということだろう。
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