第1章

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 品川区旗の台。

 曇天の下、寒風にかすむ東都大学付属病院のビルが灯台のように輝いている。

 真壁仁は入院棟の地下にある法医学教室にいた。腕時計を見ると、午前2時半を過ぎた頃だった。小さなテーブルをはさんで、准教授の岡島進がボールペンでメモに何やら書きつけ、真壁に見せてくる。

「こういうふうに・・・車輪でせん断力が働いたんですよ」岡島が言った。「だから、遺体では脳みそがグッチャと・・・」

 真壁は喉に苦味がこみ上げてくるのを感じて、熱い缶コーヒーを流し込んでどうにか抑える。そんな真壁の様子を、岡島は楽しんでいるように言う。

「意外に繊細なんですね」

「晩飯が焼肉でしてね・・・」真壁は苦笑を浮かべた。

 昨日の夜、中野で発生した強盗殺人事件の捜査会議の後、十係の同僚と焼肉を食べた帰りに、真壁はたまたま五反田で人身事故に遭った。事故の処理に来た所轄の巡査が新米で、その対応ぶりを気の毒に思い、東都大の解剖室まで付き添ってやったのだった。その人身事故の処理もついさっき終えたばかりだった。

「ところで、来週の土曜日、あいてますか?」岡島は聞いた。

「あー・・・分からないんですよ」

「たった1週間先じゃないですか」

「本庁勤めですからね」

 真壁は中野の焼肉屋で十係の同僚と飲んでいたとき、同僚が冗談のつもりで携帯端末の電卓を使って計算したら、恐ろしい数字が出たことを思い出していた。

 殺人・傷害などを扱う警視庁捜査一課の第二~第四強行犯捜査班には十二の殺人犯捜査係があり、凶悪な事案だけで平均年100件の案件を扱っている。1件の捜査にかかる日数はまちまちだが、短めに見積もって30日とすると、捜査全体の日数は合計3000日。それを12で割ると1つの係の割り当ては250日。そこに年平均300件の強盗や殺人未遂などの事案を加えると、結局は1000日以上必要になってくる。つまり1日で3日分の給料を貰い、3日分働かなければ、事件は片づかない計算になる。しかも、最低でだ。

 もちろん片づこうが片づくまいが、現実には1日は1日。ただし、いつ始まりいつ終わるか分からない1日だ。それ故、たった1週間先でも、その時になれば何が起こっているか分からず、真壁の手帳はいつも真っ白のままだ。

「来週、何かあるんですか?」真壁は聞いた。

「大学の研究室で、ぼくの歓迎会を開いてくれることになりまして」

 岡島は先月、千駄木の東亜医科大学からこの大学に移ってきたという。

「真壁さんも本庁に移られたことだし、一緒にどうですか?」

 不意に、真壁の腰のベルトにつけていた受令機が鳴り出した。ほぼ同時に、上着の胸ポケットに入れた携帯電話が震え出すのを覚えた。嫌な予感を覚えつつ、電話に出る。

 相手は本庁の6階、捜査一課の大部屋にいる宿直だった。

「池袋の東京芸術劇場のそばに、男性の変死体が転がってる。急げ」

「今、中野で帳場かかえてる」

「知るか。とにかく、上からのご指名だ」

 ひたすら舌打ちしたい気持ちを抱え、真壁は「了解」と忌々しげに呟き、電話を切った。

「事件ですか?」岡島が尋ねる。

 真壁は軽くうなづいた。緩めていた赤いネクタイを外して再び結びなおした。首元がきゅっと締まる。黒いスラックスのしわを伸ばし、同色のコートを羽織る。

 岡島に「歓迎会、行けたら行きます」と言い残して、真壁は地下の法医学教室を飛び出した。腕時計に眼を落とす。午前3時8分。

 正面玄関に出る。外は強い低気圧がもたらす雪が降り続いていた。街は無機質なコンクリートのジャングルをかき消して、白一色に見える。足元の路面はひたすら濡れ続けている。現場の路面もたぶん、ビショビショだろう。靴痕跡の採取は絶望的だろう。

 真壁は軽く駆け出した。28歳と3か月。昨年九月の異動で、所轄の上野南署から警視庁捜査一課に配属になった。徹夜も走り込みも、しようと思えばまだまだ出来る。

 病院から3分で中原街道に飛び出して、真壁はタクシーを拾った。運転手に「池袋の西口へ。急ぎで」と告げ、「ああ、さーめえな」と冷えた両手をこすった。

「お客さん、お国は新潟ですか?」運転手が言う。

「分かりますか」

「私は石川で」

「へえ」

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