マイホーム
もし夜遅く、あなたが家路を急いでいたとして。
あなたの数メートル前を知らない人がやはり同じ方向に向かって歩いている。
背中から判断するに30前後のリーマン。自分と同年代か少し上くらい。
あなたがあと少しで自分の家、と思った時、前を歩いていたそのリーマンがあなたの家に入っていったら。
そう、きちんと鍵を取り出して「ただいま」と言いながら。
その時あなたはどうするだろう。
これ、知り合いMさんの実話。
残業で帰宅の遅くなったMさんは家の前でしばし立ち尽くした後、勇気を出して自分の家に入った。
ただいま、と言うと母親のおかえり、という声がする。
居間に入ると先程のリーマンがネクタイを緩め何食わぬ顔でテレビを見ている。リーマンはAさんを見ると「おかえり」と言った。
しかしそれは知らない人間なのである。
状況の理解出来ないMさんがそのリーマンの前で立ち尽くしていると、二人分の夕飯を運んできた母親が言った。
「あなたお兄ちゃんに向かってなんて怖い顔してるの」と。
しかしMさんには兄などいない。
長男は自分のはずだ。
少なくとも仕事に出掛ける迄の今朝まではそうだった。
それとも自分の頭がおかしくなったのだろうか。
いや、違う。
目の前にいるのは赤の他人のはずだ。
Mさんは急激に怖くなり、大きな声で叫ぶと足元に置いてあった荷物を掴んで家を飛び出した。
その際お約束のように交通事故にあった。
命に別状は無かったが、足の骨折が余りにも酷かったため入院は長引いた。
何度かその「偽の兄」であるリーマンは家族に伴われてお見舞いに来たが、Mさんは毎回寝たフリをした。
Mさんの退院が迫ったある日、偽の兄は1人で病室を訪れた。
寝たフリをしようとしたMさんの耳元にその偽の兄は囁く。
「短い間だったけど家族ごっこが出来て楽しかったよ、じゃあな」
驚いたMさんが目を開けると、その偽の兄は小さく微笑んで病室を後にした。
引き止める事も出来なかった。
その数分後、母が荷物を抱えてやってきた。
Mさんが「なあ、今兄貴が来てたんだけどさ」と言うと母親は「何言ってんの?夢でも見てた?兄貴って誰?我が家のお兄ちゃんはあんたでしょ?」と不審そうな顔を見せる。
そして枕元に置かれた花を見て「あら綺麗、お友達でも来てたの?」と聞いてきた。
しかしその花は件の偽の兄が「母さんが買ってきたんだ」と言ってつい先程持ってきた物だった。
Mさんは正直最近残業続きで軽く鬱っぽくなっていた。それは否定しない。
だから本当に兄がいるのに自分の頭がおかしくなってそれを認識出来なくなっているのだと一時は思った。
しかし先程の偽の兄の言葉、そして母親の今の反応でその考えが間違ってた事に改めて気付かされる。
やっぱり自分に兄などいなかった。
なあ、それならあの偽の兄は一体なんだったんだ?
花はある。
至近距離で耳元に囁かれた時、仄かに体温のような物も感じた。
さっぱりわからない。
Mさんは未だに何がどこまで夢でどこまで本当なのかわからないという。
退院後、ストレス発散と体のために始めた水泳のお陰でなんとかギリギリ狂わずに済んでる気がする、と言っていた。
それでも時々睡眠薬がないと眠れない夜があるという。
そして水泳中、ふと水の上に顔を出す瞬間「違う世界になってたらどうしよう」という考えが頭を過るとも言っていた。
退院後に違う部署に異動してから更に数年して、Mさんは地方の事業所に転勤になった。本人の希望で。
「親父の実家の近くだから頼れる身内もいるし、ここよりのんびりした場所の方が楽な気がして」と笑っていた。
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