第58話 退院

 そして、梅雨も明けた7月中旬。

 ようやく退院だ。

 丸々4ヶ月経ったが、どんなに長く感じたことか。

 問題はこれからだな。

 内定もないし、申請もしてない。

 全くの無職だ。


 「開業医」

 やろうと思えばやれるだろうけど、やっていくのは難しいものがあるな。

 大学の講義だけの知識では、当然ながら無理だ。

 運動全般はドクターストップだし…。

 とりあえず、マンションに戻って掃除しないと。

 通院も必要だし…。


 玄関に入ると、男物と女物の靴が並んでる。

 ん…、お母ちゃん?

 いや、待て。

 まさか、お父ちゃんが誰かを連れ込んだりしてる?

 この間のことがあるからな。


 リビングに入ると、「お帰り」とお母ちゃんの声が聞こえてきた。

 「ただいま。色々とごめんなさい」

 抱きつくまでもしなかったが、お母ちゃんが居るということで嬉しくなった。

 「お父さんは、トイレ入ってるから」

 そうなんだと思い、ちょっと安心した。

 「お母ちゃん」

 「なに?」

 「来月には、帰るからね」

 「はいはい、分かりましたよ。先に帰っとくね」

 「うん」


 すると、お父ちゃんも加わってきた。

 「すぐには帰らないのか?」

 「色々とあるからね。それに、お父ちゃんはどうするの?」

 「仕事だ」

 あっ、そう。


 その日は、久しぶりに親子3人で昼食を食べ、お父ちゃんは仕事へ。

 お母ちゃんと夕食を外で食べて、もう一つのマンションへと送って行き、戻ってきた。

 すると、ひろちゃんが徒歩で病院の方へ向かっていくのが見えたので、気配を消して近づき声を掛けた。

 「院長先生」

 ビクッと身体が震えたのが見えた。


 くくくっ…。

 思わず笑っていた。


 振り返ってきた表情を見ると、なんか嬉しくなってきた。

 だって、ビックリ顔から安心顔になるんだからな。

 「脅かすな」

 あはは…。

 「はい、ごめんなさい」

 何も言ってないことに気づき、声を掛けたのだ。

 「今朝、退院しました。お世話になりました」

 「もう怪我するなよ」

 「したくて、怪我したわけではありませんよ」

 チッチッチ…と、いつもの癖で人差し指を横に振ってしまう。

 「その指、やめろ」

 「院長先生」

 「なんだ、その眼は」

 「え、何が?」

 「その、おねだりするような目つきはやめろ」

 持ってる鞄で、自分の顔を隠しながら言ってくる。

 その格好は、本当に可愛いと思えさせてくれるものだ。

 「ねだってはないけど、言わせてください。院長先生の病院で」

 「言っとくが、新卒は採らない。分かってるとは思うが、うちは経験者しか採らないんだよ」

 言いたいことが分かったみたいで釘を刺された。

 「それなら、どこか紹介してもらえないですか?」

 「紹介ねぇ…。すぐには思い当たらないが、覚えとくよ」

 「はい、お願いします」

 いくら脈無しの、その場限りの言葉だろうが、今の自分には欲しい言葉だ。

 「それでは、お仕事頑張ってください。失礼します」

 「ああ、お大事に」

 微笑んでくれて言ってくれると、とっても嬉しいな。

 だから、私も同じように微笑んで返した。

 「ありがとうございます」


 「あ、そうだ。食事を…」

 ひろちゃんの声が聞こえたが、振り返らない。

 ひろちゃんへの想いを心の奥底に埋めてエントランスへのドアを開けようとする。この思いは、絶対に知られたくない。困らせたくないから。


 「ぐぇ…」

 首根っこを摑まえられて引っ張られた。

 「な、なんなんですか?首回りが伸びるでしょ…」

 「食事を一緒にしよう。話もあるし、渡したい物もあるんだ」

 その言葉に驚いた。

 「本当は、あの時に…、ドイツ料理を食べに行く日に話して渡したかったんだ。

 遅くなったけど、今夜渡したい」

 「私は、夕食は食べ終わりましたよ。親と一緒に食べたから」

 「簡単なもので良いから食べさせて」

 おにぎりでも良いですか?なんて、聞けやしないな。

 「何時ごろになりますか?」

 「んー…」

 腕時計を見ながら言ってくれる。

 「もう少しで20時半だから…、21時、いや21時半…、いやいや22時前になるかもしれない」

 「分かりました。お待ちしてます」







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