第27話 最後に冠せられた名前
ルビヤとユリスが理想的な神の子のあるべき姿について話し合っていた頃、メアイとメーイェは初めて目覚めた朝のように、二度目の堕落の契りを果たしていた。
これが愛なのではないの? 心から好きということではないの? 人を介して神の愛を発するとは? 愛してはならないの? 愛を与えられるよりも、愛を与える側になりなさい? 手を繋ぎ合って笑って、草むらを転げ回って、接吻して、性交に至って。結果として僕たちは愛し合いました。
では神の子とは?
永遠にメアイとメーイェは繰り返し問い続けながら、花園の虜囚となっていた。問いの口は答えの尾を喰い、答えの口は問いの尾を喰い、やがて二匹の蛇の死骸でできた首輪になった。
ルビヤに厳しく咎められて、メアイは握った果実を岩の壁に投げつけた。この場所にはいられない。僕たちは二人だけで生きていく。誰の手も借りない。メアイは父親に言い捨てた。メーイェの手を掴んで、目についた木立の間に入り、丈のある草の中を奥に突き抜けた。追いかけてくる父から隠れるように次の茂みに入り込み、何の痕跡も残さないようにした。
ルビヤは息を切らしながら、木々の陰に見え隠れする二人の姿が、視界から永遠に消えないように必死に追いかけた。やがて動悸が激しくなった胸に手を当て、崩れ込むようにして水の溜まった地面に膝をついた。
メアイは立ち止まって忌々しげにルビヤのほうを振り向くと、お前は天使なんかじゃない、悪魔だ、と呟いた。今だって蛇のように這いつくばっているじゃないか。蛇だ、悪魔だ。人の敵だ。ルビヤ族も悪魔の兄弟だ。悪魔ルビヤだ。メアイはあらん限りの雑言で父を罵倒した。
何故、僕たちを戒める?
何故、愛を教えながら、愛することを禁じようとする?
僕たちは何も悪いことはしていない。
メアイは自由を知ってしまった。これからどこに行こうとも、メーイェの自由を奪って自分の物にすることも、あらかじめメアイの自由意思の中には含まれていた。
メアイは父ルビヤを悪とすることで、自分の想いを正当化しようとした。善と悪による偽りの二元性が生じた瞬間だった。そのために人の子らは、蛇の死骸で覆われた道なき道を踏みしめて歩かねばならなかった。自分たちを救ってくれて、堕落のことを口うるさく言わずに、無条件で愛してくれる本当の神がどこかにいるはずだ、と、メアイは後ろからついてくるメーイェに打ち明けた。メーイェは本当の神がいるなら、天使に堕落させられたことを心から詫びたいと思っていた。
人類の初罪は、その性的な堕落の罪よりも、罪の所在責任を天使になすりつけて、巧妙にすり替えた仮面の内側から、自ら正統な被害者のように神に堕落の贖罪を求める行為にあった。そのために天使は人類の身代わりとして堕落の罪を背負い、人類によって堕天させられてしまったのである。
二人が養育者である天使に対して、嘘を吐いてしまったことを素直に認めて、悪かったという感情を持っていたならば、まだ神の子に戻る道は開かれていたはずだった。
いつまでも追いかけてくるルビヤに、舌打ちをしたメアイは足を止めて振り返った。
「何で、勝手に僕たちを神の子にしたんだよ。誰でも良かったのに、何で僕なんだよ? そんなこと、いつ頼んだ……?」
ルビヤには言葉はなかった。伸ばしかけた手を、静かに下ろしただけだった。
産まれた子が自分を産んだ親に対して、口にしてはならない禁句だった。それでも、ルビヤには何も反論できず、ただ黙っていた。何故なら、自分の子にそう言わせてしまうということは、親として失格だったからだ。
「メーイェも天使に言いたいことがあるなら言いなよ。もう会うこともないだろうから、今のうちにね」
「なんで……何で、私たちが堕落しないように管理してくれなかったのですか? あなたたち天使が、私たちをしっかりと管理していれば、私たちは堕落せずに済んだのに……」
メーイェの眼から一筋の涙が頬を伝っていった。
その涙を合図とするかのようにメアイは、素早くルビヤの左胸を短剣で刺した。ルビヤと一緒に生活の道具を作った短剣だった。天使の銀色の身体から、人間と同じ赤い血が噴き出した。ルビヤは鮮血が流れ続ける胸を、左手で押さえて片方の膝を地面についた。
「抱かれているときに心臓が鼓動する音が聴こえた。そして気付いた。天使にも同じ場所に心臓があるんだということにね」
メーイェは地面に座り込んだまま、何か、目に見えない物に怯えるように震えていた。メアイはメーイェの腕を引っ張って、無理やり立たせると、彼女の手を引いて森の外へ向かって歩き始めた。
ルビヤは自らの血で濡れた地面に横たわり、無数の樹木の間を進んでいく二人の姿が勾配の向こうに消えていくのを見ていた。やがて二人の姿が見えなくなってしまった後も、限定された森の一場面を、焦点の合わない瞳で、今でも風景の中に探し続けていた。手足の先から銀色の皮膚が、魚の鱗のように剥がれ落ちていった。光の涙が流れおちた。どこにでもある森の姿。それが、ルビヤが生きている間に最後に見た光景だった。今でも心の傷になっている花園の残像だった。
人の子を愛し、おそらくは愛することのできなかった死せる天使に、人の子によって最後に冠せられた名前は、人の敵、悪魔ルビヤだった。
四匹の白い蛇たちが、地面に横になって伸びている木の根元を乗り越えて、神の子たちの後を追いかけていった。花園の境界を越える途中で、それぞれの蛇には、手と足が生え、その口が大きく開いて牙を剥き出したかと思うと、口から蛇の身体はみるみるうちに裏返しになって、やがて蛇の皮を脱ぎ捨て完全に脱皮すると、見知らぬ四人の人間が神の子の隣に立っていた。メアイの嘘から産まれた四人の人間だった。その腹は膨れ上がり、まだ人間の言葉に慣れていないのか、蛇のような鳴き声だった。さっきまで、実際に蛇の姿だったから、仕方はなかった。
メアイの父殺しは、悪魔ルビヤ殺しにすり替えられた。
この世界では何より、自由が尊重された。自由に対する責任を負うという形で、堕落する自由も、罪の責任を被せる自由も、滅びる自由も尊重された。
天使たちには自由の聖域を犯してまで、人に干渉することはできなかった。
堕落した神の子たちには、他者の自由を侵犯する自由があったにもかかわらず。
それが自由の恐ろしさだった。
神は人を救わないのではなく、神にとって人は救いようがなかったのだ。
人類の神に対する永遠に続く反抗期が始まった。
二人の堕落した神の子は、花園の境界を越えて、神の光の届かない世界へと旅立った。
ルビヤ族の天使は、メアイたちが天使と袂を別った後に、大木を背にして疲れ切って寝ている二人を、空中に停止する天使飛行艇に一瞬にして転送させたことがあった。堕落した神の子たちの脳の海馬情報から、聖都レムリアの記憶を抹消するためだった。今となっては、あってはならない記憶だった。メアイとメーイェは親たちとアンデの葬儀に参列したことを忘れていくだろう。これから堕落を繁殖させていくかもしれない一族に、天使のレムリア国家が存在していることを知られてはならなかった。表層意識から記憶が消えても潜在意識、魂の絵柄には刻まれて、夢の中の一時のように、いつか思い起こされるときが来るかもしれなかった。それも二人に天界のようなイメージを付与する助けになったが、ルビヤが宇宙創造神とアンデの違いについて二人に教唆したことも消えてしまったので、アンデが造物主と同化してしまったという魂の記憶の混合が見られた。
ルビヤを悪魔呼ばわりした記憶は消すわけにはいかなかった。そうしてしまったら、取り返しのつかないくらいに、悪魔ルビヤとして魂に刻まれてしまうだろう。本人たちと天使たちの間で解決しなくてはならない問題だった。堕落の記憶も然り、いくら記憶を消したところで、堕落のカルマは二人に残り続けるのだった。
連続して動く一日の記憶の絵を水で溶かすように、あらゆる風景が滲んで次第にぼやけていった。
あの日、イルカ型の天使飛行艇に乗って、朝焼けのテラの空を駆けていった記憶は、レムリアに近付くごとに徐々に薄れていき、かわりに花園でのありふれた日常の一日が選ばれて、存在しない葬儀の日の記憶と差し替えられた。かくして陸続きで存在していた全能の樹のようなエデン大聖堂(その表現は時系列的に間違っていた。何故なら、住居の屋上にあった全能の樹は、エデン大聖堂から創造されたからだ)や、大通りを飛行するフェニックスの乗り物、反重力公園の噴水は、二人の郷愁を誘う心の原風景になっていった。
あの日、四人の家族は聖都レムリアには行かなかった。
いつもと同じようにずっと四人で花園のふところにいて、午睡の後に生活の道具を作っていた。
メアイは縄梯子を勢いよく体に巻きつけて、はっとして、我を忘れた。目の前にはルビヤがいた。この印象深い出来事のあった一日が、何故か、二日存在していることを、メアイは初めてその瞬間に気付いてしまった。ルビヤに話しかけられて、体に絡まった縄梯子がほどかれていくのを見つめながら、理由も分からないのに、涙だけが頬を流れていった。大切なものを未来に失ってしまったという感覚も、このときのメアイは失くしていたはずだった。微笑する父なる天使ルビヤは、メアイが泣き止むまでずっと、その肩をさすってくれていた。
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