第26話 無限に天使の光輪が輝いているなら

 花園に戻った途端に、見慣れた森林の景色に取り囲まれながら、メーイェは陰鬱な気分に侵された。再び、罪意識の芽が出るのを感じ始めてしまった。天使たちに見つかったときに、メアイはメーイェのせいにしたが、メーイェは何も言い返せなかった。メアイがメーイェの身体に触れたときは、同時にメーイェも戒めを破っていたから。そして互いに、記憶喪失になったふりをして、この話は二人の間ではなかったことにされた。メーイェにはメアイが無言でメーイェに何かを要求しているように思えたが、それもメーイェの気のせいなのかもしれなかった。メーイェは忘れたふりをしていただけだったが、メアイは本当に記憶を蛇にでも食べさせて記憶を失ったのかもしれなかった。メーイェは悲しかった。そんな便利で都合のいい蛇がいるなら、どうぞ、私の記憶のかけらも食べて頂戴。

 父と母の前では、事実として罪穢れの花園は、轟音と共に池の水面から浮上してくる。果実を手にして食べる自分の、果実と自分を入れ替えた夢のような、決して夢ではない堕落の誕生日は、どうやら本当に現実の出来事だった。

 天使の戒めは地割れになって、メーイェのしなやかな足を縺れさせる。地面に裂けた穴から落ちるときに、メアイの左腕をつかんで、堕落の巻き添えにさせる。メアイのあばら骨は砕かれて、その恨めしい骨がメーイェに、秘密の契約を期待する。夢のように赤黒い果肉を突き進んで、そのために絶命して地面に落ちた果実が見る見るうちに腐敗して、気付くとメーイェの飼っている蝿が睫毛に止まっていた。

 メーイェはまぶたを閉じて、自分の堕落の原因を作った責任をメアイに求めた。まぶたを閉じているから、メアイが責任を引き受けたことも判らないし、その訴えの場所にいまだにメアイが佇んでいる気配も感じないし、その場に誰もいないことを、見たくはない現実を見たくはなかった。老いた蛇が木の枝にぶらさがって、肢体を伸ばして目の前の枝に伝ってやってくることにも、メーイェは一向に気付かなかった。

「目を開けたまえ。そこにはメアイはいない。叫んだらいい。お前が堕落したのはメアイの所為にすればいい。それではメアイに嫌われてしまうか? おお、堕落せし娘よ。ならば今度は、戒めの大天使の所為にすればいい。メアイの身体に触れるな、と警告されたのなら、逆に天使から誘惑されたようなものではないか。それは即ち、メアイなら駄目だけれど、光り輝くルビヤの身体になら触れてもいいという意味にも取れる。お前は見たいものを見る。先に触れてきたのはルビヤのほうだった。天使のほうに責任があった。違うか、メーイェ。私は慰めの蛇。お前は何も悪くはない。天使によってお前は堕落させられてしまったのだ。可哀想な子よ。自分を悪魔の子のように思い悩むことはない。そうだ、この木の洞はメアイの夢の深奥にも繋がっている。私がちょっと今から行って、メアイとの仲を取り持ってあげよう。何も心配することはない。思う存分、身体を触らせてやるといい。花の咲き誇る園に沈んで、陽の光を見上げるといい。無限に天使の光輪が輝いているなら、お前が堕落するたびに、かわりに天使たちの死体を地中に埋めよう」

 メーイェは自分の堕落を正当化し、父と母に責任を転嫁した。天使を犠牲にすることに罪悪感を抱かないように、見知らぬ誰かに咎められたときにも、あらかじめ言い訳できるように、夢の中の蛇に唆されたことにして、さらに責任を転嫁した。

 蛇の正体は悪魔でも堕天した天使でも何でもなく、蛇ですらなく、メーイェ自身の自己憐憫による、どうしようもない程の心の弱さだった。

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