第65話 太陽に帰るかのように諸手を

 船の甲板は砂だらけでざらざらとしていて、蟹や舟虫が歩き回り、船の上の一角には雨が溜まっているところがあった。帆は破られていて、帆柱にカモメが止まっていた。葡萄酒の酒樽が横倒しにされていた。

 額にハート型の模様がある白い猫の着ぐるみを着た男は、

「『うたた寝楽団』へようこそ。お坊ちゃん方。私は横笛使いの猫男シャザー・トゥリーでございます。こちらは太鼓叩きのマレデイク。こちらはバイオリンから産まれたミトレラ。こちらは木琴使いの白象のヨーロアミルズでございます」と言って、紳士がするような大仰なお辞儀をした。手には横笛を持っていた。着ぐるみの口の周りだけ、笛が吹けるように切り抜いてあった。尻尾まで念入りについていた。

 猫男シャザー・トゥリーの背後に、色紙で作った貴族の服を着た白変種の象が、背景のように船の上を占領していた。道化の白象ヨーロアミルズは長い鼻を器用に使って、二本の球付き棒で木琴の音階を巧みに叩き分けていた。たまに岩壁のような前足が拍子を取り、その度に甲板を軋ませた。ミトレラと名付けられたバイオリンからは、人間の体が生えていて、そのために片腕の無い人間の体を補いながら、巧みに人間の右手に弓を弾かせていた。

 象の前には、太鼓と同じ大きさの顔をしたマレデイク・パダードが、金色の幕を張った太鼓を胸の前で固定していた。満面の笑みで虹色に塗り分けた撥を、風の魔法のように指の間で素早く回転させていた。

「太陽に帰る踊り子ベリセシアの歌……」

 猫男シャザー・トゥリーは口元に人差し指を当て、静かに曲名を呟いた。小気味のいい笑みを漏らすと、横笛を口元に構えた。

 横笛の奏でる音色は、青色の付いた煙のように漂い、舞っていく女の姿ベリセシアを描いた。猫男シャザーは自分も素早く踊りながら、ベリセシアの美しい足元に跪いて笛を吹き、美しい虹の階段を、旋律だけで築き上げた。人間と一体化したミトレラは、どういった原理なのか忙しく弦を押さえて、軽快な音を鳴らしていた。ベリセシアは踊るのをやめ、色の付いた階段を幽霊のように登っていった。白象ヨーロアミルズが打ち鳴らす木琴の響きは、宝石を甲板にばら撒くように散っていった。太鼓叩きマレデイクが空中に咲かせた赤や黄色の花びらは、やがて波紋のように消えていった。階段を登りつめたベリセシアは、白象の上へ飛び移り、太陽に帰るかのように諸手を海の彼方に差し伸べ、微笑みながら風に溶けていった。すべてが夢のように跡形もなく何も残らなかった。

 幻想な音たちの享楽だった。プーたち三人は床に座って、不思議な音楽を夢中になって聴いていた。

 演奏が終わりを告げて、プーが興奮しながら、さかんに拍手して立ち上がると、

「僕の父様も横笛を吹くんだ」と嬉しそうに言った。

「ありがとう、君の名前は?」シャザー・トゥリーは訊いた。

「僕はプー。おならの音から名付けられた。こっちの動く石像はドラクロワ。人語を介する不思議な化け物だよ。おじさん上手だったよ。楽しかったよ」

「ありがとうな。白象のヨーロアミルズに乗るかい?」

 白象は嫌そうな顔をしたが、シャザーの言われるがままに、前足を崩して、地面に伏せた。先にシャザーが乗り、象の背中を這いつくばって登ってきたプーとドラクロワが落ちないように手で支えてしっかりと座らせた。マジョーがどこに乗ろうか、片足を行ったり来たり彷徨わせているうちに、白象が立ち上がってしまった。海原はプーの血のように赤く染まっていた。日没が見渡せた。象の上から二人の歓声が聴こえてきた。

 艫に向かってマレデイクが走って、夕焼けを映した海に飛び込んだ。


「プー君。君にこの石のお守りをやろう。石像の君には、この槍をやろう」

 二人の子どもたちは目を輝かせ、贈り物を受け取った。

「この槍があれば、ジャッカルの死を占えるな。おい、プー。その石のお守り、うまそうだな。後で食わせろよ」

「せっかくもらったお守りを食べないでよ、ドラクロワ。お願いだから」


「マジョー。これを君にやるよ」

 プーが突然マジョーを振り返って、今、猫男からもらったばかりの、石のお守りをマジョーに差し出した。

「僕にはもう必要ないんだ」

 一瞬のように夜が明けて、梢から朝の木漏れ日が差し込み、マジョーは目を覚ました。小鳥が朝の鍵を小刻みに回すように啼いていた。

 プーの足を縛った縄が枝条から手繰り寄せられ、上枝の葉陰の重なりに姿を消したのか、夜明け前にはいたはずのプーの姿はなかった。何故プーは木の上で住んでいるのだろう、とマジョーは、ぼんやりとした頭で考えた。小鳥たちの朝食のためのお喋りは、思い出の楽団の演奏の余韻のような、とても耳に心地よい音の小雨だった。

 マジョーの手には、石のお守りが握り締められていた。逆さに草木は茂っていた。視界の隅に赤く熟れた野苺を発見した。おいしそうなイチゴ。マジョーは幸せな気持ちになった。いつから野苺が成っていたのだろう。マジョーは今まで野生の野苺に気付かなかった。それともプーが残していってくれたのだろうか。

 マジョーはプーから授かった石のお守りが、手から離れて落ちないように紐を人差し指に何遍も巻きつけた。

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