幻約聖書~Απōκάλυψις~ルビヤの石

星十里手品

第1部 予言篇

第1話 悪魔の記憶喪失

 悪魔は自分がまだ悪魔ではなかった頃のことを思い出せなかった。神と、どんな約束をしたのか、どんな書類に署名をしてしまったのか、悪魔を演じることに夢中になっていた悪魔は忘れてしまっていた。誰に何を命じられたのかも、もはや分からなくなっていた。やがて自分が悪魔だということ以外は何も思い出せなくなった。

 世界水の氾濫によって大洪水が起こり、すべての街がなくなるまで、すべてが嘘であったことになるまで、後に伝えられる嘘の大陸になるまで、番いの悪魔は観客席から、自分たちが産んだ剣と斧と槍と弓とが、それぞれの武具の一応の所有者である騎士を操って闘っているのを見て、目配せをして笑い、時に一匹の悪魔に戻って口を押えて笑っていた。

 観客席の人々は投票権を持っていた。悪魔は最前列の中央席に座ったまま、背後を見ずに背後の観客に向かって「滅びの子らよ、さあ、始めて」と合図した。滅びの子たちの持っている投票記入用紙の擦れる音がたちまち幾重にも重なった。どの地に戦争を起こそうか、滅びの子たちは思案し、苦慮し、滅びの紙に記入した。平均的な体格、容貌、服装、平均的な知能、霊性、感受性、おそらく平均的な性癖の持ち主であろう係の者が観客から投票記入紙を集めにいった。その作業は無窮に続くかと思われた。結果、多くの票を集めた滅びが、次回の舞台劇の演目となった。滅亡の総意。それが滅びの意志と呼ばれる機構だった。

 悪魔は座席に深く腰掛けて、ふと何かを感じ取ったように劇場の天井を見上げた。

「劇場の外を旋回している天使どもは、指を鳴らせば……ほら、悪魔に変わるんだ。私にとって都合の良いように、世界は再創造されるんだよ。私が民たちに見せたい世界を、瞳を通して民たちも同様に見ることになる。それが潜在意識に存在する願望の既得権益だよ」


 劇場の地下に牢屋があり、白く光るしなやかな身体を持つ男が、人骨を素材にして組まれた十字架にかけられていた。多分、男で、まぶたは糸で縫われ、血の色が滲んで元の糸の色が分からなかった。唇もきつく縫われ、光も声も奪われていた。肩には何か翼のようなものをもがれた傷跡があり、あるいは初めから翼も、傷跡もなかったのかもしれない。うまく読めないのだ。けれども両肩に残存する痛々しさが消失した訳ではない。多分、男で、頭上の劇場の観覧席にいる悪魔たちの養父だった。


 十字架にかけられた男の息子である悪魔は、分裂した娘を、つまり聖婚によって結ばれた妻を抱き寄せて囁いた。

「私が地星の造物主になり……」

「あたしが悪魔のふりをし続ければいいのね? 今まで通り」

「月光海や太陽海の天使たちはまだ気付いていない。すべて父が一人で狂ってやったことになっている。もちろん人類が未来永劫、気付くはずもない。魔界の秘中の秘、機密事項だ。ああ、天上界か。私たちの聖婚によって築かれた天界だ。人類は私たちによって護られているんだよ」

 堕落した子供たちの結婚。天使たちの誰も祝福できなかった婚姻だった。


 再び、劇場の地下牢獄に幽閉されている男に視点が移動する。

 男の縫われたまぶたから涙から零れ落ち、血しぶきと共に縫い糸を引きちぎって両目が開かれ、血の涙を流しながら右目までずり落ちた。男の眼球は、時を緩めながら地面に到達する寸前に、手品のように石に変わった。白く光る石に。一つ目は悲しい目。優しく見守る、覚悟の目でもある。暗い牢には小さな横穴があり……。


 舞台に上がる階段を見つけた女悪魔は、あれは何かと、隣の恋人に訊ねたが、席を立ってしまったのか、隣に座っていたはずの恋人はどこにもいなかった。何故、自分がこの無人の劇場に迷い込んだのか、悪魔は何も思い出せなかった。悪魔にとって、記憶を掘り起こすことは、孤独への小径に通じていたので、いつまでも舞台を眺めて気を紛らわせていた。

 あれから一万年が経過して世界が終わりを告げて、悪魔が劇場から立ち去るときに、神の使いは、悪魔が神と契約した書類を口頭で述べた。その文面の効力によって、悪魔は一瞬で傷だらけにされて、二度と立ち上がることができなかった。それでも悪魔は何も思い出せなかったのだという。記憶は悪魔にとって禁じられたものなのか、預言者はこれを悪魔の記憶喪失と呼んだ。


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