第100話 こんなものなければよかったのに

「はー…あーさんかっこいいっすね…こりゃマルも惚れるわけだ」

 あたしはだだっ広い自室の壁に掛かった大型の4Kテレビに映る映像を見て感嘆の声を漏らした。あーさんといえばかっこいいの代名詞。本人が言ったら本気でやめてくれと言うだろうが、あたしにとって宮野理人という男の子は紛れもなくあたしのヒーローだ。あたしが今こうして生きているのも、兄貴のアドバイザーとしての活躍を見込まれているのも、全部あーさんのおかげなのだ。

 暖かい布団、快適な自室、満足な食事、清潔な衣服、十分な教育。どれも以前のあたしが一つも持っていなかったものであり、あーさんが居なければ掴み損ねていた幸福だ。

 あたしはあーさんのことが好きだ。でも多分、他の人の好きとはちょっと違うのかもしれない。最初にこの感情を覚えた時からなんとなく、そう思っていた。

 これは愛情というよりももっと…そう、盲信とでもいうべきだろうか。仰いで、その存在があるだけで感謝する。到底現代日本の恋愛模様とは相容れないものだというのは重々承知している。でもこの感情はあたしの中にしがみ付いて、結局今までずっと消えようとはせず…むしろしつこい汚れみたいにくっついてしまった。

 別に隣に並び立とうだとか思わない。そんなの恐れ多い。好きだ好きだと愛情表現をしてベタベタ触っていくのは、そうしていないと不安だから。たったそれだけのちっぽけな理由だ。

 彼の体温は正常だろうか。

 何か悩みはないだろうか。

 あたしに何か手伝えることはないだろうか。

 出過ぎた真似だというのはわかっている。そんなことをしなくてもあーさんの周りには、彼のことを大好きでやまない人たちがたくさんいる。

 エレちゃんが多分一番いい例だ。彼女よりあーさんのことを知っている人物はいない。実の母親でさえ、あの娘には及ばないだろう。

 愛情の大きさはほとんど同じだと彼女は言っていた。

 でもそれはきっと違う、全然違う。

 あたしはあーさんのことが好きだっていうけど、多分あたしがそうしていないと不安だから。あーさんが好きなんじゃなくて、あーさんに救われたあたしが可愛いから、その安心のためにあーさんを好きでいようとしているだけだ。

 恩義を感じているから全てを差し出して貢ごうとはするけれど、あたしの愛情はエレちゃんのものと比べて酷く歪なのだと思う。あんなに真っ直ぐで綺麗で曇りのない愛の形を真似できるのは精々マルくらいのものだろう。あの子もひどく純粋だから。

 マルは多分、おとぎ話でいうところのシンデレラだと思う。必死に努力をして、どんなに辛い目にあっても前を向いて希望を捨てずに進み続ける。ああいう子は、泥臭くても眩しいものだ。ガラスの靴を履いて、王子様と踊る彼女はきっと美して華々しい。女のあたしですら、その姿を少し見たいと思ってしまうくらいには素敵だ。

 生まれた時から勝利を約束されているエレちゃんという相手がいなければ、きっとあたしは彼女があーさんと結ばれると確信している。エレちゃんがいても可能性はある。もし彼女が選ばれてもあたしは祝福すると思う。

 あーさんは頑張る人が大好きだ。あたしはそれをよく知っている。だからあーさんの前ではそれなりに頑張っているように振る舞ってアピールする。

 でも所詮あたしのこれは努力なんて呼べるべき代物ではない。

 一つ嘆息をすると、テレビから少しだけ視線を逸らした。

 飛び込んでくるのは、壁中にびっしりと貼られたプリント。世界各国から集めた至極の難易度を持つ問題たちが印刷された、プリントだ。

 答えだけが薄い文字で書き込まれているそれらを見て、あたしはもう一度だけため息をついた。

 あたしを一言で表すなら多分、天才なんだと思う。これは自惚でもなんでもなく、単なる事実だ。問題を見ただけで答えがわかる。

 分かるのが解き方、ならまだよかった。明確なプロセスを経て答えを出していく過程を理解できているのであれば、それは理解力の高い子供として扱われるだけだから。それなら多分、ママもあたしを見限ったりしなかったんだと思うし、なんなら愛してくれたと思う。

 でも違った。

 あたしが分かるのは、それらすべての過程を跳躍した果てにある一つの答えだけだった。途中式どころか、公式すら置き去りにして見えてしまうのだ。

 人が聞けば羨ましいと思う能力だろう。だって頑張る必要がないのだから。

 …でもあたしは嫌だった。だから外ではできない子を演じ続けた。

 ママはあたしを捨てた。薄汚い路地裏に雨の中に、誰にも助けを求められないくらい体を殴って。

 こんな化け物みたいな娘が怖かったんだと思う。あたしだってこんな能力あったところで嬉しくはない。最初から、生まれた時からこの能力が嫌いだった。

 みんなが必死に取り組んでいるのを馬鹿にするみたいに羽ばたく勇気なんて、あたしにはなかった。

 …それでもあたしは生きていた。紆余曲折を経て、若月という会社の社長さんに拾われたのだ。思えば初めてあたしの才能を怖がらなかった人だと思う。

 この暮らしにも慣れてきて、塾に入ったのは一年前。あたしがお母さんとお父さんに初めて言ったわがままは、この塾に入れてもらうこと。特別な実績があるわけでもなく、神のような授業を行う講師がいるわけでもないこの塾を選んだことを不思議そうにしていた二人だったけど、笑顔で許諾してくれた。

 そこにはあーさんとマルがいた。

 頭を掻き毟りながら必死に考えるあーさんを見るマルは、とてもじゃないけど見ていられなかった。あまりにも、純粋すぎたのだ。

 恋する乙女を具現化したらこうなるんだと思う。

 声をかけることはできていなかったけど、心配そうな表情をしている彼女を見て、あたしは一生彼女には勝てないんだと悟った。

 勉強があたしと、勉強をマル。

 あーさんなら、絶対にマルを選ぶ。

 だから比較対象にならないように、馬鹿な子を演じた。


 多分これからもあたしはそれなりに馬鹿でいると思う。


 明日も。

 明後日も。

 一年後も。

 十年後も。


 きっと百年後も。

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