第97話 語るに落ちる
「…あーさん、蚊に刺されてるっすよ、首」
やつれ気味というか、やや寝不足気味というか。翌日も普通にあった塾で俺は集中力を欠いていた。決して気を抜いているとかではない。親の金で通わせてもらっている塾に来て居眠りなど言語道断、やってはならぬことだと重々承知はしている。
だが頭ではそう分かっていても、実際に体がついてくるかというのはまた別の話ではないだろうか。掌は湯たんぽみたいにびっくりするほど暖かい。遠慮気味にツンツンと首筋のキスマークを突き刺してくる玲の手がひんやりとして気持ちよく感じるくらいには体温が上がっている。熱があるわけじゃないが、眠い時というのは大抵の人間はそうなるようにできているのだ。
「うわー眠そうっすねー…あたし抱っこして寝るっすかー?」
「あぁ…あぁ?」
道路沿いに位置する三階建てのビル。その二階の教室には、意外にもそう多くの生徒はいない。というのも、取っている授業ごとにメンバーが分かれているのだ。だから実際阿賀野は今隣の教室で国語の授業を受けている。俺たちが理科の記述を叩き込まれている間に、どうせ眠りこけているのだろう。今回は俺も人のことを馬鹿にはできない立場であることはまぁ、その通りなのだが。
今は自習時間というか、休憩時間というか。少しだけ休む時間が与えられる。復習してもいいし、予習してもいい。大声で話さなければ少しくらい喋ったって構わないし、なんなら眠ったっていい。
実際今先生は自分のデスクでカフェオレでも飲んでいる頃だろうしな。
「大体なんでこんなに寝ぼけてんすかー、まぁもう夜の八時なんで分からんでもないっすけどー」
「ちょっといろいろあってな…寝付けなかったんだよ」
半分目を閉じながら返答する俺の手を握る玲。「ぽかぽかっすねー!」なんてたのしそうにしているものだから俺は放置して睡眠へ。楽しそうにしている玲を見るのは楽しい。今はほとんど目蓋は開いていないが、それはそれとして。
だが、たのしそうな玲をよく思わない人もいるにはいるようで。というかその人こそ、三人しかいないこのクラスの生徒の丸宮である。
「あのさ、少し静かにできない?馬鹿なの?」
浴びせられる罵倒。周囲にいる人が割と結構ノリが良かったり優しかったり寛容だったりするせいで、罵倒されることはほとんどない。そのせいでいつもなら結構応えるはずなんだが…今は眠くてそれどころではない。言葉を聞いても眠気がクッションとなってほとんどトゲを運んでこない。
んで、微妙な視界で覗いて思ったのだが…美人だな、この人。罵倒されてそんなことを思うとか若干自分にMの素質があるんじゃないかと勘繰ってしまいそうだが…それくらい美人だ。美人に罵倒されることを喜びそうな友人に三人ほど心当たりがある俺としては、良さがわからぬでもない。
「む、なんすかマル。別に騒がしくはしてないはずっすけど」
「あーこら、喧嘩すん、な…」
そんな丸宮に食ってかかる玲。基本的に快楽主義者であり、楽しいことを邪魔されるのはあまり好まない彼女からすればまぁ、やりにくい相手であろう。嫌いとまでは言わないが、どうしても苦手意識は抱えていそうだ。
寝ぼける俺はいきなり喧嘩を始めようとしている二人を…一応仲裁しておく。俺の言葉がしっかり届いているかどうかは別として。
「教室の三分の二が騒々しくしてたら煩くなるわよ。分からないかしら」
で、相対する丸宮もいちいち攻撃的。結構自我が強い二人だから相性は良くない。とはいえここまで表立って喧嘩するところを最近俺は見ていないので若干不安になる。
「大体アンタもどうにか手綱握れないの?自分の女くらい管理したらどうなの?」
その怒りは当然俺にも飛び火する。もう最近流れ弾が軌道を変えて俺を狙っているんじゃないかってくらい飛び込んでくるような気がする。
形の良い眉と勝ち気そうな瞳。可憐ではあるものの、どこか凛々しい美貌が嫌悪感を滲ませた。
眠たい俺は適当に反論。
「いや、俺の女じゃないっす…」
「あーさんあたしの口調の真似っすかー?いやー嬉しいっすー」
「ああもう特に若月、アンタの声煩いのよね。頭に響くっていうか、耳に残るっていうか…いっつも煩いのよアンタ」
「なんすかー?あたしに喧嘩売ってんすかー?」
うおう…臨戦態勢。プライドがべらぼうに高い丸宮と売られた喧嘩は退かずに買い占める玲。考えうる限り最悪の組み合わせと言ってもいい。実際にこんな感じの衝突は一度や二度ではない。俺や阿賀野と丸宮は、互いに相性があまり良くないことを感じ取っているので、基本的には互いの印象に残らないように立ち回る。いくらプライドが高い丸宮とはいえ、不必要に人と争うことは無駄だと分かりきっているから俺たちの間であまり確執というのは見られない。
顔を合わせても挨拶すらしない。きっと全然関係ないところで会ったら互いに見なかったフリをするだろう。
だが全員がそういう風に考えられるわけでもない。玲がこれ以上ないこれ以上ないくらいのサンプルケース。玲は基本的に嫌なことはけろっと忘れるタイプだ。過去のことに拘らない。切り替えが早い。こんなふうに形容すれば美点のように思えるし、確かに喧嘩した後とかは引きずらないらしい(俺は玲と対等に争ったことがないので詳しい事はわからない)ので実際に美点ではある。
ただ今回の場合ではその性格が完全に裏目に出てしまっている。相性が悪いということを特に気にしない玲は、結構積極的に声をかけるし、それが原因でキレられたら同じくらいキレ返すのだ。だから丸宮サイドからすると「また話しかけてきやがって」「懲りずに今日も騒いでる」という不満だけが蓄積していくのである。
悪気のない行為だと分かっているから俺もあんまり玲には強く言えないし、丸宮からしても自分だけが気にしてイライラしているという状況がさらに気に入らなくて癇癪を再び起こす。
こうした悪循環が繰り返されるのを見ていると、もともと設計された時から互いを認めず、馴染めないようになっていると説明された方がまだ信じられる。犬猿の仲、水と油。そんな表現がここまで似合う二人というのを俺は見たことがない。
「聞いてて分からないの?馬鹿じゃないの本当に。アンタみたいに何も努力しないでヘラヘラしてる奴が一番嫌いなのよね。まだ宮野みたいにそれなりに努力してそれなりの位置にいる方がいいわよ」
かなりご立腹の様子。多分今まで溜め込んでたフラストレーションをここで解放してるんじゃなかろうか。まぁ確かに玲の声は響くし…何より丸宮の発言にもあったが、耳に残る。一度聞いたらこびりついて離れない声というのは、割と心理的な影響も大きい。玲に懐かれて「あーさんあーさん♡」とブンブン尻尾を振られている俺はまだいい。それは好意的なものだし、耳に残ったとしてもなんの影響もない。精々その声が耳に残っているということを幼馴染に悟られて、それをかき消すくらい甘いリップ音をゼロ距離で浴びせられるくらいだ。まぁエレナに耳舐めされるとかご褒美でしかないから役得ではあるんだが…俺が言いたいのはそういうことじゃなくて。
耳に残る声が気に入らない相手のものだったなら、さぞかし不快だろうってことだ。ましてや丸宮は勉強に全てを捧げるような生き方をしている。イライラしても仕方がないのかもしれない。何せ気に食わない相手の声が勉強に対する集中を延々と妨害し続けてくるわけだからな。
とはいえそれを黙ってみているわけにもいかない俺は眠たい身体を起こして間に入る。ちなみに一向に授業が開始される気配がないのは、先生が扉の向こうで俺に「早く止めろ」とジェスチャーを送ることに徹しているから。先生のこうして人任せというか俺任せにする姿勢は嫌いじゃない。だって俺でもおんなじことするもん。あと、俺としても授業がこのまま潰れるのは困るからってのも理由。
「はいはい…丸宮も玲も落ち着いて…このままだと授業が始まんないから」
「何よそれ。大体アンタ最近ここに女連れ込んでなかった?正直どうかと思うわよアレ」
「アレとはなんだアレとは」
まるでエレナがやべえやつみたいじゃないか…いや、一切弁護できんけど。俺の部屋勝手に模様替えするし、俺の秘蔵のエロ漫画は持ち歩くし、なんなら寝てる間に行為に及ぶし。やべえやつだけど。確かに、アレだけど。
だが丸宮は可愛らしく二つ結びした幼い髪を揺らしながら、大仰に肩を竦めて続けた。
「アンタ女癖悪すぎない?この塾の中で恋愛が横行してるのも死ぬほど気に食わないんだけど、何人かがアンタのこと好きって言ってるのマジでムカつくわ。そこの女がムカつくのは今更だけど、なんでアンタみたいなのがモテるわけ?」
「いや知らんけどその話…なんかの間違いだろ」
「あたしはあーさんのことだいすきっすー!」
「あぁ…うん、どうも」
「いやもうちょっとなんか反応してやりなさいよ」
あまりの塩対応にフォローする丸宮。根がいいやつなんだよな。分厚い表面の皮がえぐいぐらいトゲトゲしてるけど、根はいいやつなんだよ。
「…じゃなくて、どういうことなの?アンタのせいでこの塾内の雰囲気が浮ついてるんだけど」
「それに関しては本当に俺の責任じゃないしそもそも間違いだと思います…はい…ほんとに」
いつか近衛が言っていたことを思い出す。
去年の夏、一緒に明川のじいちゃんの別荘に三人で泊まった時のこと。当時は灯も恵も暁那も、エレナも姉さんも母さんも先生もいなかったから花は一切なかった。あれはあれで楽しかったけどな。そこでしていた話だ。
「我は全然モテても嬉しくないですぞ…いや、容姿を褒めていただけるの光栄なんでござるが、別に当方にそういった意識はござらぬ故…あと、お断りするの辛い。そもそも好きと言われてもどう対応すればいいか困るし…」
若干口調が乱れるくらい、微妙な心持ちを語ってくれた。そのときは明川と口を揃えて「モテ自慢うぜえな」と嫌悪感を露わにしたものだったが今なら分かる。自分の知らないところでそういう話されても困る。
しかし何故か丸宮怒り気味。足を踏み鳴らして恫喝するみたいにこっちを覗き込んでくる。線の細い美術品みたいな顔立ちと二つ結びの髪型でなければちょっと怖かった。今は美少女がヤンキーの真似してるみたいなところある。
「はぁ?なんでアンタ自分のこと好きって言ってくれてる人たちのことを想像して優しくなれないわけ?ほんと信じらんないんだけど」
「あぁもうめんどくせえなお前!」
いかん、心の声が漏れた。だけどもうこれ俺も怒っていいんじゃないかなぁ…。
というか言ってしまった以上ここから後に退くことはできない。それに玲から攻撃対象を俺にずらしたいという意図もあるにはある。一度攻撃対象を俺に移してしまえば適当なところで「俺が悪かった」と一言謝ればいいだけだからな。
「お前は俺にどうして欲しいんだよ」
「静かにしてほしい、勉強に集中させてほしい。言わなきゃわからないの?それとも言っても分からない?」
「じゃあなんだったんだよ今の恋愛のくだりはよ」
「だから、アンタが魅力的なせいで浮ついた雰囲気出てんのよ。集中を邪魔してるってことになるの分からない?」
「いや無茶苦茶な理論でぶん殴ってくんのやめろ」
「何がどう無茶苦茶って言うのかしら。アンタの理解力がないだけでしょこのバカ。自習しててもずっと聞こえてくるのよ。『あやひとくんが〜』って。何?腹立つんですけど」
「いや知らんが」
「知らんじゃ済まされないことってのがこの世にはあるの。ごめんなさい一つで済んだら警察はいらないでしょ?」
「そもそも現時点で警察はいらないんですが」
「どいつもこいつも理人理人って…アンタさ、何したの?冷水機に惚れ薬でも混ぜたのかしら?」
するかよ。そんなこと。
大体どういう発想してんだよ冷水機に惚れ薬混ぜるとか。どうやって混ぜるんだよあれ。普通に水筒とかペットボトルとかそういうのの方が思いつくよ。
「あれかしら?お手製のクッキーでも焼いてその中に媚薬でも仕込んだのかしら。知ってるわよアンタがお菓子作り得意なの」
なんで知ってんだよ。そんなこと。
俺別にこの塾でお菓子作りの話とかしたことないんだけど。したとしても阿賀野か玲にだし、接点ないから知ることも絶対ないはずなんだけど。え、怖。
っていうかなんで媚薬なんだよ。さっきまで惚れ薬だったじゃん。なんで急に生々しい方向にシフトしちゃうかなぁ。
彼女の発言について来れなくなった俺が言葉を失っているのを見て、丸宮は更に機嫌良く俺を罵倒してくる。あー、この席明川に代わりてー。
あいつなら1万円くらいでこの席を譲ってくれと頼み込んでくるだろう。これはある意味プラチナチケットを使用している立派な経済活動なのだー…はぁ。
「それにアンタ言っておくけど、もう少しカーテンはしっかり閉めなさい。あんなんじゃ外から丸見えよ。隣のマンションから双眼鏡でも使えばいつでもアンタの部屋覗けるんだから」
…ん?
「あと言っておくとゴミ箱はもっと定期的に空にしなさい。あんな状態じゃもし足引っ掛けて倒したりでもしたら大変でしょ?そんなのもわからないのかしらこの馬鹿。馬鹿ねほんと。クズとも言えるわ」
…んん?
「あぁそれから、アンタの勉強机の緑色のケースの上から3段目。単三電池がそろそろ消費期限切れるわよ、早く使い切っちゃいなさい。エアコンのリモコンの電池が切れ気味だったからちょうど変えるにはいい頃…いやダメね。あれは確か単四電池だったはずだから…そうね、パソコンのマウスとかそろそろ替え時なんじゃないかしら」
…んんん?
俺の脳内に違和感というか困惑が満ちている。罵倒されている理由がわからないというわけではない。罵倒されている理由自体が間違っているというわけでもない。むしろ正しい。不気味なほどに正しい。
しかも緑色のケースというのは一昨日俺が百均で購入したばかりの新しいケースだ。四段に分かれていて、若干透明だから中の様子が確認しやすい。おすすめだぞ…じゃなくて。
問題はそれを何故目の前の丸宮が知っているのだ、ということだ。多分電池の消費期限とか同じ部屋のエレナですら知らないことだろう。それにエアコンのリモコンが単四なのも本当だ。
自信満々の笑みで「罵倒された気分はどうかしら?」とでも言いたげだ。
対して懐疑的な俺と玲。玲に至ってはガチでドン引きしている。俺の表情からガチっぽいということを読み取ったのだろう。自信満々に俺の私生活を暴露していく丸宮に恐怖すら感じているようだ。そりゃそうだよね。俺マジで怖いもん。
「大体アンタ不健全よ。結婚してない男女が一緒に寝るなんて。しかも距離近すぎないかしら。あと気をつけなさいよ、相手の女、たまにアンタの首に歯形つけてるわよ。あんなのは放っておいたほうがいいわ。もっとこう、選ぶべき人がいるんじゃないかしら。んー、そうね。勉強ができる人とかがいいんじゃないかしら。アンタみたいな馬鹿のことでも支えてくれるんじゃない?」
…エレナのことまで見抜かれているとなると、ほんとにただ事ではないかもしれない。玲はもうガチでビビって俺の後ろに隠れてボソボソと呟いてくる。
「あーさん、あれマジっすか?」
あれとは先程俺に向けて丸宮が自信満々に口にした言葉だろう。
俺はそれに無言の首肯で応じる。耳元で「ひえぇ…」なんて情けない声が聞こえたが仕方がない。誰だってびびる。俺だってびびる。
つーか勉強ができる人がいいでしょうってなんだよ、占い師の真似事か?勉強ができる人って言えばやっぱり暁那——
「——お、女の子らしい勉強ができる人がいいんじゃない?アンタが男好きっていうならまた別だけど?」
ほな暁那と違うかぁ。暁那言うたら勉強出来るけど男っぽいしなぁ。女の子らしいというにはちょっと違うかぁ。
じゃあもう少し詳しく聞かせてくれるか?
「あとは仕事ができる人がいいんじゃない?アンタみたいな鈍臭くてダッサい男は誰かに支えてもらわなきゃゴミ屑以下のパフォーマンスしかできないだろうし」
やっぱり暁那やないかい。暁那はあの年齢にしてモンスター成人幼児こと俺の母の秘書を務める優秀な秘書や。仕事ができる言うたらそれしかない。
……何やってんだ俺。一人で。つーか俺の思考とあいつの発言の間で漫才が成立するの恐怖でしかないんだが。脳内チップでも埋め込まれてるんじゃないだろうな、俺。
流石にこの状況を見てヤバいと判断した玲。俺を守るように後ろから腕をまわして…ってこれ違う、守られてない。むしろ守らされてる盾にされてる。まわされた腕も首にかかってるから若干苦しい。きつい。
しかし悲しいことに玲にそんなことを考えている余裕はない。玲も必死なのだ。そうだよね、俺でも必死になる。
玲の顎を見上げるような視点になっている俺は、玲の控えめでも柔らかい胸の感触を後頭部に感じながら成り行きを見つめている。…なんかいけないことしてる感じになってるな。
ここからは見えないけど、多分先生も状況をよく把握しきれていないだろう。いきなり機嫌よく俺に話しかけ出した丸宮と、その話し相手である俺の首を締め始める玲。困惑するに違いない。
玲は威嚇するように丸宮を
薄れていく意識の中、俺が耳にしたのは珍しく玲が動揺した声で叫んだ言葉だけ。
「マ、マルもあーさんのストーカーだったんすかー!?道理であーさんの部屋にあたしが仕掛けた覚えのない監視カメラがいくつもあると思ったっすー!」
いや、俺のプライベート。どこ?
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