第98話 自分が大切に想われていることを忘れないで
「何してるんですかさっきから。家に帰ってくるなり壁から床の隅々まで舐め回すように調べて…不気味ですよアヤくん」
呆れた顔で嘆息する幼馴染。だがまぁそれも致し方ない。夜遅く…といっても十時だが、その時間に帰宅した同居人が部屋の中を忍者もかくやという様子で這い回りだしたのだ。これには驚くなという方が無理がある。というか自分でも何やってるんだろう感が強い。
だがそれもやむを得ないことである。決して幼馴染に興奮してじっとしていられなくなったとかではない。もっと…そう、大切な目的なのだ。俺がこうも壁や床を這い回っている原因となったのは塾での出来事。
丸宮と玲は間違いなく俺のストーカーだと明言した。直接言ったわけではないにしろ、あれは俺が聞いている時点でそういった宣言に他ならない。
…一応可能性としてあるのは、玲が丸宮に調子を合わせて冗談を言っただけだという可能性だが…まぁ、これはないだろう。
そう俺は自分の中で浮かんだあり得ない可能性を否定した。玲はどういう人間かと問われれば、やはり快楽主義者だと俺は知っているから。自分が楽しいと思うことには全身全霊で打ち込むし、自分が興味を持てないことや価値を見出せないことには一切情熱を注がない。たとえそれが現代社会において凄まじく重要視されている学歴というものであってもだ。だから玲があれだけ敵対する丸宮に調子を合わせるということがそもそもあり得ない。だってそんなの、彼女にとって楽しくないから。
いつだったか、俺に絡む理由を聞いたことがある。なんで俺なんかに玲はずっと関わってくるのか、と。自分の価値に見切りをつけているというわけではない。それなりに裕福な家庭とそれなりの容姿、それなりの運動能力とそれなりの学力。どれをとっても平均以下ということは多分ない。でもそれは同時に一つも群を抜いているものが無いということを意味していて。
だから聞いてみたのだ。ファミレスで阿賀野が聞いたときのように軽い気持ちで。
…で、結果から言うとはぐらかされた。阿賀野が聞いたときのように、惚れ直したら教えてあげるとかそんな約束すらなく。その時の答えは俺としても満足のいくものじゃなかったから記憶は曖昧だけど…それでも確かに覚えていることはある。俺が「どうして」と訊くと、玲はしばらく迷ったあと、困ったような笑みを浮かべて「楽しいからっすかねー」と言ったのだ。
だから多分、彼女は俺という存在を何か特別な玩具のように考えているのだと思う。決してそれが軽薄だとか咎めるような真似はしない。彼女にとって楽しいと思われているうちは好きなだけ俺で遊べばいいと思う。気に入られている理由としてはちょっと不足気味かとは思ったけど、多分嘘じゃない。
で、これで何が言いたいかというと、玲は丸宮に楽しいという感情を抱いていないから丸宮と結託しているということはあり得ない、ということだ。いやまぁ喧嘩してる時点でそれもまぁある意味明らかではあるんだが、本当に楽しみを見出しているなら一緒に輪の中に引き込もうとする。あいつはそういうやつだ。相手がどんなに強情でも、その隙間をついて一気に自分の仲間に加えてしまう。そんなやつだ。だけど丸宮に関しては、あの玲が明らかに一線を引いている。突き飛ばすことはあっても引き込むことはしない。間合いに入ろうとしない。だから多分、玲と丸宮が互いに調子を合わせているということはない。
反対に丸宮が冗談を言っている可能性もないことはないが…これもまた、非常に薄い。なぜなら俺が丸宮とそんなに仲良くないから。そもそも俺と丸宮は本当に顔見知り程度の関係だ。名前を知っていて、顔と年齢くらいは知っている。塾に行けばいつでも顔を合わせる相手だから、必然的にそれくらいは覚える。生徒数も決して多いとは呼べない小規模な塾だから。
…でも、逆に言えばそれくらいしか知らない。それが俺と丸宮の関係だった。勉強を教えてもらうわけでもなければ、世間話に花を咲かせるわけでもない。授業は同じだけど、丸宮は自分から壁を作って…まるで意識的に俺を遠ざけてるみたいな雰囲気を出してる。だから俺もそれを察して不用意に近づかないようには気を付けてる。だから丸宮が俺のことで冗談を言ったなんてことはありえない。
「…だからといってストーカー発言を信じるのはおかしいんだけどな」
そう、おかしい。冗談がありえないのなら、ストーカー行為に目覚めるのはもっとおかしい。仲良くない相手に冗談を言う方がまだ現実味があるというものだろう。
しかし俺としてもあの情報の正確性を無視できない。俺の身内の誰かに聞いたとかならそれはそれでいい。エレナも姉さんも病的に俺のことを知り尽くしている。だからそこからの情報なら頷ける。
でももし本当にカメラが仕掛けてあったのなら?そうなるとまた話は変わる。
俺のプライバシーがないのならまだいい。いや全然良くないけど、比較的まだマシな方だ。姉さんやエレナはもちろんとして、灯や暁那、母さんは当たり前のように俺の風呂に突入してくる(暁那は表面上男なので俺とサシになる対面でしか出現しないレアキャラではあるが)し、恵や澪だって油断ならない。実際に一緒に風呂に入ったりベッドに潜り込まれたりしているわけだし。
だから今更俺のプライベートが同級生の女の子二人に見られたところであまり問題はない。
けどエレナのプライバシーを侵害されるとなればまたそれは別なわけで。俺が世界で一番大切に思っている女の子。その彼女が意図しないところで見物されているとなれば心中穏やかではない。
まぁその本人は不思議そうな目でこちらを見ているわけだが。
そりゃそうだよね、不思議だよね。帰ってきた幼馴染が手洗いうがいよりも先に部屋中調べまくってるからそりゃ不思議だよね。
「あの…もう一度ききますけどどうしたんですか、アヤくん」
「あー…その、盗聴器とか…あるかなー…と」
「は、はい?」
うん、そうだよね。おかしいよね。壁に張り付くのをやめてエレナの正面から真面目に話そうと思います。
「今日さ、塾で知り合った女の子がさ」
「…へぇ?女の子、ですか。随分モテモテなんですね。よかったですね」
いや全然良くないけど。今割と真面目に身の危険の話をしているんですけど、微塵も伝わってないよね危機感。むしろ俺が危機感を感じている。
若干目元が翳ってきたような…気のせいかな。眼光は白く鋭く…まるで抜き身の刃みたいな鈍い光を放っている。真剣を持った人間と相対しているような緊張感を味わっているわけだけど…なんで?
俺のことを見据えるエレナはそのまま続ける。俺の話全然終わってないのに不公平だ。
「玲ちゃんのこと、あの子の前ではあんまり言ってなかったですけど、私結構不安なんですよ?アヤくんには分かるかどうか知りませんが」
その表情は浮気してきた男を徹底的に問い詰める女房の姿にも似ている。いや、追い詰められたことないけど。ほんとだよ?
怒っているのか…はたまた悲しんでいるのか。どちらともつかない声音だ。
「玲ちゃんはいい子です。優しくて柔らかくて人懐っこくて、何よりアヤくんのことが大好きで。微妙に好きのベクトルが私とは違うような気もするんで比較するのはどうかと思いますが…それでも愛情の大きさは私とそう変わらないものだと思ってますよ」
「ちょっと待ってエレナ俺の話を…」
「いいから聞いてください」
はい。怒られてしまった。ベッドの上に腰掛けるエレナと床の上に正座する俺。もう完全に尻に敷かれてない?
「アヤくんは私のことを世界で一番好きだと言ってくれますよね」
「それは本当に——」
「はい、分かってます。というかそんなんも分からないんじゃ幼馴染失格です。いいですか?アヤくんは私のことが世界で一番好きなんです。確認するために言ってみましょうか」
「…?えーと…俺はエレナのことが世界で一番好きです。愛してます」
なぜか照れるエレナ。頬を赤らめて視線を俺から逸らして…可愛いなぁ。多分今、俺すっげえ変な顔してると思う。戸惑いながら愛の言葉口にしてるから。
「…そ、そこまで言ってとは言ってないです」
「ごめん?」
「いや、嬉しいんでそれはいいですし…牽制できたのでむしろ…」
「エレナ?」
嬉しいってところまでは聞こえたけど…最後の方は声がくぐもってよく聞こえなかった。でもまぁ嬉しいならいいか。嫌ならもっとはっきり言う子だ。もし何か嫌なことがあったらまた俺に伝えるだろう。
「…は、話を戻しますよアヤくん。いいですか?私が言いたいのは、私の目の届かない範囲でアヤくんが評価されているということに危機感を感じているということです」
一呼吸おいて。
「別にアヤくんが誰かに好きだって言われるのは問題ありません。むしろそのアヤくんに想われている身として光栄ですらあります。もっとアヤくんはモテていいんです。もっと素敵な人間になっていいんです…いいんですが…」
そこで若干語気が弱くなる。急に不安そうな印象に。
「…アヤくんの心が私から離れるとは思っていません。ですが他の誰かに少しでも好意を持ってしまったらと考えると怖いんです。関係を断ち切れとは言いません、というか言えません。これはアヤくんの人生であり、私は介入することはできませんから。だから忘れないでください。私のことを好きだってこと」
「エレナ…」
「もう離れ離れになるのは嫌なんです」
「…!」
ここで初めて、彼女の目にうっすらと涙が浮かんでいることに気がついた。綺麗な瞳がいっぱいにそれを湛えているのに、ようやく。彼女は俺の知らないところで、途方もない不安に駆られていたのだ。
だが考えてみれば当然だ。だってエレナが他の男子にベタベタくっつかれて、それでも満更でもないみたいな顔していたら俺だって悔しくてたまらない。姉さんや母さんは別枠だと考えても、俺にとっての玲や恵、澪みたいな男がエレナの近くにいたら。きっと俺はみっともなく腹を立てて、それを無理やりにでもぶち壊そうとしただろう。
…それでもエレナはそれを抑え込んで。あろうことかその相手と仲良くすらしようとして。
そのことに気がついて、今更ながらに目の前の幼馴染の持つ器の大きさに感服した。今すぐ地面に額を擦り付けて謝りたい気持ちで胸が埋め尽くされて俺は思わず叫んでいた。
「…っ、ごめんエレナ…俺、なんもお前のことわかってなくて…自分勝手で不安ばっかり植えつけて…最低だ…」
悪気はない。弁明しておくと悪気はない。明らかに上記を逸した付き合いではあるが、それでも俺は友人から彼女らをランクアップすることは無い。
だがそんなもの俺が勝手に決めているだけだ。側から見ている幼馴染からしたら、俺がどう思うかなど知ったことではない。
「アヤくん…」
そして彼女もこれを否定しない。優しいエレナのことだ。俺が今口にした程のことは思ってはいないだろう。けれど否定しないということは少なからず思うところがあったということで。
感情のピークもいくつかあっただろう。
俺が恵と話しているところ始めて目にしたとき、エレナは氷を彷彿とさせる殺人的なオーラを一瞬だけ発したことがある。
他にも思い当たる節はある。俺が灯と出会ったときのこと。小柄で華奢で、みすぼらしい姿をしていた灯を、俺はエレナと恵の反対を押し切って助けた。あの時もきっと、心の中はぐちゃぐちゃだっただろう。自分がいない間に知らない女の子が俺と親しげに話している。それだけでも悔しいだろうに、そこにいた知らない女の子をも当たり前のように助けた。
…俺がエレナの立場ならきっと耐えられない。
必死に謝って許しを乞う俺。恐らく惨めだろう。だがそれくらいしか俺にできることはない。
しかしエレナの言葉は落ち着いていた。感情は満ちていたけど、俺のように乱れることは決してなかった。
「…大丈夫です。それに勘違いしないでほしいんですが、先ほども言ったように周りの人との関係を全部断ち切れとかいうつもりはないんです。むしろアヤくんをアヤくんたらしめている周囲の方々の存在は、きっと大切なものなんだと思います」
「……」
俺はそれを黙って聞いている。彼女に俺が意見する権利などないし…そもそもまともな意見など、今の俺にはできそうもなかったから。
「それにアヤくんはさっき女の子…って言いましたね。多分それは玲ちゃんとは違う女の子だと思います。私は玲ちゃんと面識があるのにあえてぼかす必要はない…そう考えると玲ちゃんの他にもいるんですよね」
俺はこの状況を説明しようとする言葉を探して…それでもいいものが見つからなくて、静かに頷いた。
「その子についてアヤくんが何か話すということは、多分嫌いでは、ないんですよね」
「ああ…苦手意識は少しあるが…努力してる、すごいやつだとは思ってる」
こんなことを話して何になるのか。
エレナは辛くないのか?
俺は辛いよ。
不安そうな自分の好きな人の目の前で、他の女の子の話をするのは。
それでもその気持ちは言葉に出ない。出す勇気が、ないんだよ俺には。
少しだけ話して黙っている俺の頭をエレナは…少しだけ撫でた。心配するな、そう言いたげな優しい手つきだった。
「——その子のこと、もっと聞かせてくれますか?」
「…なんで」
子どもみたいな反応だった。でも俺からすれば本当になぜだかわからなかった。だってエレナはさっき怖いって言ったじゃないか。
「ダメですか?アヤくんの周りの人のことをもっと知りたいと思うのは、間違っていますか?」
嘘だ。
俺には分かる。きっと今この瞬間でさえ、エレナは不安だと思う。
それでも俺に聞いてくるのは…最初に俺がこの話をしようとしたから。
平たく言えば、話を戻そうとしてくれているのだ。
…盗聴器とかカメラとかの話もあったし、ここは説明しておかないと。ここは幼馴染の優しさに任せるとしよう。
「構わないけど…聞きたいか?」
「はい!…敵を知り、己を知れば百戦危うからず。私にとっても有益ですし、何より最初にその子のことを話そうとしてましたよね?だからいっぱい話してくださっていいんですよ」
エレナは翳りを消して、涙をそっと拭って薄い微笑みを浮かべた。それは少しだけいつものエレナに近い、自然な微笑みに近かった。だから続ける。
拳を握り締めて、一手も間違えないように深く気を配って。
「そうだな…何から話そうか。彼女は…丸宮って言うんだが、そいつはすげえ頑張ってるやつなんだ」
「凄いですね…アヤくんがそういうなら恐らくとっても頑張ってるんでしょう。お勉強ができる方なのですか?」
「勉強が出来るって皆は言うけど…多分それは違うと思う」
俺の中で、丸宮結衣という人物を思い浮かべてみる。生意気そうな瞳はオニキスのように至極の輝きを放っていて、黒いのに汚れを知らない。純粋の代名詞はエレナのような白さだと思っていたけど、今日見たあいつの瞳も同じくらい純粋だった。
「あれは努力を積み重ねてるだけなんだ。一生懸命というよりも、その…一心不乱に。正しいとか間違ってるとか、そういう理屈を無視して数字だけを鬼のように求め続けてる。何がそうさせるのかは俺には分からないけど…取り憑かれたみたいに勉強してる。人によってはガリ勉だとか根暗だとか言ってるが…俺はすごく——」
その先は、俺の言葉で言うべきか迷った。こんなことを言ったら目の前の大切な幼馴染は傷ついてしまうんじゃないかって思ったから。でも言った。これ以上的確な言葉を知らないし、変に誤魔化すのは聞きたいと言ったエレナにも失礼だろうから。
「——偉いなって、思う」
「えらい…?」
「うん。偉い。誰よりも頑張ってる姿を見てると、本当に偉いな、すげえなって褒めてやりたくなる」
まぁ俺はそんなに仲良くないし壁展開されてるからそんなこと出来ないんだけどな、と付け加えた。それを聞いたエレナは何故か嬉しそうだった。自分ではない女の子が褒められているはずなのに。それはまるで、三者面談で娘が褒められるのを聞いている母親みたいで。
「まぁこれは俺の予想なんだけどさ…多分あいつは現状に満足してないんだって思うんだ。いっつも俺のことを馬鹿だとかクズだとか呼んでくるのは多分その…真ん中のレベルで妥協してるからだと思う」
あれほど努力している人間だ。不甲斐ない人間を見るのはどうにも気に食わないのかもしれない。努力というのは一朝一夕ではどうにもならない。喩えるなら薄い紙片の積み重ねだ。けれど受験という場においては残酷なまでに合格と不合格という結果が出る。あと一枚積み重ねていれば…そう嘆くことになるかもしれない未来を見据えているからこそ彼女は努力するし、努力していない俺を見下しているのだと思う。
けれど目の前のエレナは何故か呆れたとでも言わんばかりに肩を竦めて、
「それは違いますよ、アヤくん」
小さく笑った。
「…え?」
「違う、って言ったんです。本当に賢くなるのは勉強方面だけですよね、あと性知識ですか」
「なんで俺この流れで馬鹿にされてんの」
エレナは楽しげに笑う。その姿はあまりにも可憐で、西洋の御伽話から飛び出してきたお姫様と見紛うレベルだ。
そのお姫様は俺にバッサリと言う。
「女心は一つも分かっていないんですねアヤくんは。優しいのとヘタレなの、全然違うっていい加減気付いたらどうですか?いいですか、好きな男の子に誰もが私みたいに素直になれるわけじゃないんですよ」
「は、はぁ…?」
「なんですかその腑抜けた態度は。もっとしゃんとしてください」
「は、はい!」
「よし、それでは続けますね?いいですかアヤくん。あのですね、その女の子はアヤくんのことがきっと大好きでたまらないんです」
「いや、それは無「黙っててください」
発言権、無しかよ。
「考えてみてください。アヤくんは嫌いな人がいたらどうしますか?」
「そりゃ避けて関わらないように…」
「そうですよね?嫌いな人にわざわざ悪口を言いに行ったりしませんよね?多分関わるきっかけが欲しいんだと思います。好きな人に自分からアピールするのは簡単なことじゃないんですから、ある意味当然と言えます。玲ちゃんや私みたいなのが特殊なんです」
「そりゃお前みたいなのは特殊だろ。幼馴染だし…いやまぁ玲は言われてみれば珍しいかもだけど」
エレナは生まれた頃からずっと一緒にいる。下手したら母親よりも先にエレナのことを認識したかもしれない。母親と間違えて誰かに抱きついたり手を握ったりすることはあれど、エレナのことを間違えたことは一度もない。昔からどんなことがあっても俺はエレナと歩いてきた。障害があれば二人で乗り越えて、壁があればその都度ぶち壊して。
だからエレナが俺に気兼ねしないのはある意味当然だ。
玲は誰に対してもあんな感じだから特例と言われればそうなのかもしれないが。
「悪口でも立派なアピールです。大体何ですか馬鹿とかクズとかって。その子勉強が得意なんですよね?」
「あぁ…俺が見た中で一番好成績。全校舎合わせても一位って聞いたが」
「そしたらもちろん文章にもたくさん触れるはずですよね。そんな小学生どころか幼稚園児ですら知っていそうな言葉を選ぶと思いますか?」
…確かに。そう言われればエレナの意見にも納得できる。もう少しボキャブラリーがあってもいいのではないだろうか?この子なら本当に人間の心を折る言葉を選べるんじゃないだろうか。
「そういうことですよ、アヤくん。本当に傷付けたいわけではないんです。彼女はきっとアヤくんのことをすごく大切に思っている。それでも自分から話しかける勇気があるわけでもなくて。だからこそ、こうした陳腐な悪口を言っているんじゃないでしょうか?」
「でもあいつ、常に教室に入ると俺の方見て関わるなってオーラ出してくるんだけど…」
「それ、本人に聞いたんですか?」
「いや、聞いてないけど…」
「じゃあただの思い込みじゃないですか、なにそれ童貞ですか?」
「ど、童貞ちゃうわ!」
「知ってます。だって私といっつもえっちしてますよね。だから言ったんです。今更何言ってるんですかって。童貞じゃないのに童貞とかエセ童貞ですね。童貞に謝罪してください」
「その暴力的に可愛いルックスで童貞とか連呼すんな馬鹿!?」
下手したら金取れるぞこの映像。VRで発売するか?目の前で美少女が童貞を連呼する映像。うん、短い動画でも100円くらいなら出す人いそうだ。
「いいじゃないですか別に。アヤくん以外の男の子は誰も聞いていませんし。なんなら淫語でもなんでも言いましょうか?おっぱいとかおちんぽとか…って何おっきくしてるんですか。空気読んでください」
無茶言うな。
男性の95%が興奮するわ。
俺の股間を遠慮なしに足裏でふみふみなさるエレナさん。いや、ちょっと気持ちいいなこれ。
「もしかしてアヤくん、その丸宮さんに罵倒されて大きくしてるんじゃないんですか?指導が必要ですか?」
軽蔑の眼差しで俺をご覧になるエレナさん。悪くない。むしろいいのでは?今まで馬鹿にしてごめんな阿賀野。俺もそっちへ向かうよ。
「大きくはしてないですけど指導は欲しいです」
「変態ですか?踏まれて気持ち良くなってる時点でもう疑いようもありませんが、変態ですか?」
…?そういうプレイ?でも俺はそういうドM系な性癖があるわけではない。エレナが好きだから反応してるだけ。…本当だよ?
「大きくするのは多分俺の男友達の阿賀野かな…あいつそういうASMRよく聞くって言って玲にガチトーンで『キモ』って言われてるし」
「私が言ったらアヤくんは興奮しないと?」
「しますが?」
「丸宮さんが言ったら?」
「するわけないでしょ、何言ってるのエレナ」
「よし、合格です」
一切わけがわからなかった。エレナはなぜか勝ち誇るかのようにポーズを決め、ベッドの上に立ち上がる。さながら勝利したボクサーのようだった。俺も隣で彼女の腕を持ち上げてボクサーごっこに参加。
「では優勝したエレナさんに感想を伺いたいと思います。まずは優勝おめでとうございます」
「これヒーローインタビューじゃないですか?野球の」
「いいから」
「まぁいいですけど…はい、ありがとうございます」
「勝利を掴み取ったわけですが、何がその勝利を決定付けたと思われますか?」
質問しておいてなんだけど、こいつ誰に勝ったんだ?
「そうですね…明確な勝因というのはうまく説明できませんね。特にこれ!といったものはないと思います」
「ではただの運だと?」
「いえ…アヤくんと過ごした時間、アヤくんに対して研究を重ねた時間、アヤくんのおちんちんを触っていた時間…どれをとっても圧倒的に対戦相手とは格が違いましたので」
「何言ってるのこの痴女」
「大体私に勝とうとかまだまだ甘いですね。言葉だけでアヤくんのアヤくんを元気にするくらいの実力は対戦相手にはなかった、それだけです」
「うーん素敵な言葉のように聞こえるけどただの下ネタだねぇ」
「そんなことないです。相手も同じようにアヤくんのことが大好きですから、身体が反応してくれないとやっぱり悔しいと思います」
「いや知らんが…では対戦相手に送る言葉をお願いします」
マジで仮想敵を誰にしてるのかは分からないけど…まぁ続けておこう。
エレナは俺の言葉を聞いた瞬間、壁とクローゼットの隙間に向かって全力で視線を注いだ。なんだよ、何かあるのかよそこに。
「えーと、カメラとマイクはあっちですよね。ではあっちに向かって言えばいいんですね?」
「…カメラ?マイク?」
「はい、対戦相手へのメッセージは特に目を見て言ったほうがいいと思ったので。ではまず玲ちゃん」
「玲…ちゃん…?」
ここまで言って血の気が引いた。そうだ。俺はなんのために床や壁を這いまわったんだ?
あるかどうかも分からない…何かを探していたんじゃなかったか。
そう、監視カメラと盗聴器。
カメラ。
マイク。
「おいまさかエレナ」
「玲ちゃん、ごめんね。見ててわかったと思うけどアヤくんは私のものです。心も体も私のことが大好きすぎて、ダメになっちゃってる。だから仲良くしてあげてほしいんだけど…でも、アヤくんには私がいるから」
そしてエレナは新しくできた友達へのメッセージを終わり…まだ見ぬ敵の瞳の奥を覗き込む。
一つ深呼吸をして、静かな闘志を迸らせるとびしっと音がしそうなくらいに真っ直ぐ指を突きつける。画面越しに銃口を向けるようなその振る舞いはさながら、宣戦布告。
「丸宮さんでしたっけ。いくつか言いたいことはあります。でもはじめにこれだけは言わせてください」
一言そう言うと、エレナの周りに氷のようなオーラが満ちる。金縛りにあったかのような感覚が俺を襲って、瞬きすら困難だ。この様子だと、画面の向こうにすらそれは伝わっているだろう。
それは敵対するものを軒並み凍らせる、絶対零度の息吹。
激昂する氷の化身は相手の心の奥の奥まで覗き込んで…冷徹な刃を振るう。
その息遣いに、微塵も容赦は無い。
「やってくれましたね」
それ以上は何も言わない。だがその一言は何よりも重くて、直接矛先を向けられているわけではない俺でさえ少し震えてしまう。
「この部屋に忍び込んでカメラと盗聴器を置いていったことは別にいいです。分かってて見逃していましたから。あ、玲ちゃんにも言ってますからねこれ。…気づかないとでも思っていましたか?あんな杜撰な侵入の仕方、気がつかないのはアヤくんだけです。お母さんもお姉様も、暁那くんや灯ちゃんだってみんな気がついていましたよ。蝶番のシャー芯にも扉に挟んでおいた紙片にも、足元に張っておいたレーザーにも気がつかないのでコソ泥かと間違いそうになりましたよ」
「気付くわけねえだろ」
忍者屋敷か俺の部屋は。
「いいですか、別にアヤくんを狙うことが悪いとは言いません。私だってあなたの立場なら狙うと思います。目につかない場所で心を奪おうとするでしょう。できるとは思えませんけどね」
だからそれは構わない。
むしろ奪えるものなら奪ってみろとでも言いたげな挑発。
俺は改めて自分の幼馴染の怖さに戦慄した。頼もしいけど絶対敵に回さないようにしないと。
「ですが、忘れないでほしいことがひとつあります」
ふと。
エレナは纏っていた殺意を霧散させて穏やかな口調になった。
横顔しか見えなかったけれど…その表情はどこまでも優しくて柔らかく、慈愛に満ちている。
相手を愛しむ大天使のように、言葉を紡いでいく。
「そんなに不器用な言葉を使わなくても、あなたが頑張っていることをアヤくんは知っています。先程までアヤくんはここに本当にカメラとマイクがあることすら忘れて、あなたのことだけを思い浮かべながら、話をしていました。無理して悪口を言わなくたって、アヤくんは貴方のことを大切にしてくれています。それだけは絶対、忘れないでください」
そのことを忘れると、いつかの私みたいになってしまいますから。
一気に廻り続ける展開に動揺する俺を完全に置いてけぼりにしたまま……エレナは一言だけそう付け加えて、一方的に装置の電源を落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます