第96話 マーキング作業
玄関のドアを開ける習慣が無くなったのはいつだったか。エレナが帰ってきてそう時は経っていないはずなのに、玄関の前に立つだけで勝手にドアが開くことに疑いを持たなくなった。
日が暮れる前に家にたどり着いた俺は、今日もいつもどおりエレナに出迎えてもらっていた。可愛い幼馴染に出迎えてもらえるなんて、きっと俺は世界一幸せな人間に違いない。
幸せというものはいろいろある。美味いものを食う。いい洋服を着る。好きなアイドルのグッズを買う。おもいっきり寝る。みんなで一緒にゲームをする。
幸せの形というのはもともと定義されるべきものではない。自分が幸せだと思った瞬間こそ幸せなのだ。そして今俺は幸せだった。
「おかえりなさいアヤくん!待ってましたよ!」
俺を目にした瞬間音符マークを浮かべて笑顔になるエレナ。それなりに伸び始めた白い髪が舞い、それなりにたわわな胸元が踊る。正直発育が良すぎる気もするのだが、そんなことを指摘してしまっては意識しているのがバレバレだ。なんでもない様子で「ただいま」とだけ言って家に帰ると、荷物をすぐに二階の部屋に置きに行く。こうしておかないと次に出掛ける時、どこにあるか探さなければならなくなってしまう。入り口の近くにあるフックに荷物をかけるまでがルーティーン。
「今日も疲れたな…っていうか、ここ自分の部屋に帰ってきたって感じがしないよな。いっつも思うけど」
「アヤくんのお部屋ってより私たちの愛の巣ですからね」
「エレナってそういう表現詳しいよな。ロシアのくせに」
「なんですかなんですか。冬のモスクワに捨てますよ」
怖い。ロシア国民、怖い。一説によれば国の長は熊に跨るらしい。まさに金太郎と言ったところか。不満げなエレナは俺の背中側から思いっきり抱きついて耳たぶをがじがじやってくる。拗ねたりむくれたりするときのエレナの癖だ。
「大体私基本的に日本ですよ育ったの。父がロシア語をずっと話すので私も話せるようにはなってますが、ほとんど知識というか習慣というか、そういうのは日本です」
「いやまぁ、そうだけどさ…痛い、痛いですエレナさん。どうして耳を噛むんですか?」
あんまり知られていないが、エレナの歯は意外ととんがっている。それが柔らかい耳朶に結構深めに刺さる。
「なんですか。なんなんですかエレナさん…」
「んっ…はぁ…ん、ちゅ…」
流石に動揺を隠せない俺。しかし何故か身体は硬直して上手く力が入らない。温かくぬらりとしたエレナの舌が耳の凹凸を丁寧になぞっていく感覚にゾクゾクと鳥肌が立つ。なのに脳が拒むことを忘れてしまったかのように、その生暖かい感触を受け入れ続ける。
普通に考えれば不快だろう。だが相手が相手だ。可愛くてずっと大好きな幼馴染だ。歳も同じの、天使みたいな美少女。その事実が不快さではなく快感を引き連れてくるのはもう当然のことで、身体が震えるのを抑えながら耐えることしかできない。
「アヤくん…ほかの女の子の匂いがしますよ」
「っ…そうか?」
「だから私の匂いを擦り込もうと思います。今から」
耳元で囁く柔らかい声。脳髄を蝕んでいく麻薬のようにそれは全身へと巡る。恐らく劣情をここまでかき立てる音声など、世界中のどこにも存在しないんじゃないだろうか。
エレナの細いしなやかな指が、俺の服の隙間から侵入してくる。身体のラインを確かめるように、妖艶な手つきが身体を這い回る。
程なくして、俺はベッドの上に押し倒された。いつもエレナと二人で眠っているベッドだ。スプリングが軋んで、わずかな反動で俺を押し返す。
…普通、逆じゃないのかなコレ。
「あの…エレナ、もう少ししたら夜ご飯なんじゃ…」
「じゃあ今は一回だけにしておきましょうか。夜また続きすればいいですし」
だめだ。通じていない。こうなるとエレナはダメだ。話を聞かなくなる。とはいえエレナと身体を重ねるのはこれが初めてというわけでもない。だからある程度勝手も分かる。分かるがどうしてこうなっているのかが分からない。
その疑問をエレナは俺の表情から読み取ったらしく、ペロリと唇を舐めてから口角を上げた。
「だってアヤくん、今日玲ちゃんといっぱい仲良くしてたじゃないですか。よかったですね可愛い女の子がお友達にいて」
…なんだこれ。浮気を暴かれる夫のような気持ちだ。愛人との浮気旅行から帰ってきたときの気まずさみたいな。こんな気持ちを味わうくらいなら絶対に浮気はしない方がいい。もともと浮気する気など毛頭ないが、今一度鬼を引き締める必要があるだろう。
あと、エレナは大概嫉妬深い。一度は恵とも一悶着あったようだ。恵も恵でそれなりに強情であるが故に、心理的状況がこじれていたらしい。俺も当事者ではないから詳しく知らないが。
「…その、着けてね」
「私飲んでるんで、大丈夫です」
「…そうだっけ」
「最近はちょっと重かったので、はい」
「そっか…まぁ無理はすんなよ。なんかあったら俺も手伝うからさ」
見つめあったまま硬直する。もう互いに、今更キャンセルする気は無いという意思表示だ。中学生で行為に及ぶとか、若者の性の乱れが叫ばれても文句は言えない。だがまぁそれはそれ、だ。
エレナは俺と鼻をくっつけるくらい近づいて笑みを浮かべた。何度見ても慣れない、エレナの扇情的な笑みだ。
シミひとつない肌、透き通るように綺麗な瞳、薄くて形の良い唇。
神が気まぐれに作った芸術品と言われても信じきれるほどの美貌の持ち主は、いつもの始まる前の挨拶を口にする。
「ねぇアヤくん。誰が一番好きですか?」
返答の代わりに、俺は余裕そうに微笑むエレナと強引に唇を重ねた。
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