第78話 雲間から差す光

 自室の天井の染みを数える方がまだ建設的と言えた。

 部屋の中をぐるぐると歩き回る方がまだ健康的と言えた。


 少なくとも、答えの出ない負の感情を胸中で飼い育てるよりはよほど。


 あの日アタシが見た光景は何だったのだろうか。自分が寝ぼけて誰かを見間違えたということであれば理想なのだが。

 生憎そんなこともあるはずが無くて。確かに最近妹の澪の様子がおかしいとは思っていた。けれどそれは凹んでいるだとか塞ぎ込んでいるだとかのマイナスな感情では無くて、むしろ前より視線を合わせることが多くなってきたくらいだ。だから何かいいことがあったのだろう、そんな風に考えていたのだが。

「宮野クン…」

 あの時見たアタシが恋焦がれる少年、宮野理人は今までにないくらい楽しそうだった。

 恐らく宮野クンに会って澪は変わったのだ。思えば最近顔を見る機会が増えたような気もする。

 きっとそれはいいことだ。澪は宮野クンと仲良くなったことでアタシに対する余裕が生まれてきた。喜ぶべき、妹の進歩。

 そんなことは分かっているというのに、どうしてこんなに胸が痛むのだろうか。もしかしたら病気なのかもしれない。そう思って出てきた結果は恋の病。腹が立ってパソコンをシャットダウンした。

 一々言われなくても恋がどれだけ重篤な病気かこの身をもって現在進行形で実感している。彼の笑った顔、辛そうな顔、怒った顔…そしてさりげなく見せてくれる男らしい顔。その全てに視線が吸い寄せられて、縫い留められたみたいに動かすことができない。そしてそれは自分以外に向ける柔らかい表情にも同じだった。胸が張り裂けそうでもどかしいのに、その表情が気になって気になって仕方がない。

 それは今日見た宮野クン――何故か澪と笑って話していた――にも言えることで。

 エレナさんや灯ちゃん、暁那さんみたいにアタシも関わりがある人間なら妥協して我慢できる。それも十分高飛車な意見だと思うのだが、自分にとっての感情なのだ、他にどうしようもない。

 だが澪がアタシの知らない間に仲良くなって、あまつさえあんな笑顔を引き出しているとなれば、心中穏やかではない。身勝手なのは百も承知だが、納得いかないのだ。アタシが毎日少しずつ関係を育ててやっと一緒に遊べるようになったのに、同じ親から生まれた妹は軽々と自分ができなかったことを成し遂げて、距離を縮めている。

 認めよう、アタシは焦っている。

 アタシは小さい頃からすべての分野において凄まじく活躍する妹を見て育ってきた。自分が頑張って積み上げた10よりも、賢い妹が積み上げた100の方が大人には面白かったみたいだ。決して澪はアタシのことを侮辱したりなんかしなかったが、周囲の人間が全員人の感情を考えて発言できるほど思慮深くはなかった。

『劣化コピー』『妹の方がマシ』『無能』…エトセトラ。途中からそんな言葉には耳を貸さなくなったが、きっとそれは慣れたんじゃなくて心が死んでいるだけなのかもしれない。宮野クンと過ごすうちにそう思うようになってきた。

 そして今アタシは、妹から自身の初恋すら奪われようとしていて。

 澪に悪意が無いのを分かっているだけに表立って反論できないのが悔しかった。自分がもっと無神経に相手を責め立てられる図太い人間だったらよかったのに。本気で何度もそう思った。


 結局夕食は、喉を通らなかった。残すのも悪いから、味を感じない口で咀嚼して水で流し込んで、トイレで全部吐いた。

 何がいけないのか分からなくて泥沼に陥っていく。折角見えた光に泥の中で手を伸ばして沈んでいく愚かな自分が心底憎たらしかった。

 ふらつく足でベッドに倒れこみ、死んだようにほとんど瞬きもしないまま時間を垂れ流して十数分くらい経った頃だろうか。

「…お、お姉ちゃんっ!」

「…っ!」

 反射的に身を強張らせた。アタシの耳朶を打ったのは控えめなノックと久々に自分から話しかけてきた妹の声。きっとドアの外では緊張した面持ちの澪がいるのだろう。普段なら嬉しくて鼻歌を歌ってしまいそうな出来事なのに、今は何故か明るい澪の声が胸を抉るナイフのように、ただただ痛い。

「あ、あのね、お姉ちゃんにその…お話があって…」

「何」

「…っ、お姉ちゃん、もしかして怒って…?」

 あれ、おかしいな。大好きな妹がわざわざ部屋に来て話しかけてくれたというのに、一体アタシは何に怒っているのだろう。気が付けばドアの前からもう澪の気配は消えていた。

 本格的にやられてしまっているかもしれない。自分が何をしたいのかが分からなくなってきた。仲良くしたかったはずではないのか。妹と一緒にカフェに行くのが夢だ。一緒にくだらないことで昔みたいに笑い合うのも、映画を見に行くのも、試験勉強だって一緒にするのが夢だ。その夢がようやく顔を覗かせたのに、アタシの余裕のない言葉がそれを振り払ってしまった。



 ―――


 夏休みに数度ある登校日。学校側が一応髪染めとかしてないか確認するために集めるだけの形骸化した授業日である。

「なぁ恵」

「どうしたの、宮野クン。アタシなら平気――」

「なぁ、恵」

「………」

 変だ。今日の恵の状態を一言で表現するなら、やはり変だ。授業中は何か虚空を見ているように時間を過ごしているし、給食だってほとんど空にしていた。普段は読書をして過ごす昼休みもなぜか虚空を見つめて何事かずっと呟いていた。

 放課後の教室で二人座って話をする。エレナと暁那には悪いが先に車に向かっていてもらうように伝えた。二人ともふくれっ面だったが、真剣に頼み込むと二人そろって『しょうがないですね、アヤくん(理人)は』と口を揃えて言ってくれた。

 窓から差し込む夕焼けが恵の顔を照らす。けれど恵の眼の下に濃ゆく浮き上がった隈は一切消える気配が無い。それどころかどんどんと悪化していっているようなそんな気すらうかがえる。

 …澪と本当に姉妹なんだな。こんなところで確信を持ちたくなかったというのが本音だが。

「どうしたんだよ、お前、変だぞ」

 単刀直入に聞く。ここで回り道をしても仕方がない。遅かれ早かれ訊くことになるのだ、恵もそれをわかっている。だから遠慮はしない、全力で踏み込んでいく。

「朝から何も手についてないじゃんか。心配だよ」

「…いや、アタシは別に平気だって」

「俺にはその資格すらないと。大切な友人が一日中廃人状態でも、心配するなと?」

「…そうは、いってない」

「言ってる。何も違わない。別に嫌なら嫌だって言えばいい。俺はそれ以上詮索しないししてほしくないことはしたくない。けどそう言わないってことはお前だって抱え込むのが限界ってことじゃないのかよ…!」

 思わず激しい口調になってしまう。いけない。勝手に心配しているのはこちらなのだ。ここでエゴをぶつけるのは得策とは到底言えないのである。

 それが分かっているから一度深呼吸して一言謝るともう一度訊く。

「…俺は信用できない?」

「それは卑怯。…分かった、ちゃんと話す」

 その言葉を皮切りに恵はぽつぽつと喋りだす。自分が長い間妹と上手くいっていないこと、そして最近妹が歩み寄ってくれるようになってきたこと。

 …妹が俺と仲良く話しているところを目にしてしまったこと。

 どうやら恵はそれがどうしても気に入らなかったというか落ち着かなかったようで。それでも理由を聞くのも失礼になるかと思い悩み。

 二日ほど徹夜して今に至るというわけらしい。

「あー…なんか話聞いててちょっと照れくさいんだけど」

「宮野クンが好きだって何度も言っているはず。自分の妹が知らないうちにその人と仲良くなっていたら動揺もする。考えても見てほしい。宮野クンに弟がいて、その人がエレナさんと仲良くなっていたとしたら?」

「…まぁ、確かにムカつくけど。かといって正面切って文句言える議題でもないな」

 ただ相手は一対一で対等に関係を持っているだけなのだ。これが無理やり近くにする寄ったりするストーカーなら大義名分が立つが、エレナ側が楽しそうにしていると両方とも話をすることすら危うくなってくるわけで。

「そう。だからこうなった」

「もうちょい早めに相談しような、な?」

「だって宮野クンはアタシのじゃないし」

「それはそうだけど、さ。抱え込んだままのお前を見る方が辛いって」

「今、恋する乙女に向かってそれはそうだけどって言った。流石は鬼、鬼畜。好き」

「お前ってもしかしてマゾなのか?」

「…あぁ、そういうのが好き?」

「待てよ人の性癖勝手に決めてんじゃねえ」

「あはは、冗談冗談…ふふ、ありがと。少し気が楽になった。で、聞いてもいい?」

「なんで一緒にいたのか、どうやって知り合ったのか、か」

 こくりと頷く恵。自分から言えと言った手前下手に嘘を吐くのも憚られる。けれど全てをまた全部話してしまうのも違う気がして。

「遊園地で会ったんだ。なんか澪のやつ、お前みたいだった。隈作って、辛そうで。俺も吐きそうだったんだけど、それでも心配しちゃうくらい死に体だったぞ」

「…澪が?そんなわけない。あの子に限ってそんなこと」

「あったんだよ。…これ、言っていいかわかんないからオフレコで頼むけど、恵と一緒に行きたかったんだと。遊園地」

「…!澪が!?」

 目を見開いて驚く恵。これだけで如何に恵が澪と話をしていなかったが想像できる。

「あぁ。ずっと誘おうとしてそれでも渡せなくて何日も悩んで寝不足で。結局ダメだったみたい」

「そっか…澪がアタシと…」

 ちょっぴり感動したようで何度か深呼吸をしはじめる。何度か繰り返して、体の中の淀んだものを絞り出すように大きく息を吐いて話の続きをするよう目で促す。

「んで、だな。この間俺と澪が会ってたことについてだけど…本人に聞いてくれ」

「むぅ…なんで」

 と、若干残念そうな恵さんだが、それでもしばらくするとふっ、と柔和な笑みを覗かせた。

「でもいいか。宮野クンが澪をたらしこんだとかその逆だったとかじゃないってことが分かっただけで、十分」

 絵本の続きをせがむような表情をした恵だったが、それでも表情は笑顔だった。力ない笑みだけど、空元気ではなく普段から見せている純粋な笑顔。

 戸締りと消灯をして教室を出る。




 やれることはやった。あとはおまえの番だ、今度こそしっかりな。


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