第76話 すれ違う心

「はぁ…」

 ため息が出る。アタシは家が嫌いだ。

 そんな何度も確かめてはため息をついた感情にまた今日も懲りずに向き合っている。決して貧しくはない暮らし。郊外に三階建ての一軒家を構えている時点でむしろ富裕層に近いとすら言えるだろうか。ご飯は毎日お腹いっぱい食べられるし、蛇口をひねればきれいな水が出る。テレビだって見ることができるし、欲しいものがあれば買ってくれることもある。

 …けれどやはり、なんど触れても玄関のドアノブは冷たかった。ヒグラシの声が耳朶を打つ。温かさの欠片もない、無機質な肌触りはうちの家庭内環境を代弁しているかのようで、皮肉なものだと笑みさえ浮かんだ。

「ただいま」

 そっけなくではあるが、しっかりと家の中にいる家族に聞こえるように挨拶をする。きっと聞こえているのだろう。それが分かっていながら来ないとは、やはり嫌われたものだと自嘲する。

 玄関にはいくつかの靴があった。丁寧に履かれていることが分かるクリーム色のスニーカー。ところどころ擦った跡が残るハイヒール。サンダルに役目を奪われて埃が積もり始めた茶色の革靴。散らかった革靴を押しのけるように靴を脱いで妹ほどではないけれどきれいに並べて置いておく。

 一階のリビングにはカップ麺のゴミがそのままにしておいてあった。それを文句も言わずにゴミ袋へ放り込む。机の上に残ったスープの染みが汚らしい。

 二階へ上がる。階段を踏む足取りはどうしても重たく、一段ごとに鬱屈とした気持ちが積もっていく。

「…はぁ。なんつー顔してんだよお前。もっと妹みたいにガキらしく笑ってろ。気色悪ぃ」

「ごめんなさい、お父さん」

「…はぁ、もう行け」

「はい」

 感情を押し殺した声が癇に障ったようだったが、三階へと登り始める私をわざわざ呼び止めるのも面倒だったのか、大きなため息をついてソファに座りなおした。

 そっと胸を撫でおろして三階へ上がる。三階に行くまでの階段は少し段数は増えるが、二階まで行くときと比べてその足取りは軽やかだったように思う。

 三階にはアタシの部屋と妹の部屋。トイレと倉庫があるだけの質素な空間だ。一階のリビングや客間、二階のシアタールームなんかに比べれば如何に無機質かは分かってもらえると思う。

「…お、お姉ちゃん」

「澪、ただいま」

「…うん、え、えと……」

「どうしたの?」

「えっと…あのね……ぉ――」

「何も無いならお部屋に戻るね。今日も学校でお仕事お疲れ様」

 妹にねぎらいの言葉をかけて自室に入る。あんな風にほとんど言葉を交わしてくれない妹だが、それでもアタシの大切な妹だ。彼女が部活で三年生を差し置いて全国大会に出場し、学年でも最高クラスの学力を持ち、生徒会のお手伝いをしている彼女は天才少女と近所では小さな有名人だ。けれど私は知っている。毎日部屋で頑張って勉強しているのを知っている。部活がある日は全力で部活に打ち込み、一度声がかかれば生徒会で着実に仕事をこなす。自らの時間を返上して努力している彼女に憧れこそあれ嫉妬や羨望なんてのは存在しない。

 アタシのように何の成績も納めず細々と人生を食いつないでいる人間と同列に語るのは基本的におこがましいことなのだから。

 部屋の中に逃げるようにして飛び込むと、そこにはやはり女子らしい可愛げなどないスチールラックがそこかしこに置かれていた。

 趣味というものはあまりない。強いて言えばカメラとパソコンだろうか。カメラは特にいい。どんな綺麗な瞬間も永遠にとっておけるし、望まない瞬間はすぐさまデータ消去できてしまう。

 妹と笑い合っていた幼い頃の写真を未だに消せずに待ち受けにしている自分がみじめで嫌いだ。アタシが並びたてる存在ではもうなくなってしまったと認識するのは抵抗があったが、今ではもう慣れてしまった。否、諦めてしまったというほうが正しいか。

 パソコンに自分の冴えない顔が映りこむ。自分でも決して整っていないわけでは無いと思える顔立ち。けれどその瞳にはあまり生気は無く、頬が引きつっているように見えてどこか不気味だった。

 今アタシの頭の中は両親の冷たい眼差しと妹との距離…そしてアタシにとっての希望である、一人の少年のことでいっぱい。



 ―――


「行っちゃった…」

 自分でも情けない限りです。何度試しても言葉が喉につっかえてうまく出て来てくれないのはどうしてなんでしょうか。いつものようにお姉ちゃんは一方的に自分に優しい言葉をかけて行ってしまいました。今日もおかえりって言ってあげられなくて申し訳なくなります。お姉ちゃんは毎日だって言ってくれるのに。

 どうしてこんな私に優しくしてくれるのかは分かりませんが…。

 しょうがないのでお姉ちゃんの為に飛び出してきた時に開きっぱなしだったこともあってぼろぼろに負けているテトリスの画面を消して机に向かいます。運のいいことに私には運動も勉強も人づきあいも得意でした。もしかしたらお姉ちゃんの支えになるかもしれないと日々努力を続けています。そして最近ようやく努力が実ったように感じます。理人さんというお兄さんと出会って、私はようやく、姉が気に入る理想の存在を明確化できました。

 お姉ちゃんが喜んでくれるなら私はなんだってできます。なんだってしたいんです。たとえそれが間違っていたことだとしても。

 あ、そうだ。お兄さんに手伝ってもらいたい案件があるんでした。明日は予定よろしかったでしょうか。

 お兄さんの事を考えると暖かいのにどきどきしてきます。なんでか知らないけどじっとしていられなくなって、自分が自分じゃないみたい。浮足立つって感覚はこういうことを言うんでしょうか。お兄さんの笑顔を思い出すだけで幸せです。寝顔はもっとかわいいんでしょうか…っていけません!自分は何を考えて…。

 とにかく、自分はお兄さんにお姉ちゃんを幸せにする方法を教えてもらうんです。

 きっとお兄さんの立ち振る舞いはお姉ちゃんを幸せにできるはずですから!

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