第60話 命があれば大体何とかなる理論

 痛い。なんかこう、顔が痛い。あんな速度で当たったとはいえ、ビーチボールってこんなに痛いものなんだな。普通のバレーなら間違いなく骨は粉砕を逃れなかっただろう。あいつには力の加減というものを教えなければなるまい。

 あれでは触れるものすべてを破壊する悲劇のヒロインと化してしまう。それだけは避けないと。人を傷つけることが苦手だからなあの子は。

「あいたたた…まぁ生きてるならノー問題ってとこかね」

 ぽたり。

「大丈夫かな、顔はちゃんと人に見せられる状況かな…?」

 ぽたり、ぽたり。

「ん…、雨かな。天気予報では今日は一日晴れだって…」

「うわああああああああああああああっ、ごめっ、ごめん、おにいちゃ」

 突如頭上から響いた泣き声に心臓が飛び跳ね、首を痛めた。今日は厄日かもしれん。海に入るのはやめておこう。海の中では人は無力に等しいからな。

 その泣き声の主は言わずもがな灯だった。今まで気が付いていなかったが、俺は灯に膝枕をされるような形でレジャーシートの上に横になっていた。後頭部には細くて貧弱ではあるが、それでも女性特有の柔らかさを帯びた少女の脚の感触がある。

 心配、してくれてたんだな。かなりバケモンじみてたけどあれは灯が全力で遊べていたことの裏返し。その結果俺が気絶したからびっくりして不安だったんだろう。

 心配そうに俺の顔を覗き込む少女の頬に手を添えて、こぼれ落ちる涙を人差し指で軽く拭ってみる。

「はは、大丈夫かよ灯。なんだか元気ないじゃねえか」

「おにいちゃ、死んじゃったかと思った…」

 うん。俺もガチで死んだと思った。口にはせんけど俺死ぬんやなぁって本気で思った。絶対言わんけど。

「大丈夫だって。気にすんなよ、おれは割とすぐ気絶する。だからそんな悲しそうな顔すんな」

「…ん。おにいちゃが、そういうならそうする。ぶじ?いたくない?」

 俺が元気そうで少し安堵したのか、ちゃんと言いつけを守って泣き止んでくれるいい子の灯。それでも流石にまだ心配なのか、俺の顔をぺちぺちと柔らかい幼子の手のひらで無事を確かめるように触ってくる。その手はやはりどこまでも優しくて、彼女が心から俺の事を大切に思ってくれているということの証明には十分だった。

「優しいな、灯は。お前はやっぱりいい子だな、何処に出しても恥ずかしくないくらいのとびっきりのいい子だ」

 嬉しくてうっかりすこし恥ずかしい事を口走ってしまったが、当の灯はふるふると首を横に振って否定する。

「わるいこ、あかりわるいこ。おにいちゃ、ころしてしまうとこだった。もし、しんでたら、あかりもしぬつもりだった…」

 流石に聞き捨てならないのでバツとしてデコピンを食らわせる。ここまで年下の女の子に言わせてしまうのもいかがなものかと思ったので(そんなに歳変わらんっぽいけど)ちゃんと言って聞かせておこう。

「死ぬのはやめろ死ぬのは。もし万が一灯が俺を殺したとしても俺はお前に死なれたらいやだからな。そんなの誰が許しても俺が許さん」

「…!」

「だからそういうこと言うのは冗談でもやめろ。いいな?」

 こくこく。少しびっくりしたような表情の灯が頷く。少し怖がらせてしまっただろうか。あんまり説教じみたこと言ってても気持ちが良くないのでこの辺で。

「なぁ灯」

「なに、おにいちゃ?」

「楽しかったか?さっきのビーチバレー。反省とかはもうたくさん聞いたからそういうの抜きでさ。楽しかったか?」

 起き上がって灯の隣に腰を下ろしてその髪を優しく撫でながら努めて優しい口調で声をかける。その開きかけの扉に手を滑り込ませてこじ開けるのではなく、ゆっくりとその扉が開くのを待つように。

「たのし、かった。ひさしぶり、こんなふうにあそんだの。いっしょに、あそんでくれて、うれしかった…ぁ、うれしかったの…っ!うああああ…っ」

 そうして俺の胸に飛びついて涙を流す少女。さっきみたいな涙とは違う、あたたかな感情の奔流が形となって表れる。そのぬくもりの結晶が俺の胸に零れていく。

 そう、彼女に必要なのは悲しみなんかじゃない。誓ったはずだ。彼女を守り、願わくば幸せにしてあげるのだと。苦しみを分かち合い、幸福を倍増させてやるのだと誓ったはずだ。彼女にあふれるくらいの親愛を注ぐのだと。

 だからこれでいい。俺が生きている。そして灯が今日という一日を楽しむことができた。それ以上何を望むのだろうか。彼女にとってこれまでの人生の大部分は苦痛と悲しみに満ちていた。限られた人生譚の今日という一ページがハッピーエンドで終わるのなら、それに越したことは無い。そこに罪悪感だとか、余計な気遣いなんて書き加えるのは無粋だろ?

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