第61話 知ることを恐れないで

 シャワーとは人間の手によって生み出されたもっとも素晴らしい発明の一つである。水浴びというものは古より人間が行てきた行為であるし、動物だって普通にしている。理由は単純明快。きもちいいからである。そして人間は思いついた。自由に温度を変えて水浴びができればよいのでは?と。

 結果として天才である。

「目、あけていい?まだ、しみる?」

 くすんだ金髪を丁寧にシャンプーで洗う俺のもとにその主から確認。海で遊んだ後はしっかり洗わないと気持ち悪いからな。あんまりシャワーの扱いに慣れていない少女が一人でやることは簡単じゃない。

 いやまぁ俺が付き合うのもおかしな話なんだが。

「しみる。痛いのいやだろ?」

「いや」

「じゃあ目閉じとけ。つーかお前、お風呂一緒に入るの俺でいいの?」

「おにいちゃ、いや?」

「嫌じゃないけど…その、恥ずかしくないのか?俺男だぞ。いや別にその、男だから危険だとか女だからそういう目で見ないとかは言わないけど、見られて気持ちいもんじゃないでしょ?」

 シャンプーハットを被っているために少女の表情は見えない。

 鏡も曇っていて少女の顔をうかがい知ることはできないが、別に嫌々という雰囲気ではなさそうだ。いや確かに灯が体を見られて気持ちよくなるような性癖を覚えても困るのだが。

「われ、昔いろんなやつに、体、つかわれてた」

「…っ」

 知っている。直接話したわけでは無いが、初めて彼女と出会った時に虚ろ気にそのようなことを溢していたことは知っている。だからこそこの話はしたくなかった。

 彼女が悲しい過去を思い出さなくていいように…なんて崇高な理由じゃない。自分がその現実から目を背けるには話に出さないのが都合がよかったからだ。

「知ってるよ、おにいちゃ、この話きらいだって。でもね、知って。分かって。」

 少女の言葉はただ重く、意思がこもっている。間違っているのはお前だと突き付けられているような気持でなんだか居心地が悪い。けれど踏み込むことが彼女の望みなら。

「だから、ほんとうは他の人に肌、見せたくない。水着も結構、抵抗あった」

「っ、ごめ、おれのわがままで――」

「――。人の話は、最後まで聞く。おにいちゃ、自分が悪いってことにすればすべて丸くいくと思ってる。でも、違うの。われ、咎めたいわけじゃない。言葉を、はき違えないで。優しくするのと、罪を自分に押し付けて妥協するのは、ぜんぜんちがう」

 確かに、そのとおりだ。彼女の事を甘く見ていたのかもしれない。自分自身のなかで勝手に庇護対象、守るべきもの、自分より幼くてか弱いものだと認識していた点があった。そしてそれは自惚れに過ぎなかった。彼女は俺の想像の何倍よりも強かった。

 単純な力としてもそうだが、何より芯が強い。どん底に居て、絶望に喘いでもなお前を向こうとする、歩み寄ろうとする。だからこそ彼女は俺たちと出会えたんだ。

 決してあの出来事は偶然なんかじゃない。運命にあらがい、未来へこの一瞬をつなげようとする彼女の努力の賜物だったんだ。

「それに、本当に楽しみで、たのしかった。嫌な事、思い出すかもって思った。けど違った。楽しい思い出、できた。われが、行きたいっていった。だからね、おにいちゃ―――」

 一度静かに呼吸をした。その間隙にどれだけの思考が繰り広げられたかは彼女しか知らない。けれども彼女の雰囲気が、一瞬とは言え大きく変化したのは疑いようもない。

「『。だってあなたは私の子をこんなに幸せにしてくれているのだから。きっとこれからもあなたには想像もつかない程の絶望が降り注ぐでしょう。それでもなお、叶うのなら…この子を幸せにしてあげて頂戴』」

 目の前の少女の瞳は先刻とは大きく違っていた。幼子のような見た目とは正反対な慈愛に満ちた眼差し。たおやかで全ての者に安らぎを与えてくれそうな…そんな声音。

「…?われ、今なにしてた?」

 一瞬でチャンネルが切り替わるように少女の表情にあどけなさが戻る。先ほどまでの光景が嘘のように思えてくるが、多分二重人格とか思念波だとか幽霊だとかその類だろう。別にありえない話じゃない。鬼がいるならなんだっていても不思議じゃないさ。

「…いやぁ?寝ぼけてたんじゃないか?急に黙りこくっちまってたぞ。今日はいっぱい遊んで疲れたんじゃないか?」

 だったら本人がわざわざ知る必要もない。もしも本人が知らないふりをしているならば、その口から聞くまでは黙っていることにしよう。

「ささっ、そろそろ風呂あがるか。皆と遊びたいか?」

「うむ。われ、あのひとたちすき」

「そっかそっか、ならよかった。んじゃみんなでボードゲームでも――」

 瑞々しい水音だった。僅かに絞り出された吐息が灼けに大きく聞こえるほどに脳内が混乱する。柔らかくそれでいて名残惜しい感触は永劫の時にも等しく、また同時に瞬きほどの時間にも満たないようであった。狂おしいほどに甘美な感覚だけがいつまでも消えない。

 鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くする俺。そんな様子を見て悪戯っぽくちろりと舌を出して、上目遣いで角を生やした少女は言う。


「…でも、おにいちゃがいちばん、すき」

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