第11話

何故人を殺してはいけないのか。

大学の教授にその質問をした。

その時マサキは文学部のうだつのあがらない四回生だった。

つい最近世間を賑わすショッキングな殺人事件があり、その犯人が犯行を犯す寸前に図書館で太宰を借りた、という話がネットニュースではまことしやかに囁かれていた。

近代文学を専門に教える教授が軽くその事件について授業で取り上げたのだった。


我ながら本当に下らない質問をしたと思う。

でもその教授は学内では比較的若くて話しやすかったのもある。

そして教授は答えた。指でせわしなくペンを回しながら。


「『その人の命を奪った』ということはつまり言い換えれば『盗んだ』という事だね。そして命というものはお金や物とは違って『わかりました、申し訳ありません返します』という事が出来ないでしょう。だから最上級の窃盗として許されない。返せない物を奪うのは罪。最上級の窃盗罪がイコールで殺人なんだ。私は昔からそういう風に考えているよ。まあ返せる物なら盗んでもいいかというとそういうわけでもないけれど、命というのは値段がつけにくいものだね。

再発行、作り直しが出来ないものだ。しかも人によって値段のつけ方が違う。正確な価値がわからない。そんな幾らになるかわからないものを奪うというのはとても浅はかな行為だと思う。

命は値段がまちまちな上に返せない。そんなものを奪うのは馬鹿のする事だよ」


成程、と思った。わかりやすい考えだ。

だけど、もしその相手が既に一度死んだ相手だったら?そしてそもそもの死因が自殺だったらどういう罪になる?

それは敢えて口にしなかった。

マサキは短く早口に「ありがとうございます、卒論の参考にします」と言ってその場を立ち去った。


校内を歩いていると知人に挨拶をされる。軽く手を振り返す。


マサキは文系ではあったが第一志望よりワンランク上の大学を試しに受けてみたら補欠ギリギリで合格した。実はアヤノが二年生の頃に志望していた大学だ。予定外に地元を離れる事になったがこれで良かったと思っている。

都会のそこそこ有名な大学に合格した途端両親は手のひらを返したかのようにマサキをちやほやし始めた。その態度ががマサキには苦しかった。仕送りはほぼ最低限しか受けない事にして、今のマサキは毎日大学とアルバイト先、安アパートの三ヶ所をグルグル回るだけの生活をしている。早く就職を決めて完全にあの街と縁を切りたい。早くさなぎを脱ぎたい。


外に出ると初夏の光が眩しい。中庭のベンチで宗教の勧誘を受けている学生が視界に入る。


最近自殺をきっかけにゾンビ化する人間の数はほぼいなくなった。

自殺者は決して減ったわけではないが、ゾンビの数は激減した。

それはあの宗教が解体されたから。


政府が危険思想の組織に対する法律を強化した事、ゾンビに纏わる条例も強化された事、メンタルヘルスに関する国や病院の受け皿が急速に整った事、いくつかの理由が複雑に絡み合っている。ただ、新しい宗教は常に生まれる。それが今でも甘言で持って弱く無知な人を引き込もうとしているのであった。


なあ、今ここにもし空から女の子が落ちてきたら。その死体と目が合ったら。

そしたらその瞬間神様がどうとか生と死についてとかモラルとか、そんな机上の空論や理性は綺麗に吹っ飛ぶだろ。

目の前に突然美しい死体が落ちてきたら。その瞬間は呆然として、ただ手を伸ばすしか出来なくなる。そして数年後、自分は無力だと思うだけだ。

苦しみを誰かが簡単に言葉だけで救ってくれるだなんてとてもじゃないが思えない。お前らは全部嘘だ。ただ人を追い込むだけの偽神様ごっこがしたいだけのクズだ。


………自分はあの日好きな子が二度目の死を迎える瞬間に居合わせた。

彼女を生かしたかったはずなのに、発作的に怒りが勝った。拒否された事への怒り。発作的に殴ろうとしてしまった。しかしその振り上げた腕をアヤノに掴まれる。

あの時の自分はなんて子供だったのだ。今では後悔しかしていない。

「あなたが私を生き返らせたの?」

そのアヤノの強い声での問いにマサキは憮然とした顔で頷く。怒りのやり場、感情のやり場をどうしていいのかわからず、言葉が出なかった。泣きそうになるのを堪えていた。そんな震えるマサキを見てアヤノは悲しそうに笑った。そして伏し目勝ちにしばらく考え事をしていた。

いくつか質問をされる。

アヤノがゾンビになっている間の状況、家族について、何故ゾンビのまま死なせず改めて生き返らせたかについて。

「………ゾンビになっても、生き返っても、結局なんにも楽しい事なんて無いな」

マサキの腕を掴んだままアヤノは立ち上がり「なんか今君が凄く怒ってるのがわかる、多分凄くいっぱい面倒掛けたんだろうね、ごめんね」と言った。

真正面からマサキの顔を見つめながら。アヤノは泣いていた。笑いながら。

「ごめんね、君が誰だか思い出せなくて」

彼女はもう一度そう繰り返すと、フラフラとフェンスの破れ目に近づきそのまま僕の視界から消えた。

僕は屋上から裏庭を見下ろしていた。全ての言葉と挙動を失ったまま。何も出来なかった。


彼女の死は表向きは「ゾンビの消費期限としての死」として処理された。

宗教を理由に、マサキは葬式への参列を拒否された。

通夜の会場となっている施設の前でアヤノの母親には何度もごめんなさいと言われた。手首に痣があった。誰にやられたかは明白だったが敢えて触れなかった。どうしても参列したかったマサキがしばらく食い下がらずにいると、滅多に顔を合わせた事の無い父親が奥から出て来た。

アヤノによく似た背の高い男。

先ずは先制パンチのように一言、人殺し、と言われたが、そもそもアヤノは一度死んでいる。そう言い返すと「屁理屈を言うな、お前の管理が悪いからアヤノはこんな早く死んだんだ」と叫ばれ、体が吹っ飛ぶ程強く殴られた。走り寄って来たアイカワに体を起こされる。

久しぶりに会ったアイカワは大分やつれており、本当に右手が包帯でグルグル巻きになっていた。心無しか足も引きずっているように見えた。

その時マサキは躊躇いなく警察を頼る事にした。

学校側からはなんとかアヤノのクラスの担任だけが出席を許されていて、警察を呼んでくれたのもこの担任だった。そしてアイカワの姿を見て少し面食らっていた。それはそうだろう。

何もかもが異常だ。

それがわかる人間とわからない人間が斎場の前でひしめきあっている。


この葬式の三日前、週刊誌にこの宗教に纏わる新たな記事が掲載された。そのため地元の人間の宗教に対する反対運動が起きた。そしてマスコミの取材が斎場前に殺到していたのだった。

心が弱り何かにすがらないと自我を保てない人間も多い。しかし過去に起きた酷い事件の影響で宗教アレルギーの人間も多い。それが露骨に表面化した瞬間だ。


父親は警察が来ると大人しくなり、あっさり確保された。その後しばしごたついたもののアヤノの通夜は母親が取り仕切り無事続けられたようだ。外部の人間は完全にシャットアウトされたままであったが。


一応病院で簡単な治療を受けさせられた。

そこで警察に事情聴取をされる。警察曰く、アヤノの母が「治療費なら後日払います」と言っていたそうだ。それを素直に受ける事にした。

あの母親なら口約束とは言え簡単に反故にする事はないだろう。全く何を考えているかはわからない母親だが、何故かマサキはそれだけは確信していた。

決して信頼関係があったわけではない。しかしそういう嘘をつく程愚かではないだろうと思ったのだ。

恐らくここでマサキとのトラブルが長引けばそれはそれで面倒だ。あの母親はそういう判断を下した。

そしてマサキはここでもうこの宗教とは手を切る時なのだとわかっていた。

多分マサキが知り過ぎている事はあちらもわかっている。だから必要以上に刺激しないように、という咄嗟の判断をしているはずだ。ならばこのまま距離を置き続けるしかない。「無かったことに」するしかない。


病院を出ると週刊誌の記者に声を掛けられる。

アヤノの写真が欲しいそうだ。そしてマサキに話を聞きたいと言う。

しかし自分が話せる事など何もない。何も話したくない。丁重に断る。立ち去る後ろ姿を写真に撮られたような気がしたが、もう何もかもがどうでも良かった。

皆ろくでなしだ。自分も、相手も。

歩きながら口ずさむ。アヤノがよく歌っていた曲だ。多分あのイギリスのバンドの曲。


翌日の葬式の間、マサキは学校の屋上にいた。アヤノと最後に別れた場所だ。

ここから火葬場の煙突が見える。

イムラとサワグチが無言でそばにいてくれた。昨日殴られて切れた唇が痛い。怪我は大した事が無かったが、一日で治るものではない。

しかしそれは自分が「生きている」何よりの証だ。


彼女の死後、ある同級生の口から彼女の自殺した理由の一部を教えられた。

その時には何もかも遅かったのだけれど。でも泣きじゃくる同級生を前にそんな台詞はとてもではないが言えなかった。ろくでなしにも欠片程の優しさはある。


「人形になりたい。死にたいというよりも何も考えず人形のように生きたい」


アヤノは屋上から飛び降りる前日、ハンバーガーショップでそう話していたのだそうだ。

それからすぐにゾンビになる事を選んだ。


数日後、マサキがゾンビ化したアヤノを連れているのを見てその同級生はとても驚いたそうだ。本当に人形のように生きる事を選んだのか、と。

同級生は涙ながらにそう話してくれた。アヤノを連れて歩くマサキ君が幸せそうに見えたから話しかけ辛かった、と付け加えて。


アイカワは高校を出た後、家を出て遠くで住み込みで働き始めたと一度だけ手紙が来た。彼は全てを忘れると書いていた。だからマサキも全て忘れるべきだ、と。何も知らなかったフリをして生きていくべきだと彼は言う。その方が傷は深くならずに済むから、と。

自分はそもそもアヤノの事を何も知らなかった。そばにいたのに何も知らなかった。辛うじて知っていたのは同じ駅を利用しているという事、イギリスのロックバンドが好きだという事だけだ。

それ以外は全て、他人からの伝聞でしか知らない。

それでも何故かアヤノを好きだと、大事なのだと思い込んで生きていた。アヤノだってマサキの事をろくに覚えていなかったというのに。なんと傲慢だったのだろうか。自分の感情はこの上なく崇高な愛だということは否定したくない。だけど。


今でも夕焼けを見ると発狂しそうになる。

そしてその感情になんという名前をつけていいのかがわからない。怒りなのか後悔なのか哀しみなのか。

それとも本当に恋だったのか。

あの時は恋だと思っていた。今は自信がない。

ただひとつ言えるのは、虚無が今でも僕を掴んで離さないという事。

血の赤と匂いを思うとやるせなくて涙が出てくる。


アヤノと二人で出掛けた日、森の奥の神社で撮ったアヤノの写真はずっと手元にある。他の写真は全て燃やした。データも消した。スケッチでさえほとんど手元に残さなかった。

しかし最も良く撮れたこの一枚だけはどうしても捨てる事は出来ない。だが、飾る事も出来ない。ずっとスケッチブックに挟んだままだ。

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