図書塔の魔女
揺すられる体を握りしめた拳で支えながら、バールの背中に頭を垂れてミンシカは泣いていた。
「っく……ひっく……うぇ……ぅうぇえ……っく、っく……ひぅ、ぅえ……」
そんなことより後ろから来る「敵」に注意してほしい、とは言えずバールは走ることに専念する。
見えてきた階段は下層区につながる穴で、一瞬ためらったすえ、通過して次の階段に向かった。
「下で……いいのっ……」
バールの背中でミンシカがしぼり出すように言った。
上層の近現代書、中層の古文書を抜けてはじめてバールは下層区に足を踏み入れた。ひやりとする。急に天井が高くなり、慎重に螺旋階段を降りていく。心なしか室温が下がり、冷めた白い光が本と書架を硬く照らし出していた。
「ミンシカ、さっきの。あれもモンスター? ああいうのもここによく出るの?」
逃げ続けるのにも無理があると判断して、階段から離れた書架に隠れる。
かがんだバールの肩から降りながら、力なくミンシカは答えた。
「あれは吸魂の書よ……」
えっと聞き返しバールは絶句した。
(そんなに危険な本だったの!?)
「……怖い」
「ミンシカ……」
「あいつあたしと同化しようとしてる。あたしを食べて、あたしの記憶を奪って、あたしになるって言ったっ!」
震え上がる赤い瞳に、バールはきちんとたたまれたお気に入りのガーゼのハンカチを押し当ててやった。
「大丈夫だよ、ミンシカはおれなんかより強いじゃないか」
「無理よ!! もう魔法使えないもん!!」
「でもこれだけ移動すれば、魔法は完全に残ってないと思うよ」
「……そうじゃない、……ょだからよ」
「え?」
「ょだから……」
「え、なに? 声が小さくてきこえな」
「あたしが魔女だからよっ!!」
バールは目を見開いた。
「……薬草くれたり、知恵袋的な、あの?」
「ちがぁうっっ!!」
ミンシカがぷりぷりと怒り出す。
「それは、女神に仕えるやつのこと! 白い魔女とか導師っていうの、今は魔女って呼ばないのっ」
バールがものすごくけげんな顔をする。
「でも魔女の方がカッコ……」
「あたしの体は魔力の耐性が強くて、人間の何倍もの魔力を操って魔法が自在に作れるけど、そのかわり自分の魔力がないの。外に出たら魔力の供給がなくなって生きていけないし、あたしがいなくなったら、ここにあふれる魔力が暴走してなにが起こるかわからない。魔力を制御するために、そういうふうに造られたの。……あたしはここの一部なの……ここは、あたしのカラダなの」
「図書塔全部が?」
「うぅん……この地下迷宮ぜんぶ。図書館までしか入れないことになってるけど、地下はマリテュスの敷地を越えて拡がってるわ。魔力は迷宮区全体をめぐってて、あいつは……あたしと同じことができる。何千年もかけてとり込んだ魂の
ミンシカを励ますようにバールは小さな両手を握った。
「下に逃げてきたのは算段があったからじゃないんだね」
「……約束なの。魔女として図書館を守る替わりに、ここにいられる。バールを巻き込んじゃったけど、狙いはあたしよ。あたしと違う方に逃げれば、バールは上に戻れる」
「ミンシカ、あのモンスターの本当の目的がわからないんじゃ、ミンシカが犠牲になって済む話じゃないだろ」
ミンシカは首を振った。
「あいつには自分がない。……完成して生まれてきたはずなのに、飢えてる、いくらでも食べ続けるの、あたしを食べるのはあたしがあいつを知ってたから。でも、それでいいの。さっきバールが魔法を使えたなら、図書館の状態は変わってない。人間に似た怪物より、本当の怪物を相手にする方が塔の魔術士たちも、気が楽なはずだし」
「ミンシカは……」
バールは少女のどこも見ていない目をのぞき込んだ。
「外に出たいって考えたことないの?」
「っ……」
赤い瞳が大きく揺らいで、みるみる涙が満ちた。こぼれないように唇を噛みしめる。
返事がなくても答えははっきりと見てとれた。
「その悪役には信念がないね」
「?」
「底なしの
バールがなにを言ってるのか、ミンシカにはわからなかった。
ずんっと腹に響く衝撃が土踏まずから伝わってきた。
オォォォォオオオオオオオ
うなり声に空気が震え、休んでいた二人は立ち上がった。
びゅおっと白いものが通り抜け、急に周囲の温度が下がる。
いやな気配に背の高い書架の林を見渡せば、飛び交う半透明の人影が次々にバールとミンシカに近づいてきていた。
(死霊の群れがっっ……)
深層区では現れやすいとマクシミリアンが話していたのを、ようやくバールは思い出した。自分の足では逃げ切れなかったことも。
全身にかいていた汗が冷や汗に変わっていく。
(あの時、どうやって……)
「ミンシカっ、あの時きみはどうやってこの状況を切り抜けたんだ!?」
身をすくめるバールの前でミンシカのむなしい声が流れる。
「どうもしないわ」
輪を描くように集まった亡霊たちがバールとミンシカに迫り、いっせいにかしずいた。
よく見るとバールの方を向いている頭はひとつもなく。
「あなたたち、まだあたしをここの主人だと認めるの。でももう」
ふいに死霊の口から耳をつんざく金切り声が上がった。次々に重なる叫びに、バールはたまらず耳をふさぐ。
「アレがきたわね。……わからないけど、多分、死霊を食べてる」
しっかりと顔を上げ、身構える表情を見せるミンシカ。
バールは意を決して少女の手をつかむと混乱している死霊たちを走り抜けた。
「バール!!」
「約束するから!」
「手をはなしてっ!!」
「ミンシカがここから出られる方法を見つけるって約束する!」
「っ! なんで今そんなこと、……そんなこと言うのよっ」
バールは前だけを見て走った。
「だからあんなヤツに負けちゃだめだ、気持ちで負けちゃだめだ。おれの魔力つかえない!?」
「むり! 人の魂に縛られてるものは使えない! それに、もうそういうのはいやなの、 そうやって約束して、あなたたちの人生を無駄にさせて、あたしだけが変わらずに、この先ずっとずっと見送ってくなんて、だからそんな約束しないでっ」
「犠牲になるのはおれだけじゃない、待つ方だって辛いはずだ。おれの代でだめなら、おれの子供が引き継ぐ、いつか答えを見つける。でも約束してくれなくちゃできない、ミンシカが待つって言ってくれないと約束にならないんだよっ」
約束なんかしない! とミンシカは叫び返すことができなかった。
構造上、見えてきたのはさらに下層につながる階段だった。まだ距離がある。
急に二人の走っている場所が暗くなった。
落ちた巨大な影。
反射神経はミンシカがバールを上回った。
足を止めたバールの腕を引き寄せ、その反動を利用して跳び上がるとバールの体に渾身の
「うごっはぅっ」
投げ出されたバールは地面に転がり、さっきまでいた場所で、天井から落ちてきた影にミンシカの身体は声もなく押しつぶされた。
(……ミンシカは?)
苦しげにはいつくばって、バールはミンシカの姿を探した。
「かはぁ……」
禍々しい包帯の男が愉悦のため息を漏らした。
がれきに傷つけられたのか、胸や体のあちこちの包帯がはがれ、むかれたように赤くただれた肌が臭気と熱を放っている。
バールは初めて魔物を間近で観察した。ぶよぶよと太った下半身は上で見た時より肥大し、だらしなく床に拡がる。両脇についた脚はもう身体を支えようとはしていなかった。
「もうこのからだもいらぬかな」
外見とは逆に言葉も思考も滑らかになりつつあった。黒い鏡のような腹が波打ち、少女の顔が浮かび上がる。正確に肌の見える部分だけが黒い水面に現れた。白い顔面と手と手首と膝。
「ミッ……つっ、う…ぐう」
声を出すと血を吐きそうな痛みが走った。
バールが苦痛と格闘している間も魔物は欲するままに、嗜好をくり拡げていく。バールのことなどミンシカの言った通り、眼中にはないように。
「あいさつからにしよう」
「わたしはミンシカ」
感情のない
「おまえはなにをする」
「迷宮の要、迷宮の鍵、迷宮とともにある」
「なぜつくられた」
「魔力を集めて貯蔵するため」
「それをどうする」
「わからない」
「おもいだせ、わたしはおまえになってなにをすればいい」
「……」
「やめ……ろ……」
かすれるような声でバールは呟いた。自分にしか聞こえないくらい小さなささやきだった。
じり、と両腕で上体を持ち上げる。
ミンシカの顔がよく見える。虚ろな赤い瞳から涙の筋がしたたっていた。勝手に記憶を探られているのかもしれない。支配されながら、苦しんでいるのかもしれない。
バールは肺に息をためた。
「どこからおぼえている」
「目が覚めたところ」
「だれがおこした」
「6人の冒険者、迷宮の探索に来…」
「ちがう」
非情な言葉にミンシカの目がガクンと裏返る。
「さいしょのきおくをみせろ。わたしはなぜうまれた」
「あ……ぁあ…」
「わたしはどこからきた」
だらしなく開いた少女の口から言葉がこぼれた。
–––––– あたしは……人形……じゃない
まさぐられる記憶がおぼろげに映したのは白い逆光ににじんだ男の姿。ミンシカと同じ色の髪に、小さな自分の手が伸びてつややかでまっすぐな手触りを撫でる。
技師か博士か周囲には多くの書物と、本に混じって機械道具がある。
なつかしい場所。
–––––– それがわたしの正体か
–––––– そう、そうよ
わり込んでくる意識にとけるように少女の意識は同意した。
その外でもうひとつの声がわめいていた。
–––––– ミンシカ、きみとそいつは違うっ。
苦しげな、悲しそうな声。遠くて詳しく聞きとれない。
–––––– きみは誰だ、何者だ、この図書館そのものか? 図書館のための道具か!?
だから、そう言っていると、少女は思った。
騒ぐ声は真っ向からそれを否定する。
–––––– ちがうだろ、図書館がきみの道具だ、死霊がかしずく王だ、あとはあんまり知らないけど……おれはまだきみのことを知らない、図書館の魔女。
きみは何のために生まれた、……ここから出る方法を知りたければ生きるんだっ
投げつけられる遠くかすんだ声にいつのまにか意識は傾いていた。
どんどんと記憶も身体も解体されていくのに、魂だけがその声をはなさず聴き逃すまいとする。
涙を流しつづける赤い瞳に向かって、バールは怒鳴った。
「でなければ、自分が何者か自分で決めるんだっ」
(この塔では無敵なんだろ、そんな空っぽなやつ悪役じゃない、ミンシカの方がよっぽどかっこいいっ! なのに!!)
とてつもなく悔しくて、腹が立った。
「ミンシカ、きみは何者だっ」
叫ぶ言葉の裏側に山のような私情をはさんで、バールは叩きつけた。
魔法にもならない、暑苦しい言霊は少女の存在を高らかに胸をはって主張し、堂々と響きながら、消えかかるミンシカの胸に注ぎ込まれた。
「わたしを呼んだか?」
少女の白い肌は黒い腹にのみ込まれていき、魔物がバールに答えた。
沈み込む最後の白いカケラ、指の先だけがちゃぽちゃぽと黒い波紋をたてていたかと思えば、浮き上がってくる手のひらと続く白い手首と黒衣の腕が、ばんと水面に腕をかけ力いっぱい身体を引き上げた。
「ミ……!」
「無駄だ」
目をみはるバールの前で、魔物は腹の組成を固い結晶に変え、肩から斜めに突き出た少女を身動きできなくしてしまう。
「誰に向かって口をきいてると思ってるの」
赤い瞳が真紅にきらめく。
「わたしはお前だ、ミンシカ、はなれることは許さん」
同じ体と同じ記憶を共有する者。
「じゃあ、同じことをやって見せなさいよ、あたしと」
うなるような異質な言葉をほとばしらせて、ミンシカは黒い結晶をうち砕いた。
「なぜ、なぜなぜなぜ魔法が使えるなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ」
混乱する魔物と一緒に、バールは発動した魔法の余波で、気分が悪くなっていた。
(これは、まさか、ミンシカの……!?)
地面を踏みしめる少女に追いすがるように、魔物を中心に黒い結晶が広がった。たちまちミンシカの足を覆い、さらに上へと走っていく。
「あたしは
記憶とともに封印されていた彼女自身の魔力が戻りつつあった。
けれど、混乱していようと魔物が掌握する迷宮の魔力は、圧倒的な量だと少女は知っている。
その時ミンシカは別の魔法を感知して天井を仰ぎ見た。
(––––––やっと来てくれた)
透ける真珠のような色の結界が展開していく。
これでどんな魔法を使おうと遠慮はいらないと心でうなずく。
「何千年生きようが、しょせん本にすぎない忘れられたお前に、
こんな迷宮の城も、意味のない自分の存在もきらいだった。
(でも)
身体を覆ってくる結晶を無視して、ミンシカはひたと相手を見すえた。後ろで同じことになっているバールがくぐもった声を上げているが、少し我慢してもらう。
(ここからあたしを解放しようとしている人がいる。見捨てようとしない人がまだ……あたしが望みを捨てるのはあの人が死んだあとでいい、それまでは……)
ミンシカは血統と魂に刻まれた、力ある言葉を重く舌にのせた。
「
魔法の力場の発生により、あたりの存在に重力の2倍の負荷がかかる。
ミンシカの頭にバールの言葉がよみがえる。
『……
「
ギシィイャァァアッ……
空間が軋んだ。耳を通して全身がねじ切られそうな衝撃と音が走り、魔物の挙動よりも一瞬速く空間が閉ざされる。時間を凍結させた透明な檻が築き上げられた。
そこだけが歪んだように周囲の景色と微妙にずれている。
その中心で魔物は停止していた。
空間の外にはみ出した、ミンシカとバールの身体を覆う黒い結晶や魔物の身体の一部は、魔力の供給が断たれたことで埃のように霧散していく。
図書館の魔女の手には、再び迷宮の魔力が戻った。
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