アル・オーシャン
バールの目の前には、漆黒と銀で象られた杖がある。
それと支え合うように力なく立っている男は、杖を『鍵』と呼んだ。
「これは『鍵』。鍵を発動させるのは魔力。魔力を編み上げる為に音と言霊を手掛かりにする。すなわち呪文、すなわち詠唱」
疲れの滲むバールは想像する集中力も限界に来ていて、途中にどうでもいいような質問を挟む。
「師匠の杖って名前ついてるんですか?」
「……あんた人の話聞いてる?」
「すみません。よくわかってないかも知れません」
「とにかく座って、じっとしてなさい」
大人しく、その場にしゃがんで膝を抱える。
「杖に名前つけるのもいいけれど……本分というのもあると思うのよね。道具は時として道具として使い切るものよ」
杖から身を離すとバールに背を向けて立つ。
「講義した順に空間転移から始めようと思ったけど、眠気覚ましが必要そうね。バール、あなたに教える詠唱を型通り行うから、よく見て聞いて」
引き寄せた黒い杖が術者の陰に見えなくなる。杖を正面に静かに突き立てる姿を、昨夜の光景を思い出すように脳裏に浮かべて、バールは師匠の背を仰ぎ見る。
声が響いた。拓けた反響しない空間に、昨日とは違う始まりの言葉が紡がれる。
「 我が声は汝なり 汝は〈鍵〉なり
〈鍵〉は あまねく世界を視る者なり 」
いつか召喚術の講義で読まされた、古代語の言葉は、呪文だったようだ。
杖は『鍵』で、異界の門を開く『鍵』=杖を発動させる魔力は呪文によって引き出される。
「 我が声は〈鍵〉なり 」
杖は発動し『鍵』となり、さらに『鍵』の定義は声へと移行した。
「 されば声によりて 世界を開かん 」
術者の足元に青く光る二重の円が発現した。円周には魔法文字の羅列と、微細な記号が連なる。真後ろにいたバールの体も円上にあり、地面に浮かぶ青い光を風のように受ける。
円陣は上へと分裂、厚みのない構造物は、術者の体を透過しながら浮遊し、指示によって拡大、足元の円を残して実験場の最も遠い側壁へと飛ばされ、光を失っていく。
杖にはめ込まれた石の輝きは強さを増し、呼応して足元の魔法円が魔力を帯びて燃え上がる。
術者の『鍵』となった声が、異界へと手を伸ばす。
「消失点0を破棄、9から5、2番目の扉を閉じ、今より4番目の世界に問う」
何かが起きていた。目の前にありながらその変化は見えない、感覚でしか捉えられない場所で何かが起こっている。
バールには吹き荒れる高密度の力と、それを視覚化したような光しか見えない。もっと途方もなく大きく深遠な気配を感じるのに、知覚できない。
ただそれが見えない向こう側からここへ、肉薄している動きがわかる。
「始まりの混沌、その名を問う」
これと同じことを自分もやるというのか、本当に?
詠唱すら長すぎて覚えきれそうもないのに!!
「〈神の手で水を結び そびえ立つ波を持て この地に現れよ〉」
呪文は完成した。
「《
厳かに告げる声に、張り詰めていた気配の彼方––––二枚目の魔法円が去った方面から突如、波しぶきが天を貫かんと立ち上がる。天蓋の防御魔法に押し留められ、波の壁は天井で波濤を渦巻かせる。
次の瞬間、砕けて実験場を飲み込んだ。
「うぶわああああああああああああああ!!!!!!」
港育ちのバールは波の怖さを骨の髄まで知っている。オワッタ、と思った。
「大丈夫だから、じっとしてらっしゃい」
「は……」
バールはマクシミリアンとともに、青い魔法陣の中にいた。
実験場は水––––海に満たされ、前後左右と上部はたゆたう海、深い水底にいるような状況に閉じ込められている。
「これ、どのくらい息保つんですか?」
「あんたのそういう現実的なとこ嫌いじゃないわよ。正直、あんまり保たないわ」
「溺死も窒息もごめんですよ」
「他に感想ないの?」
「いや、なんかスゴすぎて……きれいですね」
水底の静けさを眺めてバールは呟く。水流の暴威は収まりつつあり、上層から射す日が、水中にもうもうと舞う土煙を照らしている。
マクシミリアンは小さく息をつく。
「精霊界から現象を喚ぶ〈事象召喚〉は、精霊界から切り離された現象が、現世に来ると物質として定着してしまうから、召喚魔法を解除しても海水として残るわ」
「今は解除してる状態ですか?」
「解除したら一緒に水圧で押し潰されるわよ。魔法円が残ってるうちは、解除されてないわ」
「その効力はいつ切れるんですか」
「私が魔力を注ぐのをやめた時よ。自動解除機能がない召喚は術者の実力で時間を設定できるわ。ただし精霊界を相手取る時は、現象の喚起だけで、指向性は持たせられない。精霊使いと違って、召喚術士は現象を使役できないことを注意すること」
「それじゃあ、ただの災害と変わらないんじゃ」
「そうね。調整力次第だけど、規模が選べるわ、あとは解除してない状態から帰還措置ができることね」
言うと、マクシミリアンは手にした杖を振り上げ、石突きで魔法陣の必要な箇所を打つようにして削る。
カツンン
交差していた世界と世界が分かたれ、幻のようにふっと海が消える。
ザッと乾いた土煙が舞った。濡れた跡も残さず、空気も周囲の音も戻り、何事もなかったような実験場に戻っている。
まるで白昼夢だ。
「目は覚めたかしら?」
師匠の言葉にこくこくとバールは頷いた。
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