35


 差し出されたのは、滑らかな白磁の表面みたいに汚れひとつない手の平だった。

 それをじっと見つめてる僕の心には、先ほどまで全身を縛りつけていた無力感や虚無感ではなくて、別の感情があった。

 強い……たぶんこれは、怒りだ。

 何に対する怒りなのかは、はっきりしてる。


「天藍……ルビアのことを覚えてる?」

「いや。誰だ?」


 こいつならそう言うだろうと思っていた。

 だけど、僕には忘れられない出来事だ。忘却を許すほど、僕は強くなれないから。

 僕の心にはルビアがいる。

 肉体も心も傷つきはてて、誰にも救われずに死んでいった少女のことだ。

 そしてその隣に星条アマレがいる。差し出した手を拒んだ。掴んではくれなかった。救われることを拒んで、ただひとつの望みのために打ち砕かれて、そうして消えていった。彼らがはっきりとした輪郭で感じられる。今も生きてるみたいに。

 

「僕は、


 心の底から湧き上がる怒りは、何だろう。今までとはちがう、特殊な形、特別な手触りがあった。

 燃える炎のようではない。憎しみではない。

 爆発する光のような衝動でもなかった。

 もっともっと純粋な感情だ。


「誰かが僕をいいように操ろうとしてるんだ。上手いこと利用してやれって思ってる。都合のいい駒みたいに、道化回しの道化みたいに。そんなのまっぴらごめんなんだ。いつも誰かが命が惜しければ戦えって言ってるんだ。わかるか?」

「わからない。狂人の詭弁に思える」

「そうだろうな。それでいいよ」


 僕は血で汚れた掌を差し出した。

 天藍が乱暴に僕を引っ張り上げる。

 思ったよりも足に力が入らない。いつもなら、負傷してもオルドルが最低限上手い具合に動けるよう注意を払っててくれるけど、今回は事情ってものが違う。なんだかんだ血を失いすぎたかも。


「天藍、脚をやられた。悪いけど、死んでも吹き飛ばされないように支えててくれ」

「了承した」


 天藍が切っ先を地面に向ける。竜鱗魔術が大地を結晶化させ、僕の両脚を大腿部まで包んで、巨大魔法陣の前に縫い付ける。

 支える、という言葉の拡大解釈過ぎるが、これからやろうとしてることを考えると、非常に腹立たしいことにこれくらいのほうが安心だ。

 ちなみに上半身のほうは、天藍自身がガッチリ掴んでる。


 魔法陣の向こうで花が咲き誇る。

 転移魔術を介して、膨大な熱量が押し寄せてくるのを感じる。感じるっていうか、熱い。めちゃくちゃ熱い。かなり距離があるのに肌がチリチリしてる。

 それでも、もうどうでもいいとは思わなかった。

 無理だとか、できないとか、そういう感情もない。

 ただ向き合うだけだ。僕はただそうして、怒りを抱いて呪文を唱えるだけだ。


「《森羅に唄よ駆けよ。万象よ我が名を知らしめよ》」


 金杖を魔法陣に向け、短いフレーズを言う。

 それだけなのに唇が石のように重たい。

 言葉が魔力を帯びていく。ひとつずつの単語に、その向こうに、はるかに大きな何かが重ねられているのを感じる。


「《天地よ捧げよ、万物よ叶えよ。千変万化の力を我が手に、万能よ来たれ!》」


 巨大魔法陣に向けられた金杖が輝く。薄い緑の光のヴェールをまとう。

 放たれる魔力がいつもとは違う。

 金色で人を容赦なく切りつける刃のようなそれではない。もっと捉え難く、もっと大きなもの。言葉にはならない。

 巨大魔法陣の手前に輝きが広がる。

 明るい緑に白、紫の光が揺蕩い、銀色の星が瞬く。巨大なオーロラが魔法陣の手前を、海市を守るように包んでいる。

 それがどういった性質のものなのか、僕には理解不能だ。

 ただ、わかるのは、まだ完成はしていないってこと。そして魔術を維持するのに莫大な魔力と集中力が必要だということ。

 なんだろう、例えていうなら、天高く積み上げたジェンガを下から支えているような、というか。それを支えてるのがオルドルだ。

 そしてほんの一秒もかからず、そのジェンガ目掛けて、同じく膨大な熱量が放たれた。巨大魔法陣から、生誕せずに死んでいく竜の絶叫が聞こえてくる。

 竜卵から死の熱線が放たれた。

 攻撃の全体像を直撃下で掴むのは至難の技だ。光の奔流で塗り潰され周囲は全く見えなくなった。思考を続けていなければ、自分自身が存在しているかどうかさえもが認識不能になる。


「来るぞ!」


 天藍が怒鳴った。


 一拍遅れて、熱が――めちゃくちゃ熱い。


 人が死んでも構わない温度に設定された狂気のサウナに頭から突っ込まれたかのよう。衣服から露出した部分、腕や顔の表面があっという間に火脹れになる。

 痛い、苦しい。叫んで、極大の後悔。開けた口から喉の奥まで焼かれた。


 これ、僕の魔術はどうなってる!?

 防げてるのか!!!!?


『防げてなかったら、一秒でキミは蒸発してル!』


 死刑宣告は辛うじて延長されてるようだ。

 天藍が重ねて竜鱗魔術を発動する。防護壁をさらに多重展開し、竜騎装をまとい、僕の体を後ろから支え、皮膚が剥がれた両手を覆って杖を掴む。そうでもしなければ、金杖が吹っ飛んでしまいそうだ。

 こちらは既に限界だが、竜卵は攻撃を続けてる。

 赤味を帯びた光は熱量を上げ、白光となる。

 熱の苦しさに、別の痛みが混じる。


「うぐあっ――――!!」


 悲鳴が途中で切れる。

 何かを察知した天藍が右手の装甲を解除。口の中に突っ込んでくる。

 僕の唇から鮮血が零れるが、それは僕の血じゃない。嚙みちぎられかけてる天藍の指の血だ。そうしてなければ、僕は自分の舌を嚙み切って死ぬ寸前だった。


「意識を保て!」


 左足の太腿からあり得ないほどの激痛がある。たぶん、脚の付け根から丸一本食われてる。見たくはない。見たら衝撃で死ぬ負の自信がある。

 天藍が竜鱗で締め上げて止血する。


「頼む、マージョリー…………っ! 僕とオルドルだけじゃ無理だっ……!」


 僕は死んでも肉体が残っていれば蘇る。

 しかし今度の《敵》は、銀華竜戦のときのように死に戻りを許してはくれない。僕が一秒でも魔術を維持できないタイミングを作れば、熱線は僕の魔術を乗り越え、海市を焼き払う。その時点で自分自身の蘇生もできなくなり、ゲームオーバーだ。

 この魔術を維持する魔力がいる。

 三大魔女、マージョリー・マガツに天が与えた才能が必要だ。


『どうして?』


 オルドルではなく、少女の声が聞こえる。

 大人っぽい声だけど、その響きは戸惑い、怯えてる。


『マージョリーはあなたにひどいことをしたのに。あなたにはこの世界を救う義務なんてないのに、どうして?』


 もちろん、この結果を引き出すために、尖晶クガイを、そして星条アマレを犠牲にしたマージョリーを許すことはできない。受けた痛みも都合よく消えたりしない。


 でも。


 僕は竜殺しの魔術師で、《血と勇気の祭典》の勝者だ。

 僕はあのとき……救いを求めるたくさんの人たちを見てきた。


「たぶん、たぶんだけど……その答えは、マージョリー、……!」


 かつて彼女が僕に見せた過去の幻想を覚えてる。

 暴力や理不尽な社会の仕打ちに、君の心も痛んでいた。


『マージョリーはね……』


「うん」


『教団に行くのはいやだった。いつまでもお父さんとお母さんといっしょに、仲良く三人で暮らしたかった……』


「うん……!」


『だけど、教団に来て、たくさんのひとたちがマージョリーにかしずいて、助けてって言っているのをみて……気がついたの。なぜかはわからないけど、わかった』


 僕は頷く。


『もういいのね、もう、わたしは《かわいそう》じゃないのねって……』


 僕でも天藍でもない手のひらが、金杖を支えるのを感じる。容赦なく浴びせられる熱線が少しだけ和らいだ。

 いや、急速に遠退いていく。

 足の痛みが消え、数舜の後には、つま先までの感覚が戻ってくる。


「そうだね、マージョリー。僕も君と同じだ」


 いつも、僕自身が惑っている。

 ほかならない僕自身が自らの愚かさに憔悴し、あまりの理不尽さにどうしたらいいかわからなくて、誰かにこの手を握り返してほしい、救われたいと叫びながら手を伸ばしている。愚かだ。呆れかえるほどに馬鹿なんだ。

 そしていつでも、その手を握り返してくれるのが善人だとは限らない。キヤラのように狡猾な魔女が弱みにつけこんで破滅に導かないとどうして言えるだろう。あるいはシキミ弁護士のように、自分自身を利用しようとしてる悪辣な他人の心ひとつ決まるなんて、腹立たしいにも程がある。

 どうしたらいいかわからなくて、必死に手を伸ばしている自分自身なんて、あまりにも哀れ過ぎるんだ。


 もちろん、選択に疑問はある。いつまでも付きまとう。


 他人のせいにしたい弱い心もちゃんとあって、納得いかないと叫んでる。

 それでも僕は、かつて僕が、天藍に、そして大勢の人たちに向けてそうしたようにしたいんだ。


 今ならできる。

 嵐に翻弄されていたあのときの自分にはできなくても、今、ここにいる自分ならば、それができる。時間が経ち、状況は変わった。

 マージョリー、僕たちは

 それだけの力がある。


 そうだろう?


 


 そうできる。今ならできる。


 返答はない。ただ、僕と彼女が同じタイミングで呪文を告げる。


「《昔々、ここは偉大な魔法の国》!」

 

 僕らを明るい緑色の輝きが包みこむ。

 オーロラの輝きが増していく。


「これからどうする!?」

『大丈夫。もう終わったから!』

「え?」


 マージョリーは、僕の肉体を介してその強大な魔力を解放していく。

 オーロラが広がっていく。海市だけでなく、天市の空まで広がっていく。

 そして、僕や天藍が見ている前に、驚愕の光景が現れた。


 空に竜の力によって掲げられていた魔法陣が、両端から変形していく。

 変形というより、粉々に割られて、粉砕されていく、と言ったほうが近い。

 踏み割られたガラスみたいに、マージョリーの魔術によって干渉された魔法陣が、無数の、幾万か、幾億かという尖った銀の破片に変わっていく。銀色の小さな星々へ変形したそれが、満点の星空が頭上に広がる。

 赤い空はかけらもない。ただ、オーロラと夜の黒がある。星がきらきらと瞬きながら、こちらに落ちて来るかのよう。


 灼熱は消え去った。

 穏やかで、時が止まったようだった。


 僕たちは唖然として空を見上げている。

 竜卵の攻撃は、ここに届かないだけで、その向こうから放たれ続けている。鉄紺山の上空、魔法陣に向けて放たれ続けている。攻撃は維持されているんだ。

 だけど、海市には届かない。ここには熱された空気が残っているだけだ。


『オルドルと少し考えたんだけどね』


 マージョリーは言う。


『あの規模の攻撃魔術を、完全に防ぐのは難しい。敵も攻撃を届けるために必死でやって来るから。だからこちらもやり方というものがあるわ……。それで、相手の転移魔術を利用することにしたの』

「利用?」

『オルドルは最初、転移魔術の行く先に干渉し、転移先を一つに絞らずに細かく分断する方法を考えたの。あれをひとつの攻撃として受けたら、受けきれない。でも分割すれば、それぞれの地点で迎撃が可能かもしれない。だけど、その方法だと各地に甚大な被害が出る』


 マージョリーが僕の掌を空に向けて広げる。

 僕も抵抗しない。

 星がひとつ、手のひらに落ちてくる。

 銀色に輝く星は、僕の掌の上でくるくると回ってる。

 鏡のように反射する星の表面を見つめ、僕はその表面に《風景》が映りこんでいることに気がついた。


「これは……!」


 そこは、どこかの小さな丘だ。白い家が建ってる。

 時刻は夜。

 空には満天の星。

 家には明るい光が灯っていて、玄関から若い夫婦が現れる。

 

『攻撃を転移させる先を、わたしの力で変えたの。それは三大魔女、マージョリー・マガツの千里眼で観測し得る未来の最末端。実現する可能性が限りなく一番低い分岐のひとつ……』


 マージョリーがやったことは、たしかに彼女以外にはできないことだ。


 マージョリーは未来を視る。


 未来はひとつだけでなく、無数に分岐している。

 つまり、実現する未来と実現不可能な未来がある。

 彼女は攻撃を、熱線そのものを、この次元ではなく別の次元に移した。

 時間と空間を超越し、この海市に影響を及ぼさないどこかの未来へ。

 結果として攻撃は未来に落ち、土地を根こそぎ焼くだろう。だが、その未来はそもそも実現不可能であるから、その事実ごと《無かったことになる》。


「マージョリー……でも、これは……この未来は……」


 呼びかける僕の声は震えていた。

 銀色にきらめく星の風景には、

 彼女はオルドルの泉のほとりで見た時と同じ、大人に成長した姿で、そして隣にいる若い男性に優しく肩を抱かれている。

 彼は……。

 その事実を認識するのが辛い。


「だから、君は……最初に会ったとき、《僕の未来のお嫁さん》だって言ったんだね」


 ようやくわかった。

 あのときの素っ頓狂な発言は、狂言でも妄言でもなかった。

 大人になったマージョリーの肩を支えているのは、尖晶クガイそっくりな、赤い瞳の青年だ。今よりほんの少し成長した僕だ。


 これは、僕と彼女が恋人になり、結婚したあとの未来なんだ。


『わたしはこれまでたくさんの未来を観測したけれど、海市への直撃を防ぐ完全なシナリオは、これしかなかったの』


 僕の見ている前で、二人は笑い合いながら互いを抱きしめる。

 マージョリーの掌が、彼女を見下ろす僕の頬をいとおしげに撫でる。

 そして、やけに晴れやかな顔つきで空を見上げる。

 何が起きるのかわかりきった顔つきで。

 ふたりの顔を、明るい月が照らす。

 明るすぎる月だ。


 逃げて、と僕は叫びそうになった。

 頼む、逃げてくれ。


 でも逃げない。彼らは僕たちで、これからどうなるか知ってる。

 だって、それを選んだんだ。

 他でもない僕と、彼女が選んだ。


 、という残酷なシナリオを。


 竜卵の花の攻撃は、二人も、二人が暮らしていた白い家も、丘も、何もかもを焼き尽くしていく。


 僕はたまらず星を掴んだ。強く。

 銀色の未来の破片が皮膚を傷つけ、血が流れる。


『……ねえ、ツバキくん。わたしたち、よく似ているよね』


 現在のマージョリーが言う。


 消えてしまった未来は、これは彼女が自ら語った夢そのものだった。


 白い小さな家を建てて。

 可愛らしい犬や猫を飼って。

 愛し合う二人で、ただ日々をのんびりと暮らす。

 マージョリーはクッキーやケーキをたくさん焼いてくれたんだろうな。

 そんな平和で、何気ない日々。


 二人で、辛かったことは全部忘れて……。

 そうして暮らせたら、どんなに良かっただろう。


 そんなささやかな夢が、僕の手の中で消えていく。

 ありえない夢物語になっていく。

 彼女も、僕も、どちらも選べなかった未来が、炎に焼かれて灰になっていく。


「マージョリー……どうして、もっと早く気がつかなかったんだろう」

『おねがい、何も言わないで、ツバキくん。これ以上何かを言葉にしたら、未来が変わってしまう』


 僕は愚かだ。

 この世界でいちばんの馬鹿だ。

 何も気がつかなかった。彼女の強さ。誇り高さに。

 マージョリー・マガツは、夢のすべてが消えるとわかっていて僕のところに来た。

 自分の未来を、自分の命を、可能性のすべてを投げ捨てて、海市を救うと決めて、そうしてやって来たんだ。


 

『さよなら、ツバキくん。ありがと』



 それが最後に聞こえた声だった。


 ありがとう。

 ごめんね。



 竜卵の攻撃は未来に吸い込まれ、消失した。

 鉄紺山は雪が解け、山肌が露になっている。

 竜卵は真っ黒に枯れて崩壊、残骸がその山肌にへばりついている。

 もう攻撃を再開する余力はないだろう。


 それを確認し、天藍アオイはすべての竜鱗魔術を解除した。

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