運命がわたしを選んだのなら
36
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いつも夢のように美しく整えられたオルドルの湖畔で、マージョリーは膝を抱いて蹲っている。
水面越しに見える翡翠女王国の世界では、ヒナガツバキがイチゲたちの安否を確認し、急いで病院へと運ぼうとしているところだ。
その、触れられない現世の物語を眺めながら、マージョリーはただ蹲っていることしかできないでいた。
「これで……これで、よかったんだよね……」
自分がどうなろうと、海市を守る。人々を守る。
そう決めたのは自分自身だ。海市に、いや。翡翠女王国に危機が訪れたとき、誰にも防げない悲劇を、この世界の誰にもできなくても自分ならば防ぐことができる。
そう感じた最初の瞬間、マージョリーに迷いはなかった。
けれど彼女に与えられた千里眼が、果てのない星の海のような数々の未来の可能性が《別の未来もあったのではないか》と囁き続ける。ヒナガツバキは普通の人間なら、未来の可能性を想って胸を痛めるのだと言ったが、それはマージョリー・マガツにとっても同じことだ。
むしろ幾億の夢を、他ならない自分自身で見るからこそ、星の輝かない闇の中に本当は何か輝かしいものがあったはずではないかと考えてしまう。
彼女は残りの生を、その孤独を必死で噛みしめる。
もう何も、できることはない。
現世に対しても。
ヒナガツバキに対しても。
自分自身に対しても。
何かすれば、その瞬間に未来が分岐してしまう。確定した未来が崩れて、あの恐ろしい竜の砲撃がまた地上のどこかを襲うかもしれない。
何よりほとんど死者であるマージョリーには、未来を決定する権利がない。この夢と幻想の世界で、未来になんの影響も及ぼさないように黙っているしかないのだ。
「これで……終わった……」
達成の喜びよりもむしろ不安を噛みしめる彼女の頭上に、はらり、と何かが撒かれた。
足元に銀色の花びらが舞い降りる。
小さな花たち。
「好きな色は?」
頭上からオルドルの声がした。
振り返ると、いつもの黒装束に身を包んだ森の主が立っている。
「好きないろ?」
「何でもいーんだよ。なんでも」
「ええと、青」
マージョリーが言うと、銀細工でできた花が青く輝く。
その瞬間、湖の周りは、鮮やかな青い花畑に変わった。
先ほどまでは一輪も生えていなかったのに、一瞬で咲き乱れる。
「じゃあ、ピンクは?」
マージョリーが楽しげに言うと、青い花は桃色に咲き変わる。
黄色と言えば黄色に、黄緑と言えば黄緑に。マージョリーは七色の花束を作り、エメラルドの瞳を細めて、にこりと微笑んだ。
その様子を、オルドルは静かに見下ろしている。
「キミは、どうしようもない魔女だネ。望みは全て叶ったのに、何を嘆くコトがある?」
「だって……だって、ツバキくんがちょっとひどいんじゃないかなと思って」
「アイツは前々から色々ひどい」
「そうじゃなくて。仮にも、仮にもだよ? このマージョリー・マガツの旦那様になる可能性があった人なんだよ? もうちょっと優しくしてくれてもよくない!?」
マージョリーは少女のように頬を膨らませてみせる。
「その可能性は無数の分岐のうちの、もっとも実現する可能性が低いひとつ。つまり、キミとツバキクンが結婚する可能性は限りなくゼロに近いんじゃなかったの?」
「そうだけどお、あにめや漫画では、愛は最強の魔術だったり、次元を越えたりするものじゃん!」
「越えない。愛が最強の魔術なら魅了の魔術が最強」
「でもでもでもでもでも! マージョリー、けっこうがんばったんだもん…………夢くらい見てもよくなあい? 未来の旦那様にやさしくされたいなーとか、余ったるい夢くらい見てもいいんじゃない?」
マージョリーは唇を尖らせ、涙目になって俯く。
少女はこの世界の救世主として、何かしらの褒美が欲しいらしい。教団に匿われて成長することなく、世間とは関わらずに暮らしてきた少女らしい夢想である。実際の救世主たちが、大抵はありあまるほどの苦悶と懊悩を得て人生を終えることを知らないのだ。
「そういう夢が見たいなら、ボクにしときなよ」
オルドルはマジシャンのように掌を翻す。
青白い手の中には、青い花びらをつけた薔薇が一輪、現れる。
オルドルは手の中の薔薇を差し出す。
反対の手で指を鳴らすと、マージョリーの着ているワンピースに草花の刺繍が現れる。
そしてオーロラがたなびく銀色の髪に、野の花で織られた冠がかぶせられた。
「キミは今や世界最強の魔術師ダ。ツバキのことは忘れて、マジョ子としてこの森の主の妻になればいい」
尊大な言葉とは裏腹に、オルドルは地面に片膝を突き、巷にあふれる求婚者の姿でマージョリーを見上げていた。
マージョリーは驚いた表情になり、やがて不審げな顔になった。
「オルドル……わかってるんだからね! あなたはマジョ子の魔力だけが目当てなんでしょ……」
「そうだネ。それだけ豊富な魔力があれば、しばらくアイリーンと金鹿を何とかできるし。あとキミの美しい髪とエメラルドの瞳が魅力的だ」
「もう! バカ! バーカ! オルドルの人食い鹿! 不潔だわ」
マージョリーは舌を出して、小鹿のように逃げていく。
そして月桂樹の影に隠れ、少しだけ顔を出す。
「…………ねえ、今、魅力的だって言った? それってマージョリーのこと?」
「言った。君は誰よりも綺麗だよ。地上でキミほど美しい者はいない」
オルドルは悪びれもせず、冗談めかすでもなく、珍しく真剣な口調で言う。
「ほんとに? あなたの考えてることって、ちっともわからないんだけど」
「ボクはこの手のウソはつかない。キミは、もしも神なんてものがいるなら気まぐれにオーロラを人の形にしたのかな、と思うほど綺麗だし、表情がころころ変わるところが見ていて飽きない。何よりこんな陳腐な口説き文句で照れてるところがウブでかわいい」
マージョリーは助走をつけてオルドルを殴った。
身長が足らずに胸を叩くだけに終わったが、たぶん、オルドルを殴った者としては初めての存在になれただろう。
オルドルはというと、特に抵抗することも文句を言うこともなく、それを受け止めるだけで、緑の輝きの輪が浮かぶ後頭部を見下ろしていた。
マージョリーはか細い両腕を伸ばし、オルドルの背中に回した。
そして力いっぱい抱きしめた。
銀の森の人食い鹿を抱きしめた娘も、これが初めてだろう。
「あなたの体は草と木のにおいがするのね。オルドル、いろいろ教えてくれてありがとう」
「君が美しいってこと?」
「それもだよ。ねえ、オルドル」
マージョリーは顔を上げると、オルドルの額に生えた鹿の角へと手を伸ばした。
そこに刺さった金鹿の魔術の欠片を、そっと指で掴み、外す。
それはすんなり蛟のオルドルの元を離れた。
「これは、わたしが連れて行くね。残った魔力もあなたにあげる。だから、お願い。ツバキくんを守ってあげて」
マージョリーの足元が輝きだす。
確かに質量があったはずの彼女の体が、透明に透けていく。
青海文書の力ではない。外の世界の、避け難い規律が彼女の魂を迎えに来ている。マージョリー・マガツに残されたわずかな時間は尽きた。肉体は滅び、魂までもが自然の規律に巻き取られようとしている。
「バカだね、マージョリー……怖いくせに君は挑戦した。でも、ボクはそんなキミが好きだったよ。世界を守るだなんてちっぽけな夢のために、自分の命を投げ打つ。ボクたち物語の登場人物はね、そんな、夢物語みたいな勇敢な女の子が掛け値なしに大好きなんだ」
命の光が物語を去っていく。
オルドルの手元には、きらきらと輝く金色の星がひとつ、残っていた。
*****
イチゲとヒギリはぎりぎり治療が間に合い、入院中だ。僕も簡単な治療を受け、ズタボロになった皮膚を何とかしてもらってから這う這うの体で図書館に辿り着き、騒ぎが大きくなる前に通信機器のすべてを寝台の下に放り込んで、血と汚れでドロドロの服のまま眠りに就いた。
通信機器を放り出したのは、未だに電源の切り方を知らないからだ。
それから三時間後、僕は暖かな湯気と、茶葉のにおいで目が覚めた。
瞼を開くと、おぞましい悪夢みたいな光景が目の前にあった。
そこには、白銀の髪をなびかせた桃色の瞳の男が、ティーカップを片手に立っていたのだ。それの何がおぞましいのか疑問に思われるかもしれないが、持っているのがふわふわの風船だったとしても、持ち主が星条コチョウだという時点で悪夢だ。
僕は胸に枕を抱きしめて、部屋の隅まで逃げていた。
「おはようございます、特別なお客様」
「ルニス、やっぱり君かぁ~…………その体、持ち主に返さなかったの? いまごろ大騒ぎなんじゃない? というか、魔人が死んだ時点でキミも消滅したんだと思ってたんだけど?」
「竜たちは海市を灰に変えることこそ叶いませんでしたが、市街地には少なくない影響が出ております。行方不明者のひとりやふたり、何ひとつ不思議ではありませんとも」
琥珀色の液体に酸素を含ませながら、何かのショウみたいに高いところかカップに注ぐ見事なポット遣いを披露しながら、街のようすを教えてくれる。
イチゲたちを運び込んだ病院も、さながら野戦病院の様相だった。
防いだとはいえ、熱線や爆風の全てを排除できたわけではない。混乱はここからが本番だ。
「そしてもちろん、お客様が魔人に勝利した時点で、秘色屋敷も静かに終焉を迎えました。このルニスめが現在時刻に未だ留まっておりますのは、イスの一族としての特殊能力と、ちょっとした裏技のためでございます」
ルニスは指に挟んで、畳まれた紙片を僕へと差し出した。
四つ折りにされた少し黄ばんだ紙片を僕は何気なく受け取り、何気なく開く前に、本人に突き返した。
うっかり開いて中を見ていたら、また、どうなっていたかわからない。
たぶん、ルニスが持っているのは《ナコト写本》の一部だ。
「お利口です、お客様。そちらは、お客様がお考えの通りのものですよ。貴方様の故郷にいらっしゃるどなた様かの手によるファンメイド。表紙と裏表紙には正真正銘の人皮が用いられています。本来なら異界に留まるべきものですが、何らかの契機により天恵として秘色屋敷に流れ着いたものでございます」
クトゥルフ神話は創作だ。作中に登場する小物も現実には存在しない。
しかし、どこかのファンが似せて作りだした。大好きなアニメのグッズを作るかのように。不幸なのは、天恵として秘色屋敷にもたらされ、青海文書と最悪の結びつきを果たした点だろう。
ルニスはその頁を保管していた。おそらくイスの一族に関する記述だけを本体とは別に手元に置いておいたんだ。
「お客様は無尽蔵な凋落を続けていた我らが屋敷を救ってくださった恩人にございます。お別れの挨拶もなしに消えるのも礼儀知らずかと思いまして」
僕はティーカップを受け取った。
やたら寒々しかった縞瑪瑙の館で飲むものよりも、何倍も香りが強い。
「我らが屋敷ね……。風信子イキシアも喜んでくれてるといいけど」
「もちろんですと申し上げることがお客様の慰めになりますかどうか。残念ながら、私どもの主であるイキシアは既にこの世にはおりません」
「そうなの?」
クガイもイキシアは死んだとか言っていたけれど。
「サルイシアの能力を使い続けた代償か、意識を肉体から離し続けた弊害か、彼女はあるときから私どもの呼びかけに応えなくなったのです」
「そう……。君は悲しかった? 好きだったんだろう、イキシアのこと」
ルニスはコチョウの顔と表情筋を使って微笑んだ。
愛とは何かというろくでもない僕の問いに、ルニスは確かに答えてみせた。
己以外の他者の生存について、幸福であれ、と願うこと。
彼も青海文書の能力によって生み出された哀れな生命体だが、その思考は人のものに似てる。いや、それよりも何万倍もロマンチックだ。
「もう一度質問するよ……。もしも自分が存在していることで、そして存在し続けることで……その人が幸福でなくなってしまうなら、どうする?」
ルニスは少しだけ考え、答えた。
「私がこちらの世界に誕生したとき、ご主人様はこの世界というものに絶望しておいででした。莫大な財産と領地をお持ちの聡明な女性でしたが、旦那様はその財産を狙っているだけの禿鷹、いえ、禿鷹も鷹ではあります。失礼、哀れな溝鼠のようなお方です。もしかしたら……」
紅茶を淹れるのに使った茶器を手早く片付けながら、ルニスは遠い目をしている。
「この私めの能力で、イキシア様の憂いを晴らせるのではないかと思ったこともありました。何故自分というものがこの世に生み出されたのか、その意味を、あの方をお救いすることに求めてみたのです」
だけど、結果は惨憺たる有様だった。
ルニスとイキシアがどんな交流をしたのかは想像の余地を出ないが、彼女はサルイシアの魔術を使うことを止めることはなく、物語の世界に耽溺した。恋も愛も、彼女を救う力にはなり得なかった。そして縞瑪瑙の館が生まれ、主を失った館は暴走しはじめた。
ルニスは全てを精算するために、僕を選んだ。
「もはや、私の存在はご主人様に何ら影響を与えることはありません。恋に破れたのです」
「悔しい? それとも、辛い?」
「私の特別なお客様。それは、貴方様が本当の恋を得て、心から愛し、そして愛に破れたとき、ごく自然におわかりになることです」
「あ、なるほど。これが藪蛇ってやつか……」
「誠に僭越ながら、方解法律事務所から一件、魔術学院事務部から四件ほど、玻璃家のリブラ様から二件、そして海市市警のクヨウ様から数えきれないほどの着信がございます。魔術学院からのものはただの安否確認でしょうが、クヨウ様からのものはお出にならないほうが賢明でしょう」
ルニスは机の上に、床に放り出していたはずの学院からの借り物のタブレットとカフスを置いた。どちらもスリープモードに設定し直されてる。
「これから君はどうするの? それも藪蛇かな?」
「まずはこの体を図書館の外に持ち出して、写本は完全に焼却いたします」
ルニスは消えるつもりだ。
魔人の、黒の一角獣の角に吸い込まれた館の他のものと同じく、この世から消えてなくなるつもりなのだ。
けれど、ルニスは朗らかで、何の屈託もない表情だった。
「では、これにて。ルニスめはお客様の完全なるサーヴァントであった自負を持ちまして、さようならを告げさせて頂きたいと存じます」
「さよなら。ルニス。探索者気分を味あわせてありがとう」
ルニスが最後に浮かべたのは、唇の左側だけを持ち上げ、眉をしかめた妙な顔だった。理解不能、と頬のあたりに書いてありそうだ。
彼は僕を窮地に陥れた魔術の使者ではあったが、マージョリーと同じく、去って行くときには、妙に遠く感じられる。僕を苦しめることなく、僕を陥れることなく、まるでお互いが何も知らないままの他人のように感じられる。
彼はアパートの部屋を出て、階段を降りて、たぶん、アリスや警備員をかなり驚かせながら往来に出ていった。
それから僕の部屋の窓からちょうど見える位置に立つと、ライターで残りの写本に火をつけた。
ナコト写本の写本、とかいうかなり面白おかしいアイテムが燃え尽きたとき、コチョウの人格が戻ってきたらしい。
彼は驚き、現在地がつかめず戸惑った様子を見せた。
僕はカーテンを閉ざして、姿を見られないようにした。
もしかしたらこの図書館の存在に気がつくかもしれないが、ここの持ち主は大宰相である黒曜ウヤクのものだ。
コチョウもおいそれと手出しはできないだろう。
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