34


 マージョリーが何度も怒りの火をつけようとしているが、手遅れだ。

 怒りを思い出すたびに、僕の手に感触が戻ってくるんだ。

 剣を手にした感触が。それが人間の皮膚や肉を切り裂いたあの感触が。

 人の命が失われるとわかっていて、その奥にあるものを躊躇いなく割り砕いたその感触が、恐怖が、嫌悪感が何度でも何度でも戻ってくる。

 不思議だ。

 怒りは強い感情だ。

 それなのに、今はあまりにも脆弱で、感情を持続させることができない。


『そんなに死にたきゃひとりで勝手に死ね! でなけりゃボクと変われっ!』


 マージョリー、ではない。久し振りに聞いたオルドルの声だ。

 激しく怒鳴り、僕が動揺した隙を突いて感情を燃やし、無理やり立たせて魔法陣に対峙させる。

 しかし、すぐに力を失って座りこんだ。

 岩みたいに重たい体を、オルドルが必死に持ち上げようとしてるのがわかる。

 傍から見れば、怪我を押して無理に立ち上がろうと涙ぐましい努力をしているようにでも見えたかもしれない。でも本当のところは違う。僕はすべての行動を放棄した。立ち向かうことも、守ることも、すべてを諦めた。諦めていないのは死にかけの大魔女と、人肉食らいのバケモノだけ。皮肉だ。

 この状況を皮肉だと言わなければ、他になんといえばいいだろう。


「オルドル……おまえはマージョリーに捕まってたんじゃなかったのか?」

『言っただろ、マージョリーは敵じゃないって。キミが無茶苦茶を求めさえしなければ、ボクは彼女に全面的に降伏するヨ』


 オルドルはマージョリーに圧倒されていたが、さして抵抗もしていなかった。それはおそらく両者の利害が一致してるからだ。

 竜卵の攻撃は黒一角獣の角に導かれ、墜ちる。

 魔人が生存すれば、魔人の上に。尖晶クガイはコチョウに執着していたから、たとえ生きていても、死んでいても、どっちみち攻撃は海市を破壊する。

 オルドルは読み手を失わないために、マージョリーの考えに同調したのだ。

 いや、読み手を失わないどころか、あの攻撃を受ければオルドルの基礎になっている《本》そのものが灰になる。原典のほうは例の謎の力で無事だろうが、蛟のオルドルはそれとは別ものだ。だからこそオルドルは《師なるもの》に相応しく、マージョリーに捕まって全てを与えたんだろうな。


『賢いキミのお察しの通り、彼女の膨大な魔力とボクの魔術があれば、攻撃を防げル。なのに何を迷ってる? いつもみたいにみんなを守るとか、腑抜けたコトを言うのがキミじゃないか。呪文を唱えろ、そうすればキミの哀れな仲間をみぃんな救えるのにっ!』

「やりたくない」


 それが素直な気持ちだ。

 やりたくない。僕にはできない。

 何もかもがどうだっていいんだ。

 仲間を救うことも、竜卵の攻撃をふせぐことも、自分自身の命運も、すべて何もかもだ。


 何故そんなことをしなくちゃならない?


 懸命に戦っても、最終的に僕に与えられるものは僕の父親がほんものの尖晶クガイだとかいうクソみたいな事実ばかりだ。血まみれになり、勇気を奮い、それで何の得があるんだろう。


「オルドル、どうして僕の瞳が魔眼だって教えなかったんだ?」


 僕の瞳の色が異常な色に変わったのは、それはオルドルのせいだと思ってた。

 だけど、僕がわからなくてもオルドルが知らなかったというのは考えにくい。


『アレを今すぐ何とかしなけりゃ全員もれなく灰になるっていうのに、キミはまともじゃないゾ!』


 オルドルは「信じられない」とでも言いたげだ。

 立場がいつもと逆だ。いつもなら、頭がおかしいのはオルドルで、それを止めるのが僕のはず。それどころか、どんどん逆になっていっている。


『メイドのミヤゲに教えてやるけど、はっきり言って、わからなかったんだヨ!』

「……なんだって?」


 わからない? わからない、とか、不可能だとかいう言葉は、万能を標榜するオルドルにとって最も屈辱的な言葉のはずだ。


『ボクは君から何の魔術の痕跡もみつけられなかった。ボクの目には、キミは普通の人間に見えてた。そうでないなら、誰かがボクの目をあざむいたんだ。ちなみに、このビックリ事実に、ボクたちよりずっと前に気がつけたのニンゲンはもうヒトリいる。しかも女王国側に』


 オルドルの気持ちと繋がっているからか、解答にすぐに行き当たる。


 リブラだ。


 玻璃家の当主にして、女王陛下の侍医。あいつは古銅がこちらにやって来たとき、その体をくまなく調べてた。僕にも同じことをしたはずだ。

 事実に気がついていたなら、どうしてそのことを伝えなかったのだろうか。

 それとも、黒曜や紅華たちは最初から知っていて黙っていたのか。


『知りたかったらちょっとは手伝え! でなけりゃ疑問の答えごと炎に飲まれるよ!』


 魔法陣の花の形が完成する。

 完成の瞬間、異常な様子が見えた。

 放射される圧力が増したのは言うまでもない。光の線でできた花の輪郭や模様はそのままに、その線で囲まれた部分の赤い空が消える。

 消えて、その向こうに別の風景が透かして見える。

 それは真っ白な吹雪が吹き荒れ、雪に覆われる山の頂、《鉄紺山》の頂の光景だ。山頂に鎮座する死の花が、あちら側でも開きかけているのが見える。

 魔法陣によって、二つの隔てられた空間がひとつに繋がったのだ。


 僕は呆然としてその花を見つめていた。

 開く花弁が、魔法陣の花の形と合わさっていく。


 わかる。僕にもはっきり理解できる。魔法陣が描いているのは巨大な転移魔術。異世界に行き来する《門》と同じだ。

 あれを使って、鉄紺山から放たれた攻撃をこの着弾地点まで運ぶんだろう。

 そして地上は消し炭になる。

 でも、どうでもいい。

 僕に恐れはなく、殺戮に対する怒りもない。

 むしろ、それは望ましい未来に思える。

 別にいいじゃないか。消えたって。何か消えてはいけない理由が、ここにあるだろうか。地上にはクソみたいなものしかない。守りたいものを守れず、守るべきものも守れずに、虫けらを潰すみたいに殺すしかなかったこの僕ごと消してくれ。


『誰かが来る……』


 オルドルが言って、僕の瞳を別の方角へと動かす。

 二つの花が完全に重なりあう手前の一瞬。

 そのとき、転移魔術の魔法陣を通って、白い鳥が海市側へ飛び込んで来るのが見えた。

 それはやけに大きく、そして鳥にしては些かしなやかさに欠ける純白の硬質な、機械仕掛けにも見える翼を羽ばたかせ、急降下して来る。

 それは鳥なんかじゃない。

 純白の全身装甲をまとった騎士だ。

 僕はこれまでの全ての展開を本気で忘れるほどに驚いた。


「竜鱗騎士…………っていうか、天藍…………!?」


 ほとんど落下に近い速度で、地面の上に突き立つ槍のように降りてきた竜の騎士は、竜騎装を解除し、こちらを睨んでくる。

 白い肌と髪と美貌。不機嫌そうな目つき。それだけ揃えばまちがいない。見間違いや幻覚ではなく、降りてきたのは天藍アオイだ。


「何故お前が落下地点にいる!?」


 天藍が不機嫌を通り越し、憎悪すら感じる剣幕で怒鳴る。

 続いて周囲を確認し、イチゲやヒギリが倒れてるのも確認する。

 天藍の行動は速かった。瞬時に剣を抜き、竜鱗魔術を使い、竜鱗の防護壁を構築する。純白の竜鱗の壁が僕の前に、ついでに倒れてる先輩竜鱗騎士三人の周囲を囲むよう、何十もの層でうず高く覆いはじめる。


「これはどういう状況だ!?」


 それはこちらのセリフだ。

 まさか、天藍アオイがここにいるはずがない。

 竜卵の対処のため、竜鱗騎士団の任務のために、竜鱗騎士団団長は鉄紺山に向かったはずだ。

 天藍はしれっとした風に、或いはさも当然、といった風に言う。


「落下地点が予測できずとも、攻撃を届ける転移魔術を潜り抜ければそこは落下地点だ」


 間違いなく、頭が狂ってるとしか思えない発言だった。

 転移魔術の行く先は、間違いなく死亡率百パーセントの大災害発生地点だ。

 自殺志願者のピクニック先にならちょうどいいかもしれないが、爆発するとわかっている爆弾の爆発地点に飛び込んでいくなんて正気の人間のやることではない。


「今さらいったい、何しに来たんだよ……」


 天藍は氷の瞳で、血まみれの僕の全身を眺めた。


「決まってる。私は竜鱗騎士の務めを果たすためにここにいる」


 天藍はそう言って、僕の眼前に進み出る。

 竜鱗騎士の務め。それはもちろん、王家と王国の民を守護することだ。


「おまえの防護壁なんか、一瞬で蹴散らされるぞ」


 天藍が移植してる竜の力は他の連中よりはるかに強い。物理的な障壁を作り上げることなら、イチゲたちよりもはるかに優れた能力を発揮する。

 でも、守れるものは限られる。

 あの熱線の前では無力だ。



 天藍は堂々と言い放った。


「俺は騎士だ。生死は問題にならない。ただ命じられた通りに戦い、命令が取り下げられない限り、戦闘を続行するだけだ」


 天藍はそう言った。

 彼は見慣れないチョーカーをつけていて、はめこまれた宝石から《団長っ!? どこにいるんです、団長!! 戻って来なさい、すぐに!! お願いだから転移魔術を利用してやろう、みたいな若さゆえの過ち、みたいな、猪突猛進な蛮行を実行に移さないで!! 聞いてますかねぇ!!!?》と必死に叫ぶ、たぶんあの、彼女だ。竜鱗騎士団副団長の。苦労人の彼女の、どこか耳に懐かしい焦りまくった声が僕のところまで聞こえて来る。

 天藍は無言でチョーカーを外し、靴裏で踏みつけて、粉々に破壊した。

 つまり、天藍はいつもの独断専行でここに来たのだ。

 攻撃を避ける術なんて何一つ持ってなくても、ひたすらここを目指した。

 この戦場に……。


 ……死ぬとわかってても来たんだな。


 いつもと変わらない。あきれ果てるほどに馬鹿だ。


「そんなことして何になるわけ……?」


 投げやりの半笑いの言葉は、騎士の高潔なあり方に泥をかけるものだ。

 我ながら汚いな、と思う。

 僕は今、自分の立場や、環境や、不遇さを嘆くだけじゃなく、正しいものや美しい物にけちをつけなければ現状維持さえままならないのだ。

 何があっても他者を頼らず、自分ひとりで戦う天藍とは真反対だ。


「血と勇気の祭典で、お前は何を見た」


 天藍は素っ気なく言った。

 それだけでも驚きの反応だ。

 嘲笑など、侮蔑の言葉など、ひと睨みしただけで軽蔑して口も聞かないんじゃないか、と言う予測は裏返された。


「戦いの果てに何があるかなんて、辿り着かなければわからない。だが、お前はかつて俺と同じものを見たはずだ。それも二度。――何を見た?」


 問いかけの意味を考える。

 血と勇気の祭典で、僕は何を見ただろう。


 命懸けで戦い、何度も死んで生き返って。

 言葉にはならないけれど、僕は確かにそれを

 僕に向けて歓声を上げる人々。その喝采。愚かで惑いやすく、そしてか弱いたくさんの人たちを見た。希望に向けて差し伸べられたたくさんの手を見たんだ。

 どこに行けばわからず、誰かに導いてほしくて、僕や天藍を必死に見つめ、手を伸ばしていたたくさんの人たちを。

 その光景を思い出したとき、全身に震えが走った。

 恐れ……。

 後悔? いや、どれも違う。


「マージョリー…………まだ、僕の声が聞こえてる?」


 発した声は震えていた。



 今ならわかる。

 いや、ようやくわかった。

 僕が何をすべきか、本当はどうしたらよかったのか。


 そのとき、天藍は振り返り、掌を差し出した。

 絶対に振り返らないだろう、他人に助けを差し出す奴ではない、という先入観を盛大に裏切りながら。

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